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日本の旅
近畿・滋賀の旅       近江・延暦寺・琵琶湖

琵琶湖
びわこ
 琵琶湖を擁する滋賀県は、日本列島のほぼ中央に位置しています。四周を1000m級の山地に囲まれ人口130万人余り、面積が約4000Kuの内陸県です。実に400万年以上の歴史を持つところなのです。
 琵琶湖は約670Kuの水面積を持つ我が国最大の湖であるばかりでなく、バイカル湖やタンガニイカ湖などとともに世界でも有数の歴史を持つ古代湖として知られています。
流入河川は数多ありますが自然の排出河川は淀川一本というのも大きな特徴です。大津京、比叡山、渡岸寺、安土城、白髭神社、彦根城に代表される史跡の宝庫で、穏やかな気候に育まれた人と湖が共存した独自の文化を発達させてきました。



白鬚神社
しろひげじんじゃ
滋賀県高島郡高島町鵜川215
 近畿の厳島神社ともいわれる白鬚神社の朱塗りの大鳥居です。琵琶湖の湖面に建っています。白鬚神社は約2000年前の垂仁天皇の時代に再建されたといわれる近江最古の神社です。



浮御堂
うきみどう
大津市本堅田一丁目16-18
 寺院名は臨済宗大徳寺派海門山満月寺(まんげつじ)といい、寺伝によれば、平安時代に恵心僧都源信(げんしん)(942-1017)が湖上安全と衆生救済のために、建立したとされています。
 源信自ら刻んだという1千体の阿弥陀仏を祀って、千仏閣とか千体仏堂と称したようです。ひたすら行に務め、毎日のように水想観(すいそうかん)を行ったといわれています。
 水想観というのは、紅白の蓮華(れんげ)が乱れ咲くといわれる西方浄土(さいほうじょうど)の池に思いをこらすものでした。
 源信が浮御堂でこの行を始めると、部屋の中いっぱいに水が湧き出て、それこそ浄土の池にいるような心境になったといわれています。
 現在の浮御堂は室戸台風による倒壊の後、昭和12年(1937)に再建されたものです。昭和57年(1982)にも修理が施され、往時の情緒をそのままに残しています。
 湖中に浮かぶ堂は、大津に数ある景勝地の中でも特にすばらしいものの1つであり、古くから絵画や詩歌にたくさん描かれています。
 近江八景の「堅田(かたた)の落雁(らくがん)」では、雁が列をなして冬の空を渡っていく姿を背景に浮御堂が美しく描かれ、多くの人々に深く愛されました。
 芭蕉の句が残されているほか、小林一茶・歌川広重・葛飾北斎らも詩歌や絵画を残しています。
「鎖(じょう)あけて
  月さし入れよ
       浮御堂」
          芭蕉
「湖も      
  この辺にして
      鳥渡る」
             高浜虚子      



近江神宮
おうみじんぐう
大津市神宮町1−1
 琵琶湖を見下ろす景勝地に20万平方メートルもの広大な境内を持つ近江神宮があります。大津京を造営した天智天皇を祀る神社です。
 昭和天皇が日本紀元2600年にあたる昭和15年(1940)に創建しました。天智天皇が667年に都を近江大津京に定めて、我が国の法律の源である近江令を制定したゆかりの地に建立したのです。
 石段を上りつめ堂々とした楼門をくぐると、正面に外拝殿、内拝殿、本殿が棟続きに建っています。
 近江造りという檜の素木、流造りの素朴で重厚な建築様式です。社殿は深い森に包まれており、荘源さが漂っています。
 天智天皇が我が国で初めて水時計を設け、時刻制度を確立されたことから、境内には世界の時計約3千点を集めた時計博物館もあります。
「秋の田の          
かりほの庵の苦をあらみ
わが衣手は露に濡れつつ」
       天智天皇 



