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大門
だいもん
和歌山県伊都郡高野町高野


 大門は高野一山の総門です。ここから大門通りという広い道が山内に向けて真っすぐに延びています。現在のような門となる以前は、500mほど下方の旧道、「九折谷」に鳥居を建てて、高野山の総門としていたそうです。
 現在の位置に移された時期は、永治元年(1141)ともいわれ、その際、鳥居から門の形式に変更されました。さらに寛喜2年(1230)には五間二階の楼門に改められたそうです。
 天正5年(1577)に焼失しましたが、木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)によって慶長9年(1640)に再建されました。現在の大門は、宝永2年(1705)に再建された建物です。国の重要文化財で5間3戸の2階2重門、高さは41.8m、入母屋造りの瓦棒銅板葺きです。



高野山・壇上伽藍
こうやさん・だんじょうがらん
和歌山県伊都郡高野町高野山152


 高野山には西院谷、南谷、谷上、本中院谷、小田原谷、千手院谷、五の室谷、蓮花谷と8つの部落があります。そして、各々の地区に多くの寺院があります。
 西端には高野山の正門にあたる大門があり、国の重要文化財に指定されています。また東端には奥の院への入口である一の橋があります。
 信仰の中心は、総本山金剛峯寺の西、「壇上伽藍」と呼ばれる場所です。ここには金堂、根本大塔、東塔、西塔、御影堂、准胝堂(じゅんていどう)、三昧堂、大会堂、愛染堂、明神社、山王院、六角経蔵、鐘楼、孔雀堂、国宝に指定されている不動堂などの堂塔が並んでいます。
 壇上伽藍は奥の院とともに高野山の二大聖地です。ここは真言密教の根本道場のため弘法大師が創建した伽藍なのです。壇上伽藍には僧が修行する静寂の園という意味があるそうです。
 昔は講堂と称していた金堂は高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれます。弘仁10年(819)に創建されましたが、承和5年(838) 嵯峨天皇御願の御堂として新たになり、本尊である薬師如来像と脇侍の諸尊像が奉安されたそうです。
金堂
 正暦5年(994)、久安5年(1149)、永正18年(1521)、寛永7年(1630)、天保14年(1843)、昭和元年(1926)に焼失し、現在の金堂は昭和7年(1932)に再建された入母屋造りの鉄筋コンクリート造りの建物です。
 高村光雲作の本尊、薬師如来が奉安され、壁面には木村武山画伯の壁画があります。
金堂
 根本大塔(こんぽんだいとう)は昭和12年(1937)に再建されたものです。弘法大師が創建する際、高さ16丈(約48.48m)もの巨大な建物にしたため、在世中には完成できず、第二世の真然大徳の時に落慶したと伝えられています。
根本大塔
 この根本大塔も度々火災にあい、記録に残っているだけで5回も焼失し、その度に再建されてきました。現在の建物は、京都帝国大学教授天沼俊一博士、国会議事堂の設計にも関与した武田五一博士、古社寺修理監督の大浦徳太郎建築技師などにより設計監修され完成しました。鉄骨・鉄筋コンクリート造りで、外装のみ木材朱塗りの建物となりました。高さは創建当時と同じ高さがあるそうです。
根本大塔
 御影堂(みえどう)は五間四面の宝形造りのお堂です。もとは弘法大師の持仏堂でしたが、真如親王の筆による大師御影を祀ってから御影堂と呼ばれるようになったそうです。
御影堂
 天保14年(1843)、宝蔵の軒下から出火した火災で類焼しました。弘化4年(1847)、紀州藩徳川家が一千両を寄進して再建したそうです。御影堂と奥之院と共に挙行される大師正御影供(しょうみえく)は、山内で最も厳重に修められる法会です。
御影堂
 准胝堂と西塔の間に位置する孔雀堂は、正治2年(1200)後鳥羽上皇の発願で創建されました。本尊・孔雀明王像は仏師快慶により造立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
孔雀堂
 正治元年(1199)干ばつになりました。朝廷の命令で、僧が雨乞いをする「請雨経法」を東寺の、延杲(えんごう)僧正が頼まれました。京都の神泉苑という所で孔雀経法が催した後、大雨になりました。後鳥羽上皇は大いに喜び褒美が贈られました。それが高野山に孔雀堂を建立することだったのです。
孔雀堂
 准胝堂(じゅんていどう)は光孝天皇の願いによって天禄4年(973)頃、真然僧正が建立したといわれています。准胝堂は御影堂の西隣に位置し、本尊・准胝観音(じゅんていかんのん)を祀っています。この観音は准胝仏母(じゅんていぶつも)とも呼ばれ、高野山ではお坊さんになるための儀式である「出家得度」の本尊として祀られています。
准胝堂
 正暦5年(994)、久安5年(1149)、永正18年(1521)、寛永7年(1630)、天保14年(1843)と5回も焼失し、その度に再建されてきました。現在の建物は明治16年(1883)に再建されたものです。
准胝堂
 西塔は壇上伽藍の北西隅にあります。高野山第2世真然大徳の代に空海の図記をもとに仁和2年(887)に創建したと伝えられています。創建時は、現在のような多宝塔ではなく、五層五丈であったともいわれています。
西塔
 その後、5度も火災にあい、現在のものは天保5年(1834)覚道という僧が中心になり、正智院住職3代にわたって自力で再建したそうです。5間4面、高さ約27mの多宝塔で三昧堂右隣の東塔と一対をなしています。本尊は根本大塔の本尊に対する金剛界大日如来と胎蔵界4仏で、中尊の木造大日如来座像は国の重要文化財に指定されています。
西塔
 明神社は壇上伽藍の西端にあり、三社が並列しています。御社(みやしろ)とも呼ばれ、右から丹生明神(一の宮)、高野明神(二の宮)、十二王子百二十伴神をまつる総社(三の宮)に分かれています。弘法大師は、仏教と日本在来の神との融和を図り、高野山の地主神として丹生明神と高野明神を勧請したのです。
明神社
 丹生、高野明神社の構造形式は、一間社春日造で、総社は三間社流見世棚造と呼ばれ、どちらも屋根は檜皮葺きです。これら3社は金剛峯寺山王院本殿として国の重要文化財に指定されています。
明神社
 山王院は明神社前の通路を1つへだてた所に建つ拝殿です。地主山王を拝する場所の意で、藤原時代の創建になります。現在の建物は文禄3年(1594)の再建で国の重要文化財に指定されています。
山王院
 山王院は両側面向拝付入母屋造りの建物で、桁行21.3m、梁間7.8mあります。山王院は、毎年旧暦の5月3日修行学道の試験とも云うべき、「論議」の行われる場所になっています。竪精論議は高野山特有の学修行事であり、夜を徹してするそうです。
山王院
 六角経蔵(ろっかくきょうぞう)は六角錐(六面)のお経を収める蔵です。平治元年(1159)鳥羽天皇の皇后であった美福門院が、天皇の菩提のため浄写した一切経を納めるために創建しました。この時、荒川荘を供養料として寄進したことから荒川経蔵ともいわれます。
六角経蔵
 この時に奉納された一切経は、紺紙に銀罫を引き、金字で書写したもので、国の重要文化財に指定され霊宝館に収蔵されています。
 現在の六角経蔵は昭和8年(1933)に再建された建物で鉄筋コンクリート造り、六角形2層の塔です。
六角経蔵
 大会堂(だいえどう)は根本大塔の東にある7間(12.6m)4面のお堂です。安元元年(1175)鳥羽法王の皇女である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王が、法王の追福のため建立されました。
大会堂
 大会堂は、もと東別所にあって蓮華乗院(れんげじょういん)と称していました。治承3年(1179)西行がこの地に移築したいわれています。江戸時代から壇上で法要などあった時、ここで法衣を着替え、威儀を整える場所として使用されています。現在は法会の集会堂にもなっています。
大会堂
 三昧堂(ざんまいどう)は大会堂の右横にあるお堂で金剛界大如来を本尊としています。6世座主の済高(さいこう)が延長7年(929)頃に建立し、ここで「理趣三昧」という儀式を執り行なっていたため、三昧堂と呼ばれるようになりました。
三昧堂
 現在の建物は嘉永元年(1848)の再建で壇上伽藍の中で最も小さな建物です。3間(5.4m)、4面のお堂で、堂前には西行桜があります。西行法師手植えの桜として有名です。このお堂を修造した記念に植えられたそうです。
三昧堂
 不動堂は高野山に残る最古の建物で国宝です。建久8年(1197)、鳥羽上皇の皇女である八條女院(はちじょうにょいん)内親王が発願し、行勝(ぎょうしょう)上人によって建立されました。もともと一心院谷に建てられていましたが、明治41年に(1898)解体修理が施され、明治43年(1900)この地に移築されました。
不動堂
 本尊の不動明王座像は国の重要文化財で、不動明王に仕える8人の童子像の、八大童子立像は6体が国宝です。運慶作の制多迦童子像、快慶作の恵光童子像などが有名です。
不動堂
 愛染堂(あいぜんどう)は建武元年(1334)、後醍醐天皇の勅命によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。このお堂も何度か罹災し、現在の建物は嘉永元年(1848)に再建されたものです。
愛染堂
 本尊は後醍醐天皇御等身の愛染明王です。愛情・情欲をつかさどり、愛欲貪染をそのまま浄菩提心(悟りの心)にかえる力をもち、煩悩即菩提を象徴した明王です。
愛染堂
 東塔(とうとう)は大治2年(1127)、白河院の発願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)によって創建されました。5度も罹災し再建されてきました。
東塔
 5度目の天保14年(1843)の焼失からしばらくの間再建されませんでした。140年たった昭和59年(1984)にようやく再建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安されました。不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の二体も脇侍(きょうじ)として祀られています。
東塔



