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大阪城
おおさかじょう
大阪府大阪市中央区大阪城
Tel 06-6941-1144


 大阪城は豊臣秀吉が天下統一の後、天正元年(1573)に着工しました。12年の歳月をかけて天正13年(1585)完成させました。日本3大名城の一つで、城跡一帯は、国の特別史跡に指定されています。また、大手門 、塀、櫓など13もの建造物が国の重要文化財に指定されています。
 秀吉は5層の天守閣を中心に大城郭を築いたのでした。大手門、多聞櫓、千貫櫓が立ち、西の丸庭園が広がっています。南の堀際には一番櫓、六番櫓が往時の面影を偲ばせます。
 明応5年(1496)本願寺蓮如(第8世)が今の大阪城付近の石山に坊舎を営んだのが始まりです。この坊舎は大阪本願寺と呼ばれる大寺院となりました。
 周囲に深い堀と高い塀、50もの出城を備えた一大城郭となり、大いに権勢を奮いました。
 11世顕如の時、織田信長との間に11年間にもわたる石山合戦が勃発しました。信長は朝廷に取入り、朝廷の仲介により本願寺を紀伊に移転させたのでした。その際、寺の伽藍など全焼したということです。
 信長は甥の津田信澄・丹羽長秀に命じて本願寺の跡地に新城を築かせようとしましたが、本能寺の変で亡くなってしまいました、その遺志を継いだ豊臣秀吉は天正11年(1583)この要衝の地に大阪城を築こうと決意しました。
 完成に1年半を要した本丸は、大友宗麟が三国無双と称えたように豪壮な城郭でした。石山本願寺跡の台地を造成し、石垣を積んで築かれました。秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、総構えが建設され、三重の堀と運河によって囲むなど巧妙な防衛設備も施されました。
 秀吉没後、嫡子・秀頼が入城しましたが関が原の合戦で石田三成が敗れ、豊臣氏は一大名に成り下がってしまいます。慶長20年(1615)大坂夏の陣で兵火にかかり全焼してしまったのです。
 その後、大坂城は家康の外孫松平忠明に与えられましたが、2代将軍徳川秀忠は元和5年(1619)幕府直轄領(天領)に編入し、翌年から大坂城の再建に着手しました。3期にわたる工事を経て寛永6年(1629)完成させました。
 寛文5年(1665)落雷によって天守閣は焼失し、以後は江戸時代を通じて天守閣は再建されなかったそうです。
 慶応4年の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は敗北し、大阪城にいた徳川慶喜は船で江戸へ逃亡しました。城は新政府軍に開け渡されたのですが、この混乱による出火で城内の建造物のほとんどが焼失してしまったそうです。
 昭和3年(1928)、当時の大阪市長關一は、天守の再建を提案し、集められた市民の募金150万円によって陸軍第四師団庁舎移転と天守建設がすすめられました。鉄筋コンクリートの天守閣は昭和6年(1931)完成し、平成9年(1997)大規模な改修が行なわれて今日に至っています。



法善寺
ほうぜんじ
大阪府大阪市中央区難波1−2−16


 天龍山法善寺(ほうぜんじ)は、浄土宗のお寺です。このお寺は千日念仏を行ったことから俗に千日寺と呼ばれました。その寺の前を千日前と呼んだのでした。
 明治時代、この法善寺境内に、ちょっと変わった善哉屋が開店しました。文楽の太夫、竹本琴太夫こと「木文字(きもんじ)重兵衛」という人がはじめた「お福」という名のお店でした。
 一人前なのに二杯のお椀に分けて善哉を出したのです。めおとだからという理由が受けて夫婦善哉のモチーフになりました。
 織田作之助の小説「夫婦善哉」はこの善哉屋や法善寺を舞台にした小説で大ヒットしました。映画化もされました。
 「お福」という名の善哉屋は「夫婦善哉」という名に変えて今も盛っています。
 また、藤島桓夫のヒット曲「月の法善寺横丁」も法善寺を有名にしました。



