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近畿・大阪の旅          

千利休屋敷跡
せんのりきゅうやしきあと
大阪府堺市堺区宿院町西1−17−1


 千利休の屋敷跡です。屋敷跡の一角には利休が茶の湯に利用していた椿の井戸が残っています。椿の炭を底に沈めて使用したそうです。この場所は、昔は海に近く今市町といわれた所ところです。
 千利休は大永2年(1522)、堺今市町の豪商魚屋(ととや)の長男・与四郎として生まれました。17歳の時北向道陳に茶湯を学び、のちに武野紹鴎に師事しわび茶を大成させました。茶の湯をもって信長に接近し、その死後は秀吉の茶頭として仕えながら、北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るいましたが、小田原の役後秀吉の怒りにふれ自刃しました。
 現在の茶道千家の始祖であり「茶聖」と称せられています。井戸屋形は利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を用いて建てたものです。



与謝野晶子生家跡
よさのあきこせいかあと
大阪府堺市堺区甲斐町西1−1


 路面電車の阪堺電気軌道の宿院駅のすぐそばに与謝野晶子の生家跡の碑と歌碑があります。歌集「みだれ髪」などで知られ近代を代表する女流歌人・与謝野晶子は明治11年(1878)、堺の老舗菓子屋の駿河屋の鳳宗八の三女として誕生しました。
 「海恋し潮の遠鳴り数えつつ少女となりし父母の家」
 と刻まれた歌碑が建てられています。



ザビエル公園
ざびえるこうえん
大阪府堺市堺区櫛屋町西1


 フランシスコ・ザビエルはスペインの宣教師で、天文18年(1549)に鹿児島に上陸し、翌年1月に堺に来ました。この時に手厚くもてなしたのが豪商日比屋了慶(ひびやりょうけい)でした。ここはその時滞在した地です。
 昭和24年(1949)日比屋了慶の屋敷跡を来航400年を記念して整備し「ザビエル公園」が誕生しました。
 園内には彼の功績を顕彰する記念碑や「堺鉄砲之碑」なども建てられています。堺の商人は種子島から堺へ伝来した火縄銃を、金属産業の伝統を持つこの地で量産化させ、我が国最大の生産地にしました。



南宗寺
なんしゅうじ
大阪府堺市堺区南旅篭町東3−1−2
Tel 072-232-1654


 龍興山南宗寺は弘治3年(1557)三好長慶が建立した臨済宗大徳寺派のお寺です。創建当時は壮大な寺院を造営し、著名な禅僧が来住して自由貿易都市として栄えた堺の町衆文化の発展に寄与しました。
 中でも、千利休の師である武野紹鴎(たけのじょうおう)は、大林宗套に参禅して「茶禅一味」の言葉をもらいわび茶を深めました。千利休も第2世笑嶺和尚に参禅しました。
 日常の俗世を離れて禅の修行に入ったような茶の湯の生活や、知識ではなく体で会得していく茶の湯の方法を確立し、茶人としての素養を深めました。
 天正2年(1574)の松永久秀の乱入や、慶長20年(1615)の大坂夏の陣の前哨戦で、堂宇はことごとく灰燼に帰しました。
 その後、慶長12年(1607)南宗寺の12世住職となった沢庵宗彭が元和5年(1619)この地に再興させました。13世住職清巌宗渭は正保4年(1647)山門(甘露門)を造営、承応元年(1652)に仏殿の建立に着手し、現在に至っています。
 山門(甘露門)、仏殿、唐門は国の重要文化財に指定されています。仏殿の天井一面には、どこから見ても睨んでいるように見えることからその名の付い狩野信政筆の「八方睨みの龍」が描かれています。



本受寺
ほんじゅじ
大阪府堺市堺区宿屋町東3−2−40
Tel 072-238-6839


 本受寺は西宗真(洗礼名るいす)の菩提所です。若くしてしばしば呂宋方面(フィリピン)に渡航し、スペイン語に通じていたそうです。
  徳川家康はいち早くルイスを認め、南方との貿易を一任しました。るいすは3回、朱印状をもってフィリピンのルソンへ渡航しています。その渡海御朱印状が残されています。晩年法華経に改宗し、正保3年(1646)亡くなり、ここ本受寺に葬られました。



宝珠院
ほうじゅいん
大阪府堺市堺区宿屋町東3−53−2


 三光山宝珠院は、栄亮大僧正の開基で真言宗に属し本尊に虚空像菩薩を祀っています。堺事件で切腹した土佐藩士11名の墓が境内にあります。切腹した妙国寺が勅願寺であったため埋葬が許されず、向かいの宝珠院に埋葬されたのです。
 慶応4年(1868)2月堺港に上陸してきたフランス軍艦デュプレー号の水兵に対し、堺の警固にあたっていた土佐藩士がこれを阻止しようとしてフランス人11名を殺傷した事件です。フランス公使は明治新政府に対し土佐藩士の斬刑や賠償金などを要求しました。その結果、土佐藩士隊長箕浦猪之吉ら20人の切腹が妙国寺本堂庭前でフランス人士官等の立ち合いのもと行なわれました。しかし、11人が切腹した時点で、フランス人達は切腹の悲惨さにすっかり青ざめ切腹の中止を命じ、残りの9人は罪人として土佐に返されることになりました。