金剛峯寺
こんごうぶじ
所在地 和歌山県伊都郡高野町高野山132
Tel 0736-56-2011


 金剛峯寺は全国3600寺に及ぶ高野山真言宗の総本山です。ここで1年交代で弘法大師の身代わりを勤める検校法印の就任式や法印転衣式などの重要な行事が執り行なわれます。
 金剛峯寺の名称はもとは高野山一山の総称でした。弘法大師が「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」という経典に因んで名付けたと伝えられています。現在の金剛峯寺は江戸時代までは青巌寺と称していました
 文禄2年(1593)豊臣秀吉は母・大政所の菩提を弔うため、木食応其に命じてここに寺を建立しました。大政所の遺髪を納めたことから剃髪寺と名付けられましたが、後に青厳寺と改称しました。豊臣秀次が自害した場所としても知られています。現在の建物は文久3年(1863)に再建されたものです。
 明治になり、行政官の指導により青厳寺を金剛峯寺と改めました。そして隣接する興山寺を合併して高野山の本坊・宗務の中心となりました。山門を入ると檜皮葺の大屋根の大主殿があります。東西54m、南北63mの高野山最大の木造建築です。
 大広間では重要な法要が営まれ、持仏間には本尊・弘法大師の両脇に歴代天皇の位牌や歴代座主の位牌が奉安されています。別殿、新別殿、奥殿、新書院、経蔵、鐘楼、護摩堂などが建ち並びます。
 伽藍の入口にある鐘楼は、福島正則が父母の追福菩提を祈って、元和4年(1618)に建立された六時の鐘です。寛永7年(1640)に、正則の子、正利によって再鋳されました。その鐘銘がかなまじり文であることで有名です。明け六つ(午前6時)から2時間おきに時刻を報じるそうです。
六時の鐘



苅萱堂 密厳院
かるかやどう みつごんいん
和歌山県伊都郡高野町高野山478
Tel 0736-56-2202


 密厳院は苅萱堂の本院になっています。苅萱堂は苅萱道心(かるかやどうしん)とその子石道丸(いしどうまる)の悲話として広く知られています。朱色の鮮やかな苅萱堂は道心が庵を結んだ跡といわれています。道心と石童丸の物語が堂内に額にして掲げられています。
 加藤左衛門繁氏が花の散るのを見て発心し、法然の手によって剃髪、苅萱道心と名付けられます。その後は妻子と離れて高野山に登ったところ、妻と子の石童丸がやってきます。女人禁制のため妻は麓に残り、石童丸が一人で登ってきました。
 修行のため「父は死んだ」と言い、母と菩提を弔うよう促して山を下らせます。しかし、既に母は亡くなっていました。嘆き悲しんだ石童丸は、本当は父である苅萱道心のもとで出家。その後は決して親子であることを明かさず40年もの間、この堂で修行に励んだそうです。



女人堂
にょにんどう
和歌山県伊都郡高野町高野山709
Tel 0736-56-3508


 その昔、高野山には七つの登り口があり、高野七口(こうやななくち)と呼ばれていました。かつて七口すべてにあった女人堂はここ不動口にある女人堂のみ現存しています。高野山は開創以来女人禁制が守られ、明治5年(1872)に女人禁制が解かれるまで、女性の立ち入りが厳しく制限されてきました。
 そのため各登り口に女性のための参籠所が設けられ、女人堂と呼ばれたのです。高野山の外周には女人道があり、女性は峯から峯を巡りながら樹間から垣間見える壇上伽藍や奥の院に手を合わせて参拝したそうです。