緒方洪庵宅(適塾)
おがたこうあんたく(てきじゅく)
大阪府大阪市中央区北浜3−3−8
Tel 06-6231-1970


 幕末の蘭学者医者であった緒方洪庵が蘭学塾「適塾」を開いた場所です。長崎での蘭学修行を終えた洪庵は、ここ大坂瓦町に天保9年(1838)塾を開いたのでした。
 門下生は、橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉、長與専斎、大鳥圭介、佐野常民など、千人に及んだそうです。
 洪庵時代の建物は、間口約6間(約12m)奥行き約21間(約39m)の敷地に建てられた、建坪90坪あまりの2階屋だったそうです。
 昭和51年(1976)〜56年(1980)に行なわれた文化庁による解体修復工事によって、洪庵時代の建物によみがえりました。国の重要文化財に指定されています。



大阪証券取引所本館
おおさかしょうけんとりひきじょほんかん
大阪府大阪市中央区北浜1−8−16


 大阪証券取引所本館は江戸時代は諸藩の蔵屋敷があった付近に建っています。大坂の米穀取引所を起源に、五代友厚らが発起人となって設立された大阪株式取引所が前身となっています。
 正面の銅像は功績のあった五代友厚です。この建物は玄関部に装飾されていない6本の列柱が入る簡略化された新古典主義様式を基調としています。この様式はドイツとアメリカで発展し、モダニズムが興隆した1930年代に全盛を極めました。



本経寺
ほんけいじ
大阪府大阪市中央区中寺町2ー1
Tel 06-6761-4802


 本経寺山門の横には「豊竹若太夫墓所」という石碑が建っています。豊竹若太夫は竹本義太夫と並び、江戸時代に活躍した浄瑠璃の太夫で「竹本座」のライバル「豊竹座」の創始者であります。
 天声の美声を生かした華麗な節回しは、世の人から竹本座の「西風」に対し、「東風」と呼ばれる独特の芸風を確立したそうです。この竹本座と豊竹座が競い合いで浄瑠璃が発展したそうです。この両者が後には融合し、現在の浄瑠璃の節回しの基本となっているそうです。豊竹若太夫は明和元年(1764)84歳で没しここに葬られました。



豊国神社
ほうこくじんじゃ
大阪府大阪市中央区大阪城2−1
Tel 06-6941-0229


 豊国神社は大阪城公園内にあり、豊臣秀吉、秀頼、秀長を祀っている神社です。出世開運にご利益があると大勢の参拝客が来るそうです。
 明治天皇の勅命によって創立されることになりました。京都東山の豊国(とよくに)神社の別社として明治12年(1879)中之島の現在の中央公会堂のある場所に建てられたそうです。
 大正元年(1912)中央公会堂の建設に伴い、現在の府立中之島図書館の西側に移転しました。大正10年(1921)別社から独立、豊国(ほうこく)神社に改称し、府社に列せられました。
 昭和36年(1961)大阪市庁の拡張、増設のため現在の大阪城公園に移転し、現在に至っています。一の鳥居前には大坂夏の陣で討ち死にした木村重成の表忠碑があります。



高津宮
こうづぐう
大阪府大阪市中央区高津1−1−29
Tel 06-6761-2628


 高津宮(こうづぐう)は難波高津宮に遷都した仁徳天皇を主祭神とし、祖父の仲哀天皇、祖母の神功皇后、父の応神天皇を左座に后の葦姫皇后と長子の履中天皇を右座に祀っています。
 貞観8年(866)、勅命により難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのが起源といわれています。
 天正11年(1583)、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売古曽神社の境内(現在地)に遷座し、比売古曽神社を地主神として摂社としたそうです。
 明治5年(1872)には府社に列格しました。昭和20年(1945)3月の大阪大空襲によって神輿庫を残して社殿が全て焼失してしまいました。昭和36年(1961)10月に再建され現在に至っています。
 古典落語「高津の富」の舞台として知られています。富くじ(現在の宝くじ)は寺や神社の修理基金を集めるために江戸時代に盛んに行なわれたそうです。
 「高津の富」は高津神社が舞台となった落語で宿賃を踏み倒そうとした男がなけなしの一分の金で千両を当ててしまった話だそうです。古典落語「高倉狐」「祟徳院」もここが舞台になっています。