三井寺
みいでら
滋賀県大津市園城寺町246
 天台寺門宗の総本山である三井寺は正式名称を長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)といいます。再三の兵火にあい焼失しました。豊臣・徳川氏の尽力で再興され、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。
 平安時代、第五代天台座主・智証大師円珍和尚の卓越した個性によって天台別院として中興され、 東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えられ、千百余年の歴史があります。
 天智・弘文・天武天皇の勅願により、弘文天皇の皇子・大友多王が田園城邑を投じて建立され、天武天皇より「園城(おんじょう)」の勅額を賜わり、「長等山園城寺」と称したのにはじまります。
 「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」の厳儀・三部潅頂の法水に用いられたことに由来しているからです。
 円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦四年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されたのです。
 その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しましたが、智証大師の教法は今日に伝えられています。
 この重要文化財の大門(仁王門)は宝徳4年(1452)滋賀県甲賀郡石部町の常楽寺に建てられました。のちに伏見城に移され、さらに慶長6年(1601)徳川家康の寄進によりここに移されたそうです。



食堂(釈迦堂)
 もとは御所の清涼殿であったといわれる食堂には釈迦如来が祀られています。室町時代初期の建物で国の重要文化財に指定されています。

金堂
 三井寺の本堂、金堂には、本尊として弥勒菩薩(みろくぼさつ)が祀られています。1300年前、三井寺が創建された時に天武天皇から賜わったと伝えられていますが、絶対の秘仏で見る事はできません。
 寺伝では、この弥勒仏は三国伝来の霊仏で、中国天台宗の高祖慧思禅師が修行されている時に降臨された弥勒仏さまが自らの分身として残された三寸二分の像であるとしています。

三井の晩鐘
 近江8景の一つ、三井の晩鐘で有名なこの鐘は、音の三井寺として日本3銘鐘の一つに数えられています。鐘楼は国の重要文化財2250kgあります。
 平成8年には環境庁より「日本音風景百選」にも認定されました。慶長7年(1602)古鐘・弁慶の引摺り鐘の跡継ぎとして鋳造されました。県の文化財に指定されています。

園城寺天狗杉
おんじょうじてんぐすぎ
 この杉は寺伝によると樹齢千年を数え伝説によって「天狗杉」といわれています。根まわり7.5m、目通り周囲4mあります。
 昭和51年(1976)大津市の指定文化財になりました。

閼伽井石庭
 日本最古の庭園といわれています。蓬莱山といい東海中にあって仙人が住み不老不死の地と考えられている霊山を形取った石組です。

閼伽井屋
 閼伽井とは仏前に供養する水を汲む井のことです。閼伽井屋はその覆屋として建てられたものです。明治39年(1906)国の重要文化財になっています。
 建物は桁行3間、梁間2間の向唐破風造りの檜皮葺きの建物です。慶長5年(1600)に金堂に引き続いて再建されています。
 内部には石組の間からこんこんと水が湧き出ています。天智天皇、天武天皇、持統天皇の三帝の誕生の際に御産湯に用いられ、三井寺の名前もここからきています。

熊野権現社
 平治元年(1159)智證大師がここに歓請し、三井修験道の鎮神とされました。現在の建物は天保8年(1837)に再建されたものです。

教待堂
 教待和尚の像を安置しています。智證大師が入寺以前にこの聖地を護持していた不思議な老僧で貞観元年大師の入山とともにこの草庵に入り姿が見えなくなったといわれています。

弁慶の引摺鐘
 奈良時代前期の鋳造です。昔、俵藤太秀郷が百足退治のお礼に龍神よりもらい受け三井寺に寄進したと伝えられる有名な鐘です。
 その後、弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると 「イノー・イノー」(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといわれています。
 武蔵坊弁慶が引摺ったという疵痕や破目などが残っています。この鐘は寺に変事があるときには、その前兆として不可思議な現象が生じ、鳴らなくなったりしたそうです。
 建武の争乱時には、略奪を恐れ鐘を地中にうめたところ、自ら鳴り響き、これによって足利尊氏軍が勝利を得たといわれるなど、まさに霊鐘というにふさわしい様々な不思議な事件をいまに伝えています。
 現在は撞かれることもなく金堂西方のこの霊鐘堂に奉安されています。また昔、武蔵坊弁慶をはじめ多くの僧兵が汁をつくって飲んだといわれる汁鍋も残っています。 