高野山の塔頭寺院
こうやさんのたっちゅうじいん
和歌山県伊都郡高野町高野山


 宥快や長覚など著名な学僧を輩出した宝寿院(ほうじゅいん)です。教学の興隆をもたらした高野山の二大門主寺院であった宝性院(宝門)と無量寿院(寿門)が大正2年(1913)に一緒になった学問寺院です。院内には真言宗の僧となるための修行道場(専修学院)があります。
宝寿院
 正智院(しょうちいん)は永久年間(1113-1117)に学僧教覚正智坊によって開基されました。ここの中興の道範大徳は高野八傑の1人です。筑前の黒田家、薩摩の島津家などの信頼が厚く、国宝文館詞林、不動明王、五鈷鈴その他一仏像、仏画、典籍などを多数所蔵しています。 
正智院
 宝城院(ほうじょういん)は保延年間(1133-1141)に琳賢によって創建されました。仁安4年(1169)後白河上皇の高野山参詣の際、勅命で阿砂梨を置いた六ケ寺の一つです。成仏院というお寺でしたが寛永9年(1632)復興させた朝栄により宝城院と改号されました。江戸時代には閑院宮家、丹波笹山藩松平家の菩提所として壇契関係を結んでいました。
宝城院
 西禅院(さいぜんいん)は親鸞上人が修行された古跡坊です。明寂上人が最禅院を創建しました。永久3年(1115)火災によって焼失しました。そののち泉勝阿闍梨によって現在の地に移され、西禅院と改号されたそうです。
西禅院
 龍光院(りゅうこういん)は高野山真言宗の別格本山です。平安時代後期の僧明算が入って龍光院と号したそうです。かつては多くの寺領・末寺を有していたそうです。平安時代後期の絹本著色伝船中湧現観音像や聖武天皇が各地の国分寺に安置させた「国分寺経」の遺品である紫紙金字金光明最勝王経などの国宝や重文など寺宝も豊富です。
龍光院
 親王院(しんのういん)は平城天皇の第三皇子真如親王の開基です。親王は嵯峨天皇の皇太子になりましたが薬子の変に連座して仏門に入りました。弘法大師十大弟子の一人になり、多くの人々に尊拝されています。本尊不動明王は、智証大師の作として国の重要文化財に指定されています。
親王院
 総持院(そうじいん)は高野山の第28世であり、中院流総持院方の祖である総持房行恵が久安年間(平安時代)に開いた古刹です。肥後国の細川氏、松井氏、相良氏、備後国の土方氏の各大名家の菩提寺としても信仰を集めました。
総持院
 常喜院(じょうきいん)は弘法大師の第一高弟の実恵上人の開基です。その後保元元年(1156)心覚阿闍梨が再興しました。現在の建物は明治3年(1870)再建されたものです。九州、日向の城主伊東家、近江の朽木家などの大名が大檀主として名を連ねています。
常喜院
 高野山大師教会は高野山真言宗の布教、御詠歌、宗教舞踊等の総本部で、各種研修会や講習会が開催されています。大講堂は大正14年(1925)、高野山開創1100年記念として建立され、本尊には弘法大師、脇仏に愛染明王と不動明王が奉安されています。
大師教会
 増福院(ぞうふくいん)は谷崎潤一郎の著「覚海大徳の昇天」でモデルになったお寺です。清和天皇の時代に、土岐山城守の長子以空上人が入寺して中興させました。鎌倉時代には覚海大徳が高野一山の宗学を振興し、弘法大師に祈って自己の七生の流転を知り、天狗と化して昇天した事が伝承されています。
増福院
 蓮華定院(れんげじょういん)は信州上田の真田家と縁の深いお寺です。門に掲げられた提灯には六文銭の家紋が浮かび上がっています。真田家の菩提寺にもなっていて、ふすまの取っ手や、法具など、様々なところに六文銭が使われています。真田幸村の蟄居していた間もあります。
蓮華定院
 昌幸が秀吉から拝領した豊臣秀吉像、昌幸使用の南蛮鉄兜、幸村の焼酎を請う書状など真田家ゆかりの寺宝を多く所蔵しています。興山上人が豊臣秀頼より寄進を受けた、国広銘の剣は国の重要文化財に指定されています。
蓮華定院
 遍照光院(へんじょうこういん)は白河上皇様の御座所として有名です。御門は、京都御所の建春門と同じ型式をとったもので、高野山でも特に格式の高い山門です。本堂には重文指定の快慶作の阿弥陀像です。国宝、重文など多くの寺宝を所蔵しています。
遍照光院
 西室院(にしむろいん)は弘法大師が創建しました。秘仏の本尊は伝弘法大師作の児不動明王です。合祀されている多聞院本尊毘沙門天像は国の重要文化財に指定されています。また髄心院本尊薬師如来は弘法大師作と伝えられています。三基の五輪塔は源頼朝、頼家、実朝の供養塔です。
西室院
 南院(なんいん)は東大寺の南院に住していた、子島真興僧都が建立しました。本尊浪切(なみきり)不動明王(重文)は、空海が唐から帰国の際、荒波を鎮めたという伝承をもっています。初め伽藍山王院に安置されていましたが、南院住職維範(いはん)大徳の時(平安時代)にここに移されたそうです。全国にある浪切不動尊の総本家が、この浪切不動明尊ということになります。
南院
 本覚院(ほんがくいん)は平安時代の建久年間(1190-1198)に行空上人が創建しました。上人は有名な歌人である待宵小侍従の願によって登山して開いたそうです。文人との関わりも多く、江戸初期には狩野探幽が滞在し名画を残しました。伏見宮家菩提所であり、尾張徳川家、臼杵稲葉家、大洲加藤家、岸和田岡部家など帰依を受けてきました。
本覚院



高野山霊宝館
こうやさんれいほうかん
和歌山県伊都郡高野町大字高野山306
Tel 0736-56-2254


 高野山は密教美術をはじめとする重文、国宝の宝庫です。高野山霊宝館には金剛峯寺をはじめ、高野山に伝えられている貴重な仏画・仏像などの文化遺産が収蔵され、その一部が展示替えをしながら公開されています。
 博物館でもある霊宝館は大正10年(1921)に開設されました。建物は宇治平等院を模して建造され、高野山でも数少ない大正建築として登録指定文化財に指定されています。