海会寺
かいえじ
大阪府堺市堺区南旅籠町東3−1−2


 宿松山海会寺(かいえじ)は臨済宗東福寺派のお寺で本尊は釈迦牟尼仏です。以前は開口神社(甲斐町)の隣に観応2年(1351)開創され、その後荒廃し、元和元年(1615)の大坂夏の陣で焼失しました。
 江戸時代初期、南宗寺住職の沢庵禅師の助力により南宗寺境内に再興されました。本堂と庫裏が一体となっていて珍しい造りです。門廊とともに国の重要文化財に指定されています。



少林寺
しょうりんじ
大阪府堺市堺区少林寺町東3−1−18


 元徳2年(1330)、桃源宗悟によって開山されました。開基である小林亮法の姓をとリ小林寺としました。のちに菩提達磨の少林寺にならって「少」の字に改めたそうです。かつての寺の境域は、現在の寺地町・少林寺町を合わせ両町の海浜にまで達していたそうです。
 永徳元年(1381)塔頭、耕雲庵の住持白蔵主が、鎮守稲荷明神に參籠して「霊狐」を得ました。そして狂言大蔵流の始祖・霊狐の所作を狂言に作り、『釣狐』として上演したのです。それ以後、狂言や歌舞伎関係者は『釣狐』を上演する際は少林寺に參詣し、祈願するそうです。寺内の逆芽竹を1本祈祷してもらった上で持ち帰り、上演の時の杖に使用するそうです。



大安寺
だいあんじ
大阪府堺市堺区南旅篭町東4−1−4
Tel 072-238-1054


 布金山(ふきんさん)大安寺(だいあんじ)は、臨済宗東福寺派のお寺です。応永年間(1394 - 1428)に後小松天皇の命により、徳秀士蔭(とくしゅうしいん)が東福寺の末寺として開山したとされています。
 創建時は堺の町の中心に位置し、広さは二町四方、六つの塔頭を有していたそうです。元和元年(1615)大坂夏の陣の戦火により、焼失してしまいました。その後、慶安年間に、現在の場所に移転し再興しました。
 本堂は総檜造りの書院造の建物で、方丈として使用されたようです。江戸時代初期(17世紀前半)に建てられた邸宅の部材を再利用し、天和3年(1683)に間取りを変更して移築したようです。
 屋根は本瓦葺の入母屋造、内部は上段の間を有し、書院造の部屋もある豪奢なもの。もとは、桃山時代の豪商・納屋助左衛門(呂宋助左衛門)の豪華な邸宅であったともいわれています。国の重要文化財に指定されています。



妙国寺
みょうこくじ
大阪府堺市堺区材木町東4-1-4
Tel 072-233-0369


 妙国寺は、室町時代末期、摂津・河内・和泉の三国を支配していた三好豊前守之康から寺地と蘇鉄(ソテツ)の寄進を受けた日蓮宗学僧の日bが永禄5年(1562)に開山したお寺です。
 境内には国の天然記念物に指定されている大小百本以上の蘇鉄の大木があります。織田信長が気に入り、安土城へ移植させたのですが、蘇鉄が泣き、切りつけると、血を流して苦しんだため、元の妙国寺へ返したという伝説があります。
 天正10年(1582)の本能寺の変の際、堺を訪れていた徳川家康はこの妙国寺に泊まっていたそうです。僧や油屋親子の助けを得て難を逃れたといわれています。
 慶応4年(1868)2月、フランス艦デュプレー号の水兵等が殺傷された「堺事件」の責めを追い、土佐藩士11名が切腹させられた場所でもあります。



西本願寺堺別院(北御坊)
にしほんがんじさかいべついん(きたのごぼう)
大阪府堺市堺区神明東3−1−10
Tel 072-232-4417


 西本願寺堺別院は北御坊とも呼ばれる浄土真宗本願寺派のお寺です。本堂は文政8年(1825)に再建されたもので、京都西本願寺とまったく同じ設計で堺最大の木造建築です。
 明治4年(1871)から明治14年(1881)まで、堺県庁として使用されていたそうです。明治10年には明治天皇も、堺県へ来られた時、ここへも立ち寄られたそうです。

 南北朝時代に足利義氏の第四子道祐(どうゆう)が、本願寺3世覚如に帰依して建立したのが始まりとされています。
 後に第5世道顕が文明2年(1470)に堂字を再建し、本願寺8世蓮如を招き落慶の導師としました。文明8年(1476)境内に信証院という一宇を造り、蓮如を招き住んでもらったそうです。
 本堂前に「却初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ」という与謝野晶子の歌碑があります。与謝野鉄幹の父親が西本願寺の院内僧であった関係で建てられたようです。


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