高倉稲荷神社
たかくらいなりじんじゃ
大阪府大阪市中央区高津1−1−29


 高津宮本殿に向かって右手に摂社の高倉稲荷神社が鎮座しています。高倉稲荷神社は商売繁盛・芸能の技能上達の神として知られています。高倉さんの初午祭は祭礼が初午の日もしくは午の日に行われる習慣から呼ばれるようになったそうです。
 古典落語「高倉狐」の舞台でもあります。高倉稲荷前の茶店が登場します。狐が人間に化けたところを見た男が、狐を騙して料理屋に連れて行き、散々飲んだり食べたりした後、狐にお勘定をもたせるというような話です。



難波宮跡
なにわのみやあと
大阪府大阪市中央区法円坂1


 難波宮跡は大阪城の南、法円坂一帯におかれた飛鳥・奈良時代の皇居の跡です。古代の都にあった古瓦や土器、多くの建築遺構が現在も発掘されています。
 5世紀の初め、仁徳天皇の皇居であった難波高津宮、大化改新後の白雉4年(653)に完成した孝徳天皇の難波長柄豊崎宮(なにわながらとよさきのみや)、天武天皇の難波宮、聖武天皇が神亀3(726)造営を行った「難波宮」の4回、ここに皇居がおかれたということです。
 昭和28年(1953)昭和市営法円坂住宅の建設現場から破片が出土したのをきっかけに発掘調査が行なわれ難波宮跡の存在が明らかになってきたのです。宮殿の中心部とされる約万平方m余りの範囲が国の史跡に指定されました。
 敷地内には、難波宮の大極殿の基壇を復元した石造りの壇なども造られています。現在も史跡公園として整備がすすめられています。隣接する歴史博物館では発掘された遺跡を展示しています。



大阪歴史博物館
おおさかれきしはくぶつかん
大阪市中央区大手町4−1−32


 大阪歴史博物館は、古代の首都・難波宮(なにわのみや)史跡公園の北西端に平成13年(2001)に開館しました。
 大阪歴史博物館の前身は大阪城公園内に昭和35年(1960)に開館した大阪市立博物館(旧陸軍第四師団司令部庁舎)です。歴史系博物館の先駆けとなる存在です。館蔵資料は10万点を超えているということです。
 地下1階に難波宮遺構が保存されていて、ガイドツアーによって見学ができるようになっています。10階は古代フロア、9階は中世近世フロア、8階は歴史を掘るフロア、7階は近代現代フロアの常設展示が見られます。
 6階は特別展示フロアになっていて、入場料も別で展覧会毎に金額が設定されています。
 エレベータで一気に10階まで上がると奈良時代の大阪の難波宮にタイムスリップします。



淀屋の屋敷跡
よどやのやしきあと
大阪府大阪市中央区北浜4−1


 大阪の御堂筋に架かる淀屋橋は江戸時代の豪商「淀屋」がつくった橋だといわれています。現在は石碑が残っているだけですが、このあたりに1万坪の広さの屋敷を構えていたそうです。淀屋初代の常安(じょうあん)は、北浜で材木商を創業し秀吉の時代に淀川の改修工事、中ノ島の開拓で財をなしました。2代目の个庵(こあん)は米市場、魚市場の開設、交易、金融業などにも手を伸ばし巨万の富を築きました
 宝永2年(1705)5代目の淀屋三郎右衛門(さぶろうえもん)のとき、ぜいたくな生活は町人身分を越えるものとされ、幕府から全財産を没収され、大阪を追われたということです。



上方浮世絵館
かみがたうきよえかん
大阪市中央区難波1−6−4
Tel 06-6211-0303


 上方浮世絵とは、江戸時代後半から明治時代初期まで、おもに大坂で作られていた浮世絵版画です。歌麿や広重など、江戸の浮世絵とは異なり、役者の個性をそのまま描いています。
 上方を代表する浮世絵師・春好斎北洲の作品など約30点を常設展示しています。平成13年(2001)道頓堀、法善寺の門前にオープンした私設の美術館です。