孔雀園
 寺には孔雀が飼われています。修験道の祖、役の行者「神変大菩薩」は孔雀明王の咒文を唱えて苦修練行し、遂に五色の雲を呼び、孔雀に乗って霊山に飛び去られたといわれています。

一切経蔵
 一切経蔵は仏教のすべての教典、つまり一切経(大蔵経)を納めるところです。この経蔵には版木の一切経が納められています。
 この経蔵は桁行1間、梁間1間、一重、宝形造り、檜皮葺の禅宗形式の建物です。裳階をつけているため柱間が3間3間、屋根が二重に見えます。中には一切経を納めた八角形の輪蔵(回転書架)があります。
 この経蔵は山口県の国清寺にあったものを慶長7年(1602)毛利輝元によって移されたといわれています。明治39年(1906)国の重要文化財に指定されました。

三重塔
 園城寺塔婆つまり三重塔です。もとは大和国(奈良県)の比曽寺(現在の世尊寺)にあった東塔を慶長6年(1601)に移したものだといわれています。
 大和地方における中世の塔の風格を持っています。鎌倉時代和様の様式を伝える南北朝時代頃の建築とされています。
 塔は3間3重の塔婆の形式で造られています。本瓦葺きの屋根を持ち、各重の落ちも大きく、初重目に縁をつけています。明治39年国の重要文化財に指定されました。

灌頂堂
 これも重要文化財の唐院の灌頂堂です。智証大師円珍が入唐して天安2年(856)に請来した経巻、法具類を貞観10年(868)に納め、伝法道場としたことに始まります。
 渡廊下の左側には小さなお堂の長日護摩堂があります。

唐院四脚門
 唐院は智証大師円珍和尚が入唐して天安2年(856)に請来した経巻、法具類を貞観10年(868)に納め、伝法道場としたことにはじまります。
 四脚門は唐院の表門で奧には灌頂堂(かんじょうどう)、唐門大師堂と一直線に続きます。寛永元年(1624)に建立されています。



比叡山延暦寺
ひえいざんえんりゃくじ
滋賀県大津市坂本本町4220
 杉木立にかこまれ、荘厳なたたずまいをみせる延暦寺は、かずかずの名僧を輩出した天台宗の総本山です。
 比叡山には延暦寺という名の建物はありません。比叡山そのものが延暦寺を表わしているのです。その寺域は広大で、標高848mの比叡山の山中に数百の建物があり、東塔・西塔・横川(よかわ)の三地域に分かれています。
 延暦7年(788)、京都の北東の鬼門にあたる比叡山の山頂に、唐へ留学した伝教大師最澄が帰国後、平安京鎮護のために一乗止観院という草庵を建てたのが始まりです。
 最澄没後の弘仁14年(823)嵯峨天皇より延暦寺の寺号を賜りました。円澄が西塔、円仁が横川を開き、東塔(根本中堂)と合わせて三塔が成立しました。
 数々の名僧を輩出しています。浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮、等もこの延暦寺で学びました。数多くの宗派の母なる寺院なのです。
 延暦寺の強大な力を恐れた織田信長は元亀2年(1571)全山を焼き討ちにしました。この時、延暦寺は根本中堂をはじめ大半の建物を失ったのです。
 その後豊臣秀吉や徳川家康らによって再建されました。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、宗務の実権は江戸に移りました。
 東塔には、延暦寺の中心である国宝の根本中堂をはじめ、戒壇院、阿弥陀堂、山王院など主要伽藍が建ち、西塔には、法華堂、常行堂、釈迦堂など、横川には横川中堂、恵心堂などが静かに建ち並んでいます。
 根本中堂には「不滅の法灯」が1200年の間、輝きつづけています。平成6年(1994)12月「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産登録されました。。