徳川家霊台
とくがわけれいだい
和歌山県伊都郡高野町高野山682
Tel 0736-56-2011


 徳川家霊台は、徳川家康と秀忠を祀る東照宮です。寛永20年(1643)に3代将軍家光によって建立されました。2つの小さな一重宝形造り(いちじゅうほうぎょうづくり)の建物です。
 向かって右が徳川家康を祀りその念持仏を安置した薬師堂です。左が秀忠の位牌を納めた位牌堂です。江戸時代の代表的な建築として国の重要文化財に指定されています。
 境内には3代将軍以下および御三家の尊牌堂(そんぱいどう)がありましたが、明治21年(1888)に焼失してしまいました。この場所は本来徳川家との関係が深い大徳院の境内だったのですが、明治になって他の寺院と合併してしまったので霊台だけが残っているのです。



金輪塔
きんりんとう
和歌山県伊都郡高野町高野山


 徳川家霊台の向かい側の金輪公園内に高野山金輪塔があります。二間半四面の宝塔で、高さ約18m、桧皮葺きです。創建されたのは永承元年(1046)から天仁元年(1108)の間とみられています。現在の塔は天保5年(1834)に再建されたものです。この塔は高野山復興の祖といわれる明算検校の廟所であるという説もあります。
 本尊は金輪仏頂尊です。金輪というのは、極限の意で、もっともすぐれているという意味です。仏頂尊とは仏の頭頂(頂成肉髻ちょうじょうにくけい)の功徳である仏智を神格化したものです。釈迦以後に多くの如来などの諸尊が出現して、それぞれの仏に対する信仰が行なわれるようになりました。それらを統合した最高唯一の仏を求め出し、それに仏頂尊という名をつけるようになったのです。



高野山・奥の院
こうやさん・おくのいん
和歌山県伊都郡高野町高野山550
Tel 0736-56-2002


 奥の院は壇上伽藍とともに高野山の信仰の中心です。一番奥に弘法大師が62歳で入定した御廟があります。廟の手前には燈篭堂があります。寺院群の東端にある一の橋から二の橋を経て御廟橋まで約2kmあります。
 その間に20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が切れ目なく続いています。一帯には県の天然記念物に指定されている老杉古杉が生い茂っていて、樹齢千年を超えるものもあるようです。

 加藤嘉明、蒲生忠知のあと松山城に入った松平氏の墓です。松平といっても本姓は久松で、初代松平定行の父が家康の異父兄弟になります。家康の母・於大の方は、松平家に嫁いで家康を生み、離縁になった後、久松家に嫁いで、定行の父親を生んだのです。
伊予松山松平(久松)家墓所
 黒田官兵衛孝高の嫡男・長政の治めた筑前、52万石の黒田家の墓です。官兵衛は竹中半兵衛亡きあとの秀吉の軍師です。荒木村重の謀反の際、説得に出向いたものの有岡城に幽閉され、信長から疑心を抱かれ危うく処刑されそうになりました。長政は関ヶ原では東軍に属し活躍しました。
筑前黒田家墓
 前田利長は加賀藩祖・前田利家の嫡男です。夫人は織田信長の四女・永姫です。豊臣秀吉の側室淀君、2代将軍徳川秀忠夫人崇源院とは従姉妹になります。利長逝去後は玉泉院と称して高岡より金沢城に移り元和9年(1632)に没しました。享年50歳。金沢城の西の丸館跡は玉泉院丸と称されました。
加賀前田利長夫人墓所
 浄土宗の開祖である法然上人圓光大師の墓所です。法然は比叡山で天台宗を学んだ後、貴賎、男女を問わず、またどんな罪深いものでも阿弥陀仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱えるものは極楽に往生できるという浄土宗を開きました。
法然上人圓光大師墓所
 福島正則改易のあと紀州藩より浅野長晟が安芸1国・備後8郡の42万6千石の城主になりました。長晟は豊臣政権下の五奉行を務めた浅野長政の次男です。第4代藩主・浅野綱長の時に分家である赤穂藩主・浅野長矩の刃傷事件が起こりました。
安芸 浅野家墓所

 国の重要文化財に指定されている結城(松平)秀康石廟です。秀康は徳川家康の二男です。はじめは秀吉の養子となったものの、結城氏の名跡を継いで、後に越前福井藩67万石の城主になりました。結城秀康は慶長12年(1607)に34歳で父より先に他界しました。
結城秀康(家康次男)石廟
 石造の入母屋造、桁行3間(5.4m)、梁間3間の構造です。正面に軒唐破風が付いています。外壁や柱、扉には彫刻や銘文が施されています。家康はその死を悲しみ、同年この石廟を築いたとされています。
結城秀康石廟
 結城秀康の石廟の左隣には秀康の母の霊屋があります。同じ石造で桁行2間、梁間3間で切妻造です。ここも国の重要文化財に指定されています。
結城秀康と母の石廟

 深溝松平家は、徳川家康と苦楽をともにした松平諸家の一つです。有馬氏、松倉氏、高力氏のあと丹波福知山より松平家が6万5千石で島原藩に入封しました。5代続きますが、下野宇都宮の戸田家と交替しました。戸田家2代のあと、また交替して松平家が戻ってきて、幕末まで治めました。
備前島原 松平家墓所
 豊臣家墓所です。尾張中村の農家に生まれ、織田信長に仕えその優れた才知で頭角をあらわしました。長浜城址主となつて羽柴秀吉と名乗り、信長が本能寺の変で自害すると、各地を平定して天正18年(1590)北条氏を滅ぼして天下統一を成し遂げました。
豊臣家墓所
 織田信長墓所です。尾張の織田信秀の子として生まれ、信秀の死後美濃国、尾張国を傘下に治めて京に進出して室町幕府を倒しました。徳川家康と組み堺を掌中に収め安土城を築きました。延暦寺、石山本願寺も屈服させ、高野山金剛峰寺も焼き討ちしました。天正10年(1582)本能寺で家臣の明智光秀に襲われて自害しました。
織田信長墓所
 浅野内匠頭長矩の墓所です。浅野家は秀吉の妻・ねねの実家です。浅野長政は5奉行の一人でした。関ケ原の合戦では東軍につき、浅野本家は広島に入封、分家は赤穂に封ぜられました。浅野内匠頭は吉良上野介を殿中で切りつけ、将軍徳川綱吉の命により即日切腹させられました。
浅野内匠頭墓所
 庄内藩主の酒井家の墓所です。酒井忠勝は相続間もない元和5年(1619)越後高田藩10万石から信濃松代藩10万石に移封しています。元和8年(1622)出羽庄内藩の最上義俊が改易され、そこに13万8千石加増で入封しました。
出羽 庄内藩主 酒井家墓所
 加賀前田利長墓所です。加賀藩祖である前田利家の嫡男として生まれ、豊臣秀吉旗下の将校として転戦しました。秀吉没後から徳川幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築きました。
加賀前田家二代利長墓所
 伊勢亀山藩の石川家墓所です。石川家は初代康通(石川家成嗣子)は家康に仕え、慶長6年(1601)に美濃大垣5万石を与えられました。石川総慶(ふさよし)は、山城淀藩の第3代藩主でした。備中松山藩主を経て延享元年(1744)板倉勝澄と交代して伊勢亀山藩の石川家初代藩主となりました。
伊勢 亀山 石川家墓所