道頓堀
どうとんぼり
大阪府大阪市中央区道頓堀


 道頓堀川は中央区を東西に流れて、東横堀川と木津川を結ぶ運河です。ここを開削した安井道頓から名を付けられたそうです。橋からは昔からのグリコの看板がよく見えます。
 龍の看板が目立つ金竜ラーメンは大勢の人で賑わっています。店内の御座敷の席は大阪らしい雰囲気です。
 創業90年以上のフグ料理専門店のづぼらやの看板もユニークです。西日本各地の漁場から新鮮なふぐを直送し、リーズナブルにふぐを食べさせてくれます。この店のてっちりも大阪名物のひとつです。
 かに料理で有名な「かに道楽」の特大のカニの看板も目立ちます。平成15年(2003)の阪神タイガースが優勝した時、カニの看板に暴徒化したファンがよじ登り、目玉をもぎ取られて阪神タイガースの旗が刺される事件もありました。
 大正12年(1923)に竣工された大阪初の洋式劇場「松竹座アイル」はテラコッタを使用したネオルネッサンス様式の劇場です。平成9年(1997)外観を残しつつ最新設備を備えた劇場として新築開場し、松竹制作の歌舞伎、新劇、松竹新喜劇を原則月替りで上演しています。



大阪府立中之島図書館
おおさかふりつなかのしまとしょかん
大阪市北区中之島1−2−10
Tel 06-6203-0474


 大阪府立中之島図書館は明治37年(1904)住友家の寄付により造られた図書館です。大阪の資料、古典籍関係資料、ビジネス関係資料を中心に約54万冊を蔵書しています。
 石造りの建物で、円柱が並ぶ玄関や緑色のドームに特徴があります。昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されました。



日本銀行大阪支店
にほんぎんこうおおさかしてん
大阪市北区中之島2−1−45
Tel 06-6206-7748


 日本銀行大阪支店は中央公会堂や中之島図書館と並ぶ明治の洋風建築の一つです。明治15年(1882)10月、日本銀行が創設され、同年12月には大阪支店が設置されました。
 明治36年(1903)関西財界の指導者五代友厚の別邸となっていたこの地に、ベルギーの国立銀行をモデルにして建設されました。設計者は東京駅の設計でも知られている辰野金吾らでした。
 青緑色のドームをもつ石造3階建の部分は、本館の建て替えにあたっても残され、御堂筋をへだてて向いあう大阪市市庁舎と対照的です。



大阪市役所
おおさかしやくしょ
大阪市北区中之島1ー3−20



 大阪市役所は大阪市の中心部、中之島に位置しています。御堂筋の東側に位置し、正面には日本銀行大阪支店があります。市役所の裏側には、中之島図書館や大阪市中央公会堂、東洋陶磁美術館があります。
 旧庁舎は昭和57年(1982)に、新庁舎建設のため惜しまれながら、取り壊されました。半分ずつの建て替えだったので、今でも屋根にその名残が残っています。市役所1階には「大阪市廳」と書かれた札が展示されています。



大阪天満宮
おおさかてんまんぐう
大阪府大阪市北区天神橋2丁目1番8号
Tel 06-6353-0025


 大阪天満宮は大宰府天満宮、北野天満宮とともに日本三天神(日本三大天神)のひとつとして知られています。地元では「天満の天神さん」と崇められ、天満天神、浪華菅廟、中島天満宮などとも言われることもあります。
 毎年7月24日から25日にかけて行なわれる天神祭は東京の神田祭、京都の祇園祭とともに日本三大祭りの一つに数え上げられています。また大阪三大夏祭りの一つでもあります。
 昌泰4年(901)菅原道真が、藤原時平の策略により九州大宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されることになり、ここにあった大将軍社に参詣したそうです。そして2年後に59歳でその生涯を閉じました。
 天暦3年(949)大将軍社の前に突然7本の松が生え、夜毎にその梢(こずえ)は、金色の霊光を放ったそうです。この不思議な出来事を聞いた村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが起源だそうです。
 大阪天満宮は、江戸時代の記録に残るだけで7度もの火災に遭っているそうです。大阪市中を焼き尽くした享保9年(1724)の妙知焼けや、大塩平八郎の乱による天保8年(1837)の大火では、全焼したそうです。
 現在の本殿は、天保14年(1843)に再建された権現造りの荘厳な建物です。梅花殿は昭和3年(1928)に建てられたものです。平安朝寝殿造りの賓殿で、伊勢の神宮のご用材を下賜されたものを使っているそうです。