延暦寺東塔地区

大講堂
 大講堂は、比叡山では根本中堂とと共に最も重要な建物です。第一世天台座主の義真和尚の建立しました。
 僧侶が法華経の講義を受けたりお互いの問答をして勉強に励む学問修業の道場なのです。
 ことに古来比叡山の行事で慈恵大師以来5年目ごとに行なわれる法華大会の広学堅義は僧侶になる登竜門として現在に引き続いています。
 本尊は大日如来が祀られ、脇には聖徳太子、桓武天皇をはじめ、比叡山で学んで一宗の開祖となった法然、親鸞、栄西、道元、日蓮などご尊像が安置されています。
 以前の大講堂は昭和31年(1956)に焼失してしまいました。昭和39年(1964)に山麓にあった讃仏堂を移築したのが現存の建物です。
 大講堂は東照宮本地堂跡に建てられました。桁行7間、梁間6間、一重の堂板葺き、入母屋造りの仏堂で正面に3間の向拝をもっています。
 外観は落ち着いた穏やかな姿を見せ、内部の仏壇のまわりには華やかな彫刻で飾られています。昭和62年に国の重要文化財に指定されました。
 根本中堂は撮影禁止になっていますので大勢の観光客がこの大講堂の前で記念写真を撮っていました。

開運平和の鐘
 この鐘は伝教大師の高弟光定が天長4年(827)に鋳造しました。その後徳川初期に再鋳されています。一山の大事や、僧侶の問答の際に時金として用いられているそうです。
 大講堂前にあるこの鐘は昭和62年8月に開かれた「比叡山サミット」で世界中から集まった8大宗教の代表の方々の前で鳴らされ世界平和を皆で祈りました。

己講坂
 この石段の坂が己講坂です。5年に一度大講堂で行われる法華大会の講師をつとめる役には己講(天台職位の最高、探題次)がなります。
 己講のみがこの坂を問答往復の想をねりながら登り、ここの菩提樹の元で意を決して入堂します。釈迦が菩提樹の下で悟りを開いたという故事に習っているのです。 

戒壇院
 天台宗の僧が受戒や説戒を行うお堂。最澄の没後7日目に再建されたものです.得戒和尚、釈迦牟尼仏と文殊弥勒両菩薩が祀られています。


根本中堂
 根本中堂は最澄が建立した一乗止観院の跡に建っています。延暦寺一山の総本堂です。一乗止観院は薬師堂、文殊堂、経蔵の3棟を総称したもので後に一つの建物にまとめて根本中堂としたそうです。
 現在の建物は寛永19年(1642)に徳川3代将軍家光によって再建されたもので、正面11間、側面6間、入母屋作り銅版葺きの壮麗な建築物で滋賀県内では最大の仏堂です。
 内部は外陣、中陣、内陣に分かれています。中陣に立ち並ぶ円柱の間に手摺が据えられ、内陣と空間的に分離されています。仕切格子から暗い内陣をのぞき込むと明かりが灯っています。
 これが延暦寺創始以来1200年間消えたことがないという「不滅の法灯」なのです。織田信長により根本中堂が焼き払われた時がありました。
 この時は山形の立石寺(山寺)に根本中堂から分灯されていた「法灯」を持ってきて「不滅の法灯」を継続させたそうです。
 中陣には格天井があります。鮮やかに極彩色で描かれていて、華やかな中に格式が感じられます。
 内陣須彌壇の上、中央の厨子内に最澄上人の作とされている秘仏の本尊薬師如来が安置されているといわれています。

文殊楼
 根本中堂正面の急な石段を上がったところに「文殊楼」が建っています。貞観8年(868)慈覚大師が常座三昧の修行を行なう道場として建立されたのが始まりです。
 比叡山の総門としての重要な役割を果たす重層和唐の混合様式の楼門です。寛永19年(1642)徳川家光により再建されました。寛文8年(1668)に焼失しすぐ再建されました。
 急勾配の階段を上がった楼上には学者の神様である「知恵の文殊菩薩」が祀られています。階段は2カ所ありますが直立に近い階段ですので行き違いもできないくらい狭いです。
 桁行3間、梁間2間、二重、入母屋造り、銅板葺きの構造です。創建は根本中堂と同じくらい古いのですが再焼失したあとのものは一回り小さくなっているそうです。