 徳川御三家の一つである紀州徳川家の石廟です。初代藩主頼宣(よりのぶ)は家康の十男です。正室は加藤清正の娘・あま姫です。兄・義直と同じく、頼宣も大大名になっていきます。
紀州徳川家石廟
 慶長8年(1603)急死した五兄・武田信吉の後を受けて、若干2歳にして常陸水戸20万石を拝領しました。慶長14年(1609)には駿河駿府50万石の大守になりました。元和5年(1619)紀伊和歌山55万石5千石の藩主になりました。将軍家に次ぐ高い格式を持ち8代将軍吉宗、14代将軍家茂を出しています。
紀州徳川家石廟
 紀州藩は豊臣時代には浅野家が治めていて後に安芸に移封されました。頼宣は領国の実情と前領主・浅野家の治世を事前に調査し、城下や法令の整備をしました。地士制(地侍の保護)の採用し、儒教を広め「難治の国」と称された紀伊国をよく治めました。
紀州初代藩主 徳川頼宣墓所

 高麗陣敵味方戦死者供養碑です。慶長2年(1597)、豊臣秀吉の朝鮮の役で出征した島津義弘、忠恒の父子が慶長4年(1599)、わが国および高麗・大明国等敵味方の戦死者の霊を慰めるために建立したものです。
高麗陣敵味方戦死者供養碑
 初代鳥取藩主池田光仲は備前国岡山藩主・池田忠雄の長男です。寛永9年(1632)忠雄が亡くなったため、3歳で家督を継ぐこととなりました。 光仲が鳥取に初入国したのは慶安元年(1648)、藩主となって16年を経てからだったそうです。夫人は紀州藩主・徳川頼宣の長女・茶々姫です。
鳥取 池田家墓所
 初代 市川團十郎(だんじゅうろう)は元禄時代の江戸随一の人気者でした。全身を赤く塗った荒事の創始者として歴史に名を残しています。宝永元年(1704)市村座の公演で「移徒十二段」で佐藤継信を演じていた際、舞台上で役者生島半六に刺殺されてしまいました。
市川団十郎墓所
 本多忠勝は通称は平八郎と呼ばれました。「家康に過ぎたるものが二つあり、 唐の頭に本多平八」と称えられた徳川武闘派筆頭の猛将です。酒井忠次、榊原康政、井伊直政とならんで徳川四天王の一人です。慶長6年(1601)上総国(千葉県)大多喜から伊勢国桑名に10万石で移封し本多一族の繁栄の基を作りました。
伊勢桑名城主 本多忠勝墓所
 石田三成の墓もあります。15歳で秀吉に見出され、最年少で奉行に昇進。秀吉なき後、豊臣政権防衛のため西軍で「関ヶ原の戦い」にいどみ、家康に敗れました。家康は三成を処刑し、石田村にある先祖の墓石まで破壊させ、土中に埋めさせたそうです。
石田三成墓所
 明智光秀は織田信長幕下随一の智将でしたが、天正10年(1582)謀反を起こし本能寺に信長を、二条城に信忠を攻め滅ぼします。しかしその報を聞き急遽中国から引き返した秀吉に山崎の合戦で大敗、居城の近江坂本城へ引き返す途中に小栗栖で土民の槍にかかり命を落としました。
明智光秀墓所

 島津家久は戦国大名としての島津氏を成長させた島津貴久の孫になります。慶長11年(1606)、徳川家康から一字をもらい家久と名乗りましたが同じ名の叔父がいるため忠恒という名の方が多く紹介されています。
薩摩島津家 家久 光久 墓所
 慶長7年(1602)関ヶ原の戦いで父の島津義弘が西軍に属したため、講和交渉をしていた伯父の義久に代わり、家久は家康に謝罪のために上洛し、本領を安堵されました。同年、薩摩の内城に入りました。慶長3年(1598)の慶長の役の、泗川の戦いでは父義弘とともに8千の寡兵で明軍数万を破る猛勇を見せています。
薩摩 島津家墓所

 紀州徳川家の初代藩主頼宣(よりのぶ)は家康の十男です。御三家として将軍家に次ぐ高い格式を持ち、8代将軍吉宗、14代将軍家茂(いえもち)と二人の将軍を出しています。
紀州徳川家墓所

 越後の虎とも越後の龍とも呼ばれた上杉謙信の廟です。国の重要文化財に指定されています。謙信は内乱続きであった越後を統一し、越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大しました。
上杉謙信廟
 上杉氏の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身です。関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する室町幕府の重職関東管領に任命されました。将軍足利義輝より一字をもらい上杉輝虎とも名乗りました。
上杉謙信廟

 武田信玄は甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主でした。越後の上杉謙信と5回にわたって戦をし川中島の戦いとして後代に語られています。甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河を領し、勢力を拡大させました。
武田信玄 勝頼 墓所
 武田勝頼は信玄が攻め滅ばした諏訪家の血を受け継いでいます。元亀四年、信玄が没し、跡を継いだ勝頼は天正2年(1574)、東美濃に出兵、織田方の支城を落としました。しかし天正3年、長篠城を囲んだ勝頼は織田・徳川連合軍と設楽ヶ原で戦い、大敗してしまいます。天正10年(1582)、織田・徳川の甲斐侵攻が始まり、小山田信茂の岩殿城へ向かったが信茂に裏切られ、天目山で敵の挟み撃ちにあい妻子とともに自刃しました。
武田信玄 勝頼 墓所

 真田氏は、海野棟綱あるいは真田頼昌の子とされる真田幸綱(幸隆)が小県郡真田郷を領して以後、真田姓を名乗ったようです。関ヶ原の戦いが起こると、昌幸と次男信繁(幸村)は西軍に、長男信幸(信之)は東軍に分かれました。信幸の子孫8代沼田藩主は松平定信の次男幸貫で、佐久間象山を登用して殖産興業政策を行ないました。宇和島藩主伊達宗城の子で養子に入った真田幸民は新政府側に属して会津戦争などに従軍し、子爵(のちに伯爵)となりました。
信州 真田旧伯爵家