お初天神(露天神社)
おはつてんじん(つゆのてんじんしゃ)
大阪府大阪市北区曽根崎2−5−4
Tel 06-6311-0895


 「お初天神」の名で広く知られる露天神社(つゆのてんじんしゃ)は創建以来千三百年の歴史を持つ古社で、「難波八十島祭」旧跡の一社です。
 祭神は少彦名大神と菅原道真です。一説によると道真が太宰府へ左遷される途中、都を偲んで涙を流したから露天神社という名がついたといわれています。

 元禄16年(1703)堂島新地天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」がこの神社の「天神の森」で情死した事件がありました。
 近松門左衛門がこの心中事件を題材にして人形浄瑠璃「曽根崎心中」を書きました。
 この作品は当時の人々の間で大評判となり、この神社にも参脂回向の老若男女が大勢押しかけたといわれています。露天神社はヒロインであるお初の名前から「お初天神」と呼ばれるようになったそうです。
 広く民衆の涙を誘うこの作品はその後も繰返し上演されました。今日でも回向とともに、恋の成就を願う多くの人々が訪れているそうです。



通天閣
つうてんかく
大阪府大阪市浪速区恵美須東1−18−6
Tel 06-6641-9555


 通天閣(つうてんかく)は、浪速区にある新世界界隈の中心部に建つ展望塔で、国の登録有形文化財に指定されています。
 明治44年(1911)パリのエッフェル塔をまねた高さは64mの通天閣が建設されました。昭和18年(1943)の火災により解体されましたが、昭和31年(1956)に現在の二代目の通天閣が再建されたのです。
 5階の展望台には、足の裏をなでると幸運が訪れるという幸運の神様「ビリケン(Billiken)」の像が安置されています。明治45年(1912)近くの遊園地「ルナパーク」に世界的に流行していたビリケンの像があり、昭和54年(1979)通天閣に復元されたものです。



今宮戎神社
いまみやえびすじんじゃ
大阪府大阪市浪速区恵美須西1−6−10
Tel 06-6643-0150


 今宮戎神社は商売繁盛の神様「えべっさん」として知られ、毎年1月9日から11日にかけて十日戎(とおかえびす)が開催されます。兵庫の西宮戎神社、京都の建仁寺と並び、関西の新年を彩る盛大な祭です。
 今宮戎神社は聖徳太子の四天王寺建立の際に西方の守護神として建てられたと伝えられています。四天王寺の西門に「浜の市」が平安後期には開かれるようになり、市の守り神として戎さまが祀られるようになったようです。
 祭神は天照皇大神、事代主神、素盞鳴命、月読尊、稚日女尊の5柱です。このうち事代主神がえびすとして特に信仰を集めました。近世以降は商売繁盛の神として、福徳円満の神として篤く信仰されています。
 「商売繁盛笹もってこい」のよび声が飛び交う中、吉兆の福笹が売り出されます。この福笹には、はぜ袋、小判、米俵、ぜに桝、大福帳、鯛、末広などの縁起物がつけられています。これを神棚に飾り、毎年新しいものと取り換えると福が授かるそうです。



住吉大社
すみよしたいしゃ
大阪府大阪市住吉区住吉2−9−89
Tel 06-6672-0753


 住吉大社は全国に約2千社ある住吉神社の総本宮です。農業、商業の神様、御祓いの神様として全国から多くの参拝客が訪れています。
 住吉三神(すみよしさんじん)とは、神道で信仰される神で、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称です。住吉大社では三神に息長帯姫命(神功皇后)を含め祀っています。
 神功皇后が新羅遠征の時、住吉大神が現れ、その加護により大いに国威を発揮したそうです。戦勝と海上交通安全を祈って住吉大神を田裳見宿禰(たもみのすくね)に祀らせたというのが住吉大社の創始とされているようです。
 神殿は第一本宮から第四本宮まで四棟あります。手前の右側が第四本宮(神功皇后)、左側が第三本宮(表筒男命)、その奥が第二本宮(中筒男命)、そして一番奥が第一本宮(底筒男命)となっています。通常は第一本宮から順にお参りするそうです。