星峯稲荷社
 本尊茶枳尼(だきに)天は辰孤王菩薩です。形相に6臂あり、これは6道(地獄、飢餓、畜生、修羅、人、天上)の衆生を利益教化するしるしでした。

延暦寺大書院
 この大書院は比叡山開創1150年を記念して設けられた延暦寺の大本坊です。京都大学名誉教授であった武田五一博士の設計です。
 昭和51年に天皇、皇后両陛下の行幸の際、休息所に当てられています。内外の要人の多くをここで迎えているそうです。

出世大黒天堂
 伝教大師が根本中堂を建てられる折、守護神として大黒天を祀り一山の平安と一般庶民の財福を祈ったのが始まりだそうです。
 豊臣秀吉も開運と福徳を祈願したと言い伝えられています。一名出世大黒天として人々に深く信仰されているようです。

法華等持院
 法華等持院は鮮やかな朱色に塗られています。天台密教の根本道場として貞観4年(862)に創建されましたが信長の軍勢により焼き払われてしまいました。昭和52年(1977)に400年ぶりに再建されました。

国宝殿
 延暦寺には建造物も入れて10件の国宝、64件の重要文化財があります。建造物を除く彫刻、絵画、書跡などは、大講堂の北側に建てられている「国宝殿」で随時公開されています。最澄の唐での通行許可書にあたる「伝教大師入唐牒」など含まれています。



延暦寺西塔地区

椿堂
 昔、聖徳太子が比叡山に登ったときに、使った椿の木の杖をここにさして置いたそうです。その椿が芽を出し大きく育ったところから、この堂は椿堂と名付けられたそうです。
 お堂のかたわらに椿の大木があります。その話に因んだ椿のようです。本尊は千手観音菩薩です。
 参道の下にあり、ぽつんと寂しげに建つ小さい堂です。霧も出ていて訪れる人もいませんでした。
 この椿堂で常坐修行が行なわれるそうです。常坐修行は90日間を一期として一日も休むことなく坐禅して坐り続ける修行です。


にない堂
 西塔地区は静寂な空気に包まれた美しい杉木立の中にあります。椿堂の上の参道の北側に渡り廊下でつながった二つの堂があります。
 向かって左の堂が「常行堂」、向かって右の堂が「法華堂」です。両堂を合わせて「にない堂」といわれています。
 「常行堂」は阿弥陀経を、「法華堂」は法華経をそれぞれ読経して修行する道場です。「常行堂」の本尊は阿弥陀如来で、「法華堂」の本尊は普賢菩薩です。
 念仏と法華が一体であるという比叡山の教えを表して同じ形の堂が渡り廊下で結ばれているのです。「法華堂」、「常行堂」ともに重要文化財に指定されています。
 「にない堂」では四種三昧行という修行が行われます。常坐、常行、半行半坐、非行非坐からなるといわれ、常坐は90日間、食事とトイレを除き一日も休むことなく坐禅し続ける行です。常行は90日間、本尊阿弥陀如来の周りを歩き続ける行です。
 「にない堂」の呼び名は弁慶が渡り廊下を天秤棒にして両堂を担いだという伝説にから付けられたようです。


恵亮堂
 恵亮和尚(800ー895)を本尊として祀っています。大楽大師といわれ当時比叡山では修力霊験に最も優れた和尚といわれます。
 恵亮和尚は京都の妙法院を創建した人としても知られています。


釈迦堂
 西塔の中心に建ち、伝教大師、最澄が自ら手がけた釈迦如来が本尊とされるお堂です。老杉の木立とともに堂々とした風格を持っています。
 織田信長の比叡山焼き討ちの後、貞和3年(1347)に建てられた園城寺(三井寺)の弥勒堂を、、豊臣秀吉の命で文禄4年(1596)に、ここに移築したものだそうです。
 「釈迦堂」は天台様式の典型な堂々とした風格のある建物で、延暦寺に現存する建物の中で最古のものだそうです。
 東塔の根本中堂と同じく仏殿は外陣、中陣、内陣に分かれています。
 「釈迦堂」及び鎌倉時代に造られたという本尊の秘仏「木像釈迦如来立像」は共に国の重要文化財に指定されています。
 1998年9月の台風により釈迦堂裏側の杉の大木が堂の上に倒れ、屋根二ヶ所が大きく損傷しましたが今は復旧しました。