 毛利氏の本姓は大江氏です。鎌倉幕府の名臣大江広元の四男・大江季光を祖とする一族です。鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、越後国佐橋庄南条(現在の新潟県柏崎市)から安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移った後に国人領主として成長しました。
山口 毛利家墓所
 戦国時代には国人領主から戦国大名への脱皮を遂げ、ついには中国地方最大の勢力となりました。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将になったため、周防国・長門国の2ヶ国に減封されてしまいます。江戸時代末期には長州藩から数々の優秀な志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となりました。
長州 毛利家墓所

 小出秀政と長男の小出吉政は、関ヶ原の戦いで西軍についてしまいましたが、二男の小出秀家が東軍で活躍し、その功を持って、秀政、吉政も許され、但馬出石の6万石の旧領を安堵されました。
丹波 出石 小出家墓所

 吉川家は藤原南家工藤流の流れを受け継ぐ家柄です。鎌倉時代に承久の乱で功を挙げ、播磨国福井荘(姫路市)、安芸国大朝荘(広島県北広島町)の地頭となりました。南北朝時代から室町時代にかけては土佐国の分郡守護に任命され、1313年に宗家は安芸国に移住し、駿河丸城、続いて小倉山城を拠点に勢力を誇りました。毛利家と吉川家は姻戚関係となり、毛利家は家臣として扱いましたが幕府からは諸侯の扱いを受け、維新後は子爵になっています。
周防岩国 吉川家墓所

 加賀前田家の関連の墓は彼方此方にあり大きいので目立ちます。外様大名でしたが徳川将軍家との姻戚関係が強く、準親藩の地位が与えられ松平姓と葵紋が下賜されました。大名の中で最大の102万5千石を領し御三家に準ずる待遇でした。
加賀 前田家墓所

 伊達政宗は関ヶ原の戦いで東軍、徳川家康に味方し62万石に加増され、仙台城を築きました。伊達宗家の当主は少将に任ぜられ、外様大名の中では別格の扱いを受けました。8代藩主斉村以降は30歳に達せず早死にする藩主が多く、一門からの養子でかろうじて無嗣改易を免れました。
奥州 仙台 伊達家墓所

 建久4年(1193)富士の巻狩りの際に起きた曾我兄弟の仇討ちがありました。この曽我兄弟の墓もあります。曾我十郎祐成と五郎時致が父の敵工藤祐経を討ち取りました。日本三大仇討の一つに数え上げられています。
曽我兄弟墓所
 法明上人墓所です。法明上人は融通念仏宗を復興させた人物として有名です。平安時代に天台僧・良忍によって開かれたこの宗派は鳥羽上皇や崇徳天皇などの帰依によって全国に広まりましたが、その後すたれていました。
法明上人墓所



善名称院(真田庵)
ぜんみょうしょういん(さなだあん)
和歌山県伊都郡九度山町九度山1413
Tel 0736-54-2218


 伽羅陀山善名称院は高野山真言宗のお寺です。そしてここは真田庵(さなだあん)ともよばれています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸・幸村の隠棲時代の屋敷跡でもあったからです。
 昌幸は、慶長6年(1611)無念の思いでこの地で65歳の生涯を閉じました。幸村は慶長18年(1614)、大阪城に入城、大阪冬の陣、夏の陣で奮戦、元和元年(1615)茶臼山付近で壮烈な最後をとげました。
 寛保元年(1741)に九度山出身の大安上人が、真田昌幸の墓所に地蔵菩薩を安置した一堂を造ったことでこのお寺が生まれました。善名称院は和歌山県の史跡に指定されていて、牡丹の名所としても知られています。
 六文銭の紋が刻まれた門をくぐると、八つ棟造りの重厚な三層城閣風の本堂が建ち、軒の瓦には菊花の紋章が入っています。本尊は地蔵菩薩で、境内には開山堂(大安上人の廟)、土砂堂、宝物資料館、真田昌幸の墓、それに与謝蕪村の句碑があります。



慈尊院
じそんいん
和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832
Tel 0736-54-2214


 万年山慈尊院は高野山真言宗のお寺で、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されています。弥勒堂の本尊である木造弥勒仏坐像は秘仏で寛平4年(892)の墨書があり国宝に指定されています。
 弘仁7年(816)、弘法大師が、高野山開創の時に、高野山参詣の要所のここに創建しました。高野山一山の庶務を司る政所を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場所としたのです。
 大師の母が善通寺より会いに来ましたが、高野山は女人禁制だったため、ここに住み、翌年逝去したため母公廟が営まれました。それからは女人結縁の寺として女人高野と呼ばれました。
 弘法大師はひと月に9度も20kmも離れている高野山から山道を下って、政所にいた母を訪ねたそうです。そのことで「九度山」地名になったそうです。
 慈尊院の弥勒堂は鎌倉時代後期の建築で国の重要文化財に指定されています。桁行3間(5.4m)、梁間3間の一重の宝形造りの建物で、檜皮葺きです。屋根の反りが美しく、全体に清楚な感じです。寛正6年(1465)の刻銘をもつ石造露盤宝珠1組と棟札17枚が付指定になっています。
弥勒堂



粉河寺
こかわでら
和歌山県紀の川市粉河2787
Tel 0736-73-4830


 風猛山(ふうもうざん)粉河寺は粉河観音宗の総本山です。西国三十三カ所第3番札所として知られています。清少納言の枕草子に「寺は壺坂、笠置、法輪(中略)石山、粉川、志賀」と粉河寺の名も出てきます。
 奈良時代末、宝亀元年(770)、大伴孔子古が現在の本堂の場所に草庵を結び、千手観世音菩薩を本尊として粉河寺は創建されたそうです。
 最盛期には七堂伽藍、塔頭550坊、寺領4万石を有し、高野山、根来寺に次ぐ勢力を誇りましたが、豊臣秀吉の紀州攻めで諸堂を焼失しました。現在の堂宇は江戸時代に再建されたものです。
 江戸中期の代表的な寺院建築物で、西国に三十三所の中では最も大きい本堂を初め、大門、中門、千手堂の4棟は国の重要文化財に指定されています。
 寺宝の紙本著色(しほんちゃくしょく)粉河寺縁起は鳥羽僧正筆で国宝です。本堂前の左右に築造された粉河寺庭園は、桃山時代の枯山水の庭園で上田宗箇の作庭といわれており、国の名勝に指定されています。
 本堂は宝亀元年(770)の創建で、現在のものは享保5年(1720)に再建された江戸時代中期の欅材による代表的建築です。西国三十三ヶ所の3番札所でもあり、西国札所の中で最も大きい建物です。
本堂
 他に類例を見ない特異な形態で、一重屋根の礼堂と二重屋根の正堂とが結合した複合仏堂の形式になっています。内陣の厨子の内深くに秘伝の本尊千手観音菩薩が祀られています。
本堂
 中門は入母屋造、本瓦葺きの楼門で、左右の間に四天王像を安置しています。長い年月をかけて天保3年(1832)に完成させています。国の重要文化財に指定されています。
中門
 「風猛山」の扁額は紀州十代藩主徳川治宝の直筆です。三間二戸の桜門として標準的な規模をもち、軒まわりまで良質の欅材で繊細な建物に仕上げています。
中門
 本堂の左に建つ千手堂は宝形造りの三間堂で、国の重要文化財に指定されています。宝暦10年(1760)建てられた小さなお堂です。
千手堂
 正面に秘仏の本尊の千手観世音菩薩、両側の祭壇には紀州歴代藩主とそのゆかりのある人々の位牌を祀っています。
千手堂
 境内入口に建つ大門も国の重要文化財に指定されています。宝永4年(1707)建立された、入母屋造、本瓦葺きの楼門です。仏師春日作と伝えられる金剛力士像を安置しています。
大門
 童男堂は正堂と礼堂からなり童男大士を祀っています。延宝7年(1679)の建立されています。和歌山県の指定文化財です。例年12月18日に終り観音の童男会が営まれます。
童男堂