 本宮は何れも西側を正面とし、正面に拝殿が付けられています。普通、神社の本殿は南又は東向きに建てられているので、ここの西向きの本宮は珍しいそうです。神社の成り立ちから見て、海に向かう西側を正面にしたものと思われます。
 千木(ちぎ)の上端の切り方以外、四つの本宮は全く同じ造りになっています。この造りは「住吉造」と呼ばれていて、神社建築史上最古の特殊な様式だそうです。
 現存の本宮(本殿)は文化7年(1810)に建立されたものといわれています。「第一、第二、第三、第四本宮」全て国宝に指定されています。
 四つの本宮それぞれに拝殿が付けられていて、拝殿も本宮と同様、全て西側が正面となっており、四つの拝殿全て同じで造りです。
 江戸時代までは住吉大社境内馬場(現在の住吉公園)は海に面し、白砂青松の風光明媚の代表地とされていたそうです。その風景の絵模様は「住吉模様」と呼ばれました。紫式部の源氏物語には明石の君に関連した重要な舞台として描かれています。
 南北朝時代は、宮司の津守氏の館の住之江殿(正印殿)に南朝の後村上天皇の行宮が置かれ、約10年間南朝方の御座所となりました。南朝の主要拠点の一つになっていて、次の長慶天皇は住吉で即位したそうです。

 境内の中央付近には真っ赤な太鼓橋の反橋が目に入ります。慶長年間に淀殿が寄進したそうです。朱色の優美なシルエットがきれいです。
 国の重要文化財に指定されている石舞台は四天王寺の石舞台、厳島神社の平舞台とともに日本三舞台の一つに数え上げられています。雅楽が演奏される回廊は豊臣秀頼の寄進によるものです。



四天王寺
してんのうじ
大阪府大阪市天王寺区四天王寺1−11−18
Tel 06-6771-0066


 荒陵山(あらはかさん)四天王寺は、聖徳太子建立七大寺の一つとされています。本尊は救世観音(ぐぜかんのん)です。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいわれます。
 「日本仏教の最初の寺」として、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、昭和21年(1946)より和宗総本山となっています。
 日本書紀によると、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、 自ら四天王像を彫り 「勝利のあかつきには四天王を安置する寺院を建立するという誓願をして、勝利の後、推古天皇元年(593)に誓願通り建立したそうです。
 この時、仏法修行の道場である金堂を敬田院、身寄りのない者や年老いた者を収容する悲田院 、病者に薬を施す施薬院、病気の者を収容し、病気を癒す療病院の四つの施仏教の根本精神の実践の場として、社会救済事業を行なったようです。
 伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」 といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式です。日本では最も古い建築様式の一つです。
 四天王寺の西門が西方極楽浄土の東門(入口)であるという信仰から、浄土信仰の寺としての性格も加えていったそうです。
 太陽の沈む「西」は死者のおもむく先、すなわち極楽浄土のある方角と信じられ、四天王寺の西門は西方の海に沈む夕陽を拝する聖地として、貴賎道俗の参拝客で賑わったそうです。
 天正4年(1576)織田信長の兵火にあい、諸堂宇を焼失しましたが、豊臣秀吉が母大政所の3回忌追善のため再建しました。
 慶長6年(1606)には秀頼が寺領千石を寄進、元和年間には徳川秀忠が寺領1177石の朱印状を与えています。
 享和元年(1801)の落雷で焼失し、文化9年(1812)に再建されました。この時の伽藍が近代まで残っていましたが、昭和9年(1934)の室戸台風で五重塔と中門が倒壊、金堂も大被害を受けました。
 五重塔は昭和14年(1939)に再建されましたが、昭和20年(1945)の大阪大空襲で他の伽藍とともに焼失してしまいました。現存の中心伽藍は戦後の昭和32年(1957)から再建にかかり昭和38年(1963)に鉄筋コンクリート造りで完成したものです。
 国の重要文化財には元和9年(1623)に建てられた六時堂、「日本三舞台」の一つとされる石舞台、元和3年(1617)徳川秀忠が再建した五智光院と本坊方丈、江戸時代初期に建てられた元三大師堂、永仁2年(1294)の石鳥居、本坊西通用門など多数あります。