仏足石
 釈迦が入滅の時に残された足形を石面に刻んだものです。足跡に千輻輪相があり歩行の時地に其の相が印されたことから多くの人々に信仰されました。
 「仏身は金剛にして諸漏あることなく若し行く時、足は地を離るること4寸、千輻輪相の文跡地に現じ足下の諸の虫蟻は7日安穏なり」


相輪とう
 相輪とうは普通の塔の相輪に柱をつけて地上に立てたような形をしています。上部を相輪、下部を柱、つまりとうとし、中に写経を納めています。
  現在のものは明治25年(1179)に政鋳が計画されて明治28年(1895)頃に完成した青銅製のものです。この相輪は日本の仏塔では印度の原型に最も近いもので大正6年(1917)国の重要文化財に指定されています。

鐘楼



横川地区

龍が池弁天
龍が池弁天と龍神さまの祠があります。その昔、人々を襲う大蛇がいたそうです。元三大師(がんざんたいし)が、これを聞き大蛇に「霊験あらたかな比叡山で人を困らせてはいけない。もし法力をもっていたら見せてほしい」と言ったそうです。
 大蛇は自分にできないことはないと答えたそうです。「ならば大きい姿になってみよ」と言うと大蛇は、大きくなり横川中堂をひとまきにしました。
 「たいへん見事だ。では私の掌の中に入ることができるか」と言うと大蛇はすぐに一寸足らずの蛇となりました。慈恵大師は「悪事を働くのはよくない」と観音の念力で近くの池へ封じ込めてしまったそうです。これが、蛇が池の由来だそうです。


横川中堂
 横川中堂は、首楞厳院(しゅりゅうごんいん)と呼ばれ、横川の中心となる大堂です。嘉祥元年(848)横川をひらかれた慈覚大師円仁上人が創建しました。
 横川中堂に安置されている本尊「木造聖観世音菩薩立像」は平安時代の作と伝えられています。度重なる火災の難を免れ重要文化財に指定されています。
 織田信長の比叡山焼き討ちにより、横川中堂も全焼しました。豊臣秀頼、淀君が再建したお堂は昭和17年の夏、雷火で全焼してしまいました。昭和46年伝教大師入滅1150年遠忌記念として復元されました。
 鉄筋鉄骨コンクリート建て、銅板葺き屋根の建物は当時の面影を残し、昭和の殿堂として、朱色の塗装も鮮やかにその威容を山中に現しています。
 新西国観音霊場大18番の霊場でもあり善男善女の信仰のメッカにもなっています。付近は横川全域に西国33所観音石仏めぐりもできる霊域です。 


護法石
 鹿島明神と赤山明神は比叡山延暦寺の守護神です。赤山明神は比叡山西麓の守護神でもあります。(東麓は日吉山王が守護神です。)これらを守る石です。


赤山宮
 慈覚大師円仁和尚が勅許を得て唐に留学しました。中国の赤山にて新羅明神を学びました。
 10年間の厳しい修行を無事終了できたのはこれらの守護神のおかげであるとして、赤山新羅明神を天台仏法守護神として祀っています。


根本如法塔
慈覚大師円仁が根本杉のほこらの中で法華経書写をはじめました。その写経などを納める堂として造られたのが根本如法堂です。のちに、この根本如法堂跡に多宝塔の如法塔が建てられました。現在の美しい塔は、大正4年(1925)に再建されたものです。




虚子の塔
 高浜虚子は在京の時、比叡山に登り「叡山詣」を書きました。横川中堂の政所一念寺に泊って「風流せん法」を書き比叡山をこよなく愛した俳聖でした。

  清浄な月を見にけり 峰の寺




鐘楼
 


恵心院
 「元三大師堂」の前から南の方向へ数分歩いたところに「恵心院」があります。ここは恵心僧都の旧跡で藤原兼家が元三慈恵大師のために建立した寺です。
 門前には「極重悪人 無他方便唯称弥陀 得生極楽」とあり念仏三昧の道場です。
 恵心僧都はここに籠もり仏堂修行と著述に専念し、浄土教の基礎を築きました。「往生要集」「二十五昧式」「六道十界ノ図」「弥陀来迎ノ図」など残されています。
 毎年6月10日の命日には「二十五三昧式」の講式が唱えられ僧都の報恩法要が営まれています。霧に中に浮ぶ恵心院は落ち着いて修行ができる雰囲気に囲まれています。