紀伊国分寺跡
きいこくぶんじあと
和歌山県紀の川市東国分682


 紀伊国分寺は、紀の川市(旧打田町)東国分にある聖武天皇の発願で鎮護国家を目的に建てた官寺である国分寺の一つです。正式には八光山醫王院国分寺です。
 天平13年(741)、聖武天皇の国分寺建立の詔により、造営が開始され、天平勝宝8年(756)には主要伽藍が完成したようです。紀伊国では国分寺がここ旧打田町に、国分尼寺は岩出市に造営されました。
 元慶3年(879)火災で伽藍が全焼し、金堂と僧坊だけが再建され、14世紀初めに本堂が講堂跡に再建され、根来寺の末寺になりました。天正13年(1585)の紀州征伐で根来寺とともに焼き討ちされ、伽藍は再び焼失しましたが、元禄年間に本堂は再建されました。
 現存しているのは本堂だけですが、七重塔の緑泥片岩製の心礎を始め、金堂、講堂、僧房、鐘楼、軒廊の瓦積み基壇、柱跡も確認され、国の史跡に指定されています。



名手宿本陣(妹背家住宅)
なてじゅくほんじん(いもせけじゅうたく)
和歌山県紀の川市名手市場641
Tel 0736-75-3129


 名手宿本陣は名手市場村にあり大和街道に面しています。寛永7年(1630)より名手の大庄屋を勤めた地士頭妹背家の邸宅でもあります。紀州藩主の参勤交替や、鷹狩りの宿舎であったことから「本陣」と呼ばれました。
 妹背家は中世期以来「紀伊八庄司」の一つに挙げられた名家で、当時は「名手荘」「丹生谷」を領した「土豪」だったそうです。華岡青洲夫人の加恵の実家でもあります。
 主屋・米蔵・南倉が国指定重要文化財、敷地全域が国の史跡になっています。現在の本陣は正徳の火災の後に、享保から宝暦年間にかけて再建されたものだそうです。



青洲の里
せいしゅうのさと
和歌山県紀の川市
Tel 0736-75-6008


 青洲の里は江戸時代の医学者華岡青洲を顕彰するために設立されました。青洲は世界初の全身麻酔手術成功など世界の医学史に名を残しました。
 華岡青洲の住居兼診療所でもあった春林軒、黒川紀章が設計した博物館のフラワーヒルミュージアム、青洲の銅像などもあります。



根来寺
ねごろじ
和歌山県岩出市根来2286
Tel 0736-62-1144


 一乗山大伝法院根来寺は新義真言宗総本山です。本尊は大日如来、開山は覚鑁(かくばん、興教大師)です。覚鑁は平安時代後期の高野山の僧で空海以来の学僧といわれました。
 覚鑁は大治5年(1130)に高野山内に伝法院を建てました。鳥羽上皇は覚鑁に帰依し、荘園を寄進するなど手厚く保護しました。長承元年(1132)、鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院(みつごんいん)を建立しました。そして長承3年(1134)には高野山全体を統轄する金剛峯寺座主になりました。
 覚鑁は空海の教義を重んじ高野山の信仰の建て直しを計りましたが、東寺と密接な関係にあった高野山内の衆徒はこれに反発し、対立しあうようになったのです。
 保延6年(1140)覚鑁の住む密厳院などが焼き討ちになり覚鑁一門は高野山を下りたのでした。豊福寺(ぶふくじ)、円明寺を経て根来寺が出来上がってきたのです。
 最盛期の室町時代末期には堂塔坊舎2700、寺領72万石、僧兵1万人と勢力も強大となり、一大武装集団として成長しました。豊臣秀吉は、「根来一寺を滅ぼせば、紀州の諸豪族は刃を交えず降伏する」と、根来勢の壊滅を決意します。
 天正十三年(1585)、秀吉は10万の兵力で根来を攻め勝利を収めました。その時、大塔・大師堂以外の建物がすべて焼失しました。江戸時代に入って、紀州徳川家の庇護のもと復興されたのでした。
 国宝の大塔(多宝塔)は文明12年(1480)に起工し、天文16年(1547)に竣工された我国最大の木造多宝塔です。高さ40m、幅15mの二層一階建ての塔で、高野山の根本中堂を模して造られたそうです。
大塔
 初層(裳階)の平面が方形、上層が円形ですが、初層の内部は円形の内陣が造られています。全体に装飾を控えた簡素な造りですが、規模壮大で重量感のある建物です。
大塔
 大師堂は大塔とともに秀吉の焼き討ちをまぬがれた建物で、根来寺の建物の中で最古のものです。内部の須弥壇と併せて国の重要文化財に指定されています。本尊の胎内銘から明徳2年(1391)の建立とみられます。真言宗を開宗された弘法大師空海上人像を本尊として祀っています。
大師堂
 大伝法堂は根来寺を総括した本堂です。中央に5mの本尊・大日如来を安置した三尊像で、文政10年(1827)に再建されたものです。和歌山県の指定文化財になっています。
大伝法堂



岩出市民俗資料館
いわいでしみんぞくしりょうかん
和歌山県岩出市根来2306−1
Tel 0736-63-1499


 岩出市民俗資料館は根来寺の敷地内にあります。根来寺をはじめ、岩出の歴史や文化、風土、人々の暮らしの変遷を紹介する資料館です。根来寺の僧が作り出した根来塗の工房もあります。