安居神社
やすいじんじゃ
大阪府大阪市天王寺区逢阪1−3−24
Tel 06-6771-4932


 大阪城の南、大阪市立天王寺動物園の近くに安居神社はひっそりと建っています。創建の年代ははっきりしませんが四天王寺が造られたころではないかとみられています。
 菅原道真が太宰府へ左遷された途中、ここで安居の修法を行なったといわれています。その時、病気になり、七名水の一つのここの井戸水「かんしずめの水」で治したそうです。
 この安居神社には、「真田幸村戦死跡之碑」と刻まれた高さ約2mほどの石碑が建てられています。
 元和元年(1615)大坂夏の陣で茶臼山に布陣した幸村は、徳川家康の本陣を急襲し、家康を窮地に陥れましたが増援された兵士に阻まれ、本懐を遂げられず退却しました。
 安居神社で疲弊して腰を下ろして休息しているところを、徳川方の越前兵、西尾仁左衛門に討ち取られたそうです。享年49歳でした。毎年5月7日に幸村祭が盛大に行なわれるそうです。



一心寺
いっしんじ
大阪府大阪市天王寺区逢坂2−8−69
Tel 06-6771-0444


 坂松山高岳院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)は浄土宗のお寺です。浄土宗の開祖法然上人が開山したといわれています。
 文治元年(1185)、四天王寺の別当であった慈鎮(じちん)が、法然のために四間四面の草庵を建て「新別所」と称したのが始めであったそうです。後にそこは「源空庵」と称してそうです。
 慶長19年(1614)大阪冬の陣の時、一心寺の境内は徳川家康の本陣となったそうです。家康の四天王の1人本多平八郎忠勝の次男本多忠朝は酒に泥酔して不覚をとり真田幸村の軍勢に惨敗を喫しました。
 家康に「親にも似ぬ不出来物}と叱責されたため、翌年の大阪夏の陣では発奮し最前線で活躍し、壮烈なる戦死を遂げました。死に際に「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は必らず酒ぎらいになるべし」と言ったそうです。
 この本多忠朝の墓が一心寺にあり禁酒祈願をする人で絶えないそうです。禁酒や酒乱封じを祈願する人は、酒封じのしゃもじに住所と名前を書き、本多忠朝のお墓の周りに吊るしておくと、酒封じの効果があるそうです。
 また一心寺は骨仏の寺としてよく知られています。遺骨でつくった阿弥陀仏つまり骨仏が安置され、10年ごとに造立するそうです。



大阪市立美術館
おおさかしりつびじゅつかん
大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1−82
Tel 06-6771-4874


 大阪市立美術館は昭和11年(1936)に開館しました。ここは住友家本邸のあった場所で、住友家から美術館の建設を目的に日本庭園「慶沢園」とともに敷地を寄贈されました。
 仏教美術、エトルリアなど地中海文明の美術、充実した中国の絵画や書、日本の江戸期・明治以降の絵画、ほか金工・漆工・陶磁など貴重な工芸品を数多く有しています。8千点にも及ぶコレクションの中には、国宝や重要文化財も含まれています。



大阪市天王寺動物園
おおさかしてんのうじどうぶつえん
大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1−108
Tel 06-6771-8401


 天王寺動物園は、日本で3番目の動物園として大正4年(1915)1月に開園されました。約11ヘクタールの園内におよそ230種千の動物が飼育されています。
 平成18年(2006)に、総有料入園者数が1億人を超えたそうです。1億人を超えたのは、国内では上野動物園に次いで2番目だということです。
 世界的にも珍しいキーウィの飼育展示を日本で唯一行なっている他、シシオザル、ドリル、アムールトラ、クロサイ、ナベツル、ニホンコウノトリ、ホオアカトキ、ヨウスコウアリゲーターなどの希少動物の繁殖に力を入れているそうです。



大江神社
おおえじんじゃ
大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町5−40
Tel 06-6779-8554