元三大師堂
 元三大師堂(四季講堂)は慈恵大師(元三大師)良源の住居跡と伝えられています。慈恵大師は延暦寺中興の祖としてしられ、第18代天台座主として19年間在職しました。
 四季講堂とも呼ばれるのは、康保4年(967)から村上天皇の勅命で春夏秋冬それぞれの季節に法華経の論議が行われたことから名付けられたそうです。
 始めは弥勒菩薩を本尊としていましたが、今は元三大師の画像を本尊として祀って大師信仰の根本道場となっています。
 元三大師堂は桁行5間、梁間4間、一重、入母屋造り、瓦棒銅板葺きのたてものです。現在の建物は承応元年(1652)の建立ということです。
 正面中央は双折唐戸(ふたつおりからど)でその左右に蔀戸と舞良戸をはめ、側面はほとんどが板壁で囲まれた素木造りで低い縁高欄が周囲を繞っている堂々とした建物です。
 ここはおみくじ発祥の寺といわれています。今でも、先ず僧侶の前で自分の悩み事を話し、おみくじを授受します。そしておみくじに書いてある内容について10分程度僧侶から教えを受けます。
 本堂に向かって左側に建っている奮恵雲院です。


比叡山行院
 天台宗の修行道場である比叡山行院が元三大師堂の東側にあります。



龍 潭 寺
りょうたんじ
彦根市古沢町1104
 石田三成の居城があった佐和山の西麓に開運の「だるま寺」としても有名な井伊家の菩提寺、龍潭寺があります。
 井伊氏の始祖、共保(ともやす)以来の井伊家の菩提寺で、奈良時代行基によって遠江国(現静岡県)井伊谷に開基されました。臨済宗妙心派の寺院です。
 井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天が佐和山(232.5m)山麓に移築しました。むかしは全国有数の禅宗大学寮として栄えました。
 学僧の教科目に造園があり、学僧が実習として造った庭園が残っています。特に方丈南庭は白砂48の石を組んだ普陀落(ふだらく)の庭として有名です。
江戸時代初期に建立された方丈は、彦根にある数少ない方丈建築の1つだそうです。寺院裏山の墓地には、彦根御前とうたわれた井伊直弼の母の墓や、直弼の側室であった里和の文塚など、多くの史跡が残っています。 



弁財天堂
大洞弁財天 長寿院
おおほらべんざいてん ちょうじゅいん
彦根市古沢町1139
 彦根城の北東に位置し、鬼門除けとして建立されました。彦根日光といわれ、権現造りのお堂は内外塗装、極彩 色が施されています。これは藩主直興が日光の総普請奉行であった関係で本堂を日光東照宮に似た典型的な権現造りにしたのです。

 山門の扉が額縁となって彦根城が真正面 に見渡せます。楼門(二天門)は、日月の二神像を安置し、楼上には大黒天像四千体を安置しています。
 重要文化財の本堂は元禄9年(1696)竣工されました。内陣には6尺有余の大弁財天尊を祀ってあります。

 西国、秩父、阪東などの観音100カ所、諸国の仏社281カ所の土砂を取集して路石に埋めてあります。一度参拝すればそれらの地で巡礼したことになるといわれています。



築城以来井伊氏十四代の息吹を残す三重天守
彦根城
(別名・金亀城)
ひこねじょう
 江戸時代初期の元和8年(1622)、井伊直勝が琵琶湖北東岸の金亀山に、父・直政の意志を継いで完成させた城が彦根城です。

 直政は、慶長六年(1601)徳川家康から石田三成の近江国の旧領を与えられて佐和山城に入ったのですが、中世の山城で交通が不便なこともあり、新たに近世城郭の建設を構想しました。合戦時の鉄砲傷が原因で直政は慶長7年に死没し家老の木俣守勝の進言により、金亀山を最適地として同8年(9年説も)から築城を開始した。