和歌山城
わかやまじょう
和歌山県和歌山市一番丁3
Tel 073-435-1044


 和歌山城は、戦国時代末期の天正13年(1585)3月、紀州を攻めて平定した羽柴(豊臣)秀吉が、藤堂高虎らに命じて自らの縄張りで築城したと伝えられています。
 その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で勝利を得た徳川家康は、浅野幸長を和歌山城主として甲斐から入城させました。幸長は、石垣の積み替えや城郭の拡張を始め、天守や城門、櫓の建設を行い、今に残る和歌山城の基を作り上げました。
 元和5年(1619)、幸長に変わって徳川家康の十子頼宣が55万5千石の地領で和歌山城へ入城。以来幕末の第14代藩主茂承までのおよそ250年にわたって紀州藩主として御三家として執政し、和歌山城がその藩政の中心となりました。
 築城当初は、山頂部分に本丸、二の丸があり、浅野時代になって麓に「御蔵の丸」「御屋敷」「御数寄屋」などが造られました。「梯郭式」と呼ばれる構造でしたが、徳川時代には「二の丸」を北麓の平地に移し、その跡に「本丸御殿」を建てました。
 さらに南麓に「南の丸」、御数寄屋の地に「西の丸」を置き、大手門から北の京橋口に、重臣屋敷を集めた「三の丸」を置きました。
 現在の和歌山城は、内堀で囲まれた内部の天守曲輪、本丸跡の虎伏山、その麓の二の丸、砂の丸、南の丸などの石垣が残されていま。それは、当時の4分の1の規模でしかないそうです。
 天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、更に天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式と呼ばれるものです。姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられています。



熊野本宮大社
くまのほんぐうたいしゃ
和歌山県田辺市本宮町本宮


 熊野三山の中心で、全国に3千社以上ある熊野神社の総本宮です。三山の中で最も山深い所に鎮座していて、古くは「熊野坐(くまのにます)神社」という名で呼ばれていたそうです。本殿へと続く石段の両脇には旗がたなびき杉木立がうっそうと茂って荘厳な雰囲気です。
 123段の石段を登ると正面に神門があります。神門をくぐると、檜皮葺きの古色蒼然とした社殿が現れます。向かって左から第一殿・第二殿の相殿(あいどの)、第三殿、第四殿と3棟並んでいます。
 神門の先、中央にあるのが第三殿です。証誠殿(しょうじょうでん)といい、主神の家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)つまりスサノオノミコトを祀っています。この名はのちに付けられたもので、平安初期には熊野坐神(くまのにいますかみ)と呼ばれていたそうです。
 明治22年(1889)の水害時まで熊野本宮大社は熊野川・音無川・岩田川の3つの川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にありました。そこには12の社殿やいくつもの境内摂末社、神楽殿や能舞台などがあり、現在の本宮大社の8倍の規模をだったそうです。いまある社殿はそこから移築したものです。



熊野速玉大社
くまのはやたまたいしゃ
和歌山県新宮市新宮1
Tel 0735-22-2533


 熊野速玉大社は熊野本宮大社、熊野那智大社とともに熊野三山の一つで、熊野新宮、熊野権現ともいわれています。神倉山に祀られていた神々を12代景行天皇の御代に現在地に移し、新殿を造営してから神倉山の元宮に対し新宮と呼ばれるようになったそうです。
 ここでは熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ=伊邪那岐神)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ=伊邪那美神)を主祭神としています。
 徳川吉宗が寄進した糸巻太刀など国宝1200点あまりも所蔵している由緒ある神社です。境内には平重盛が植えたといわれる高さ20mの樹齢千年以上のナギの御神木が堂々と立っています。
 明治16年(1883)の大火で神輿庫、宝蔵を残して焼失し、現在の社殿は明治27年以降に再建されました。礼殿は鉄筋コンクリート造りです。



那智の滝
なちのたき
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山


 那智の滝は、那智川にかかる滝で、華厳滝、袋田の滝とともの日本三名瀑の一つに数え上げられています。那智の滝そのものを神とする
 一の滝ともいわれるこの滝は、 落差133mと日本一の直瀑で、滝の落ち口の岩盤が3つの切れ目があり、3本になって落ちることから「三筋の滝」ともいわれます。
 那智の滝には現在、「熊野那智大社別宮飛瀧(ひろう)神社」が鎮座し、大己貴命(おおなむじのみこと)が祭られています。本殿も拝殿もなく、滝そのものが御神体なのです。那智山中には「那智四十八滝」といって48の滝があります。修験者が滝行を行なってきた所です。



熊野那智大社
くまのなちたいしゃ
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町
Tel 0735-55-0321


 熊野那智大社は熊野速玉大社・熊野本宮大社とともに熊野三山と呼ばれ、古来より多くの人々の信仰を集めています。那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として栄華を極めました。
 473段の石段を登ると、標高約500mの所に6棟の社殿が姿を現わします。拝殿の正面に鈴門を挟んで本殿5棟が建っています。右から滝宮(第一殿)、証誠殿(第二殿)、中御前(第三殿)、西御前(第四殿)、若宮(第五殿)と続いています。
 御主神の夫須美神(ふすみのかみ)は伊弉冉尊(いざなみのみこと)ともいい万物の生成・育成を司るとされ、農林・水産・漁業の守護神、また縁結びの神様として崇められています。
 現在の位置に社殿が創建されたのは仁徳天皇の御世(317年)で、その後、平重盛が造営奉行となって装いを改め、やがて、織田信長の焼討に遭ったのを豊臣秀吉が 再興し、徳川時代に入ってからは、将軍吉宗の尽力で享保の大改修が行われています。本殿は国の重要文化財に指定されています。



青岸渡寺
せいがんとじ
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山8
Tel 0735-55-0001


 那智山青岸渡寺(せいがんとじ)は、天台宗のお寺で、西国三十三箇所第一番札所です。本尊は仁徳天皇の時代(4世紀)、天竺(インド)から渡来し開基した裸形上人が、那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音を胎内に含む如意輪観世音菩薩です。
 本堂は、織田信長の兵火で焼失しましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉によって再建されました。入母屋造りでこけら葺きで国の重要文化財に指定されています。
 最盛時には7ヶ寺36坊を有しました。明治初年の廃仏毀釈でこの本堂を残して、ほとんどが失われました。この本堂は如意輪堂といい、近世までは隣接する熊野那智大社とともに神仏習合の修験道場でした。
 熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全てこわされました。熊野那智大社では如意輪堂が破却を免れ、明治7年(1874)山内の信者によって如意輪堂を青岸渡寺という名の寺として再興されたのです。
 本堂と那智滝の中間に立つ三重塔は、昭和47年(1972)に再建されました。高さ25mの朱塗りの美しい塔と那智の滝は周囲の緑と調和して絶妙な美しさを描き出しています。


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