 築城から城郭完成まで二十年の歳月をかけた大工事で幕府の総力をあげた国家的事業となりました。この時、天守は近くの京極高次の大津の城から移されたと伝えられます。

 西の丸三重櫓は浅井長政の小谷城、天秤櫓は豊臣秀吉の長浜城、太鼓門は石田三成の佐和山城からそれぞれ移築されたといわれています。 

 彦根城は築城から明治の廃藩置県まで、一度の領主替えもなく井伊氏十四代が在城し続けました。
 彦根城は、幕末の安政の大獄で有名な彦根藩十三代藩主である大老井伊直弼など、時代と共に幕府の中核となる人物を輩出しました。



多賀大社
たがたいしゃ
滋賀県犬上郡多賀町多賀604
 母が病気の時に豊臣秀吉も祈願し叶ったという多賀大社です。門前に架かる太閤橋は秀吉の奉納で築造されました。
 伊勢神宮に祀られている天照大神の親である、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)が祀られています。
 「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢はお多賀の子でござる」と歌われました。
 御祭神である伊邪那岐大神と伊邪那美大神がお互いに誘い合って行われた「国生み」の大業は我国の全ての源です。「縁結びの神様」として広く信仰されています。



西明寺
さいみょうじ
滋賀県犬上郡甲良町池寺26
 承和元年(834)に仁明天皇の勅願により三修上人により開かれた天台宗の寺院です。本堂は鎌倉時代の代表的建築物で国宝第1号に指定されました。
本尊の薬師如来を守護する十二神将は、それぞれの頭上に12支の干支の動物を乗せ、自分の生年の守り本尊とされます。
平安、鎌倉、室町の各時代を通じて祈願道場・修業道場として栄えましたが、織田信長により比叡山の直後に焼き討ちにあいました。
 湖東三山の一つです。本尊 薬師如来像、釈迦如来、不動明王と二童子、二天王の重要文化財の他、親鸞聖人自作と伝えられる 親鸞聖人像などの仏像が多数あります。
  庭園は江戸初期の有閑の作庭で国指定の名勝です。樹齢250年の不断桜が満開になる11月には紅葉も同時に楽しめます。



金剛輪寺
こんごうりんじ
滋賀県愛知郡秦荘町松尾寺874
 湖東三山の一つ、金剛輪寺は聖武天皇の祈願寺として行基菩薩が天平13年(741年)に開かれました。
 本尊聖観世音菩薩は行基の作といわれています。
 彫刀途中に赤い血が出たことから、あら彫りのままの本尊は『生身の観音さま』と呼ばれています。
 鎌倉時代に建造の本堂は国宝に、三重の塔と二天門は重要文化財に指定されています。庭園は国指定名勝です。紅葉が美しく血のように紅く染まることから『血染めの楓』として知られています。
 本堂の大悲閣は元寇の役に際し、大祈祷を行った霊験に感謝して弘安11年(1288年)再興されたものです。代表的な鎌倉期建造物として国宝に指定されています。
 この辺りのお寺は織田信長の焼討ちにあった所が多くここも例外ではありませんでした。本堂、三重塔などは当山僧侶の働きにより、辛うじて焼失を免れ、その後、徳川家康の寄進を基に復興してきました。



百済寺
ひゃくさいじ
滋賀県愛知郡愛東町百済寺丁323
 湖東三山の中で最も古い天台宗の寺です。推古天皇の頃、聖徳太子の勅願により御堂は百済の梵閣「龍雲寺」を模して建てられたと伝えられています。
 平安から室町時代にかけて巨大寺院として栄え、堂塔三百余坊を容し「天台別院」と称されました。しかし織田信長の焼き討ちなどでほとんどの建物が焼失しました。
 江戸時代に本堂、仁王門、山門等が再建されました。古仏や文化財が多く、本尊は秘仏の十一面観音。天下遠望の池泉回遊式庭園、千年菩提樹、春椿、弥勒石像も有名です。


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