 大江神社は愛染堂(勝鬘院)の隣に鎮座しています。聖徳太子によって建立された、四天王寺七宮(上之宮、小儀、土塔、乾、河堀、堀越、久保)のうちのひとつです。
 四天王寺の乾(いぬい、戌亥)の方角(西北)に位置していることから、江戸時代では「乾社」と呼ばれていたそうです。
 また毘沙門天を祀っていたので、「毘沙門堂」ともいわれていたそうです。慶応3年(1867)に大江神社と改称しました。毘沙門天は明治維新後の神仏分離で大津坂本に移されたそうです。
 祭神は豊受大神、素盞嗚尊、欽明天皇、大己貴命、少彦名命です。大江神社には狛虎というものがあります。そのため狛虎付近には阪神タイガースの優勝を祈願する張り紙や木札などが掲げられています。



愛染堂(勝鬘院)
あいぜんどう(しょうまんいん)
大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町5−36
Tel 06-6779-5800


 愛染堂(勝鬘院)は四天王寺の別院で、飛鳥時代の推古天皇元年593年、聖徳太子によって建立されたお寺と伝えられています。
 当初は庶民救済の地として薬草を植えて病人に与える「施薬院」の役割を果たしていたとみられています。
 聖徳太子がここで勝鬘経を講義されたことから「勝鬘院」となりました。金堂に縁結び、夫婦和合の愛染明王が奉安されたため、現在は「愛染堂」または「愛染さん」と称されています。
 境内にそびえ立つ多宝塔は天正4年(1576)織田信長に焼き払われたものの、豊臣秀吉によって慶長2年(1597)再建され、市内唯一の桃山時代の建物として国の重要文化財に指定されています。
 金堂は徳川秀忠の再建で府の指定文化財です。毎年6月30日〜7月2日には大阪三大夏祭りの1つである「愛染まつり」が行なわれます。
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長居公園
ながいこうえん
大阪府大阪市東住吉区長居公園


 長居公園は長居駅の近くにあります。昭和39年(1964)に作られた第1種公認競技場の陸上競技場を中心に運動施設区、植物地区、自然園区から構成されている広域公園です。
 「花と緑と自然の情報センター」は自然史博物館と長居植物園が連携してつくった施設で、「自然のエリア」と「花と緑のエリア」からできています
 「花と緑のエリア」ひは「サービスゾーン」「交流のゾーン」「憩いのゾーン」などがあり、くつろぎながら、映像や図書、検索端末で花や緑に関する情報を得ることができます。
 「自然のエリア」は「ネイチャースクエア・大阪の自然誌」が常設展示されています。他に「ミュージアムサービス」「自然の情報コーナー」「ネイチャーホール」があります。



天保山ハーバービレッジ
てんぽうざんハーバービレッジ
大阪府大阪市港区海岸通


 天保山は人口の山でした。天保2年(1831)に安治川の土砂を積み上げて高灯篭を設けて入港する船の目印としたので目印山とも呼ばれました(文政年間にも工事は行なわれました)。
 大阪ベイエリアの中心地として早い時期から開発された所です。天保山公園、ショッピング街としてのアーケードプレース、水族館、美術館などの充実した施設が集まっています。
 海遊館は世界最大級の水族館です。天保山のウォーターフロント再開発プロジェクト「天保山ハーバービレッジ」の中心的施設として平成2年(1990)に開館しました。
 深さが9mある5400トンの水槽は8階建ての高さを利用して造られています。この水槽を太平洋の大洋と見立てて、その周りに13本の水槽が並びます。8階から太平洋の水槽の周りをグルグルと降りてくるのです。
 高さ112mの天保山大観覧車は明石海峡大橋、、関西空港、神戸まで見渡せ、夜になるとイルミネーションが輝きます。
 サントリーミュージアム天保山には、ロートレックやミュシャなどの有名画家の作品が展示されています。



WTCコスモタワー
わーるどとれーどせんたーこすもたわー
大阪府大阪市住之江区南港北1−14−16
Tel 06-6615-6055


 WTCコスモタワーは南港(なんこう)地区のランドマークタワーです。周辺のATC(アジア太平洋トレードセンター)など近未来的な建物が印象に残ります。
 世界各地にあるワールド・トレード・センタービルディングの一つで高さは256mあります。地上55階、地価3階の超高層ビルです。
 シースルーエレベーターで、1階から52階まで一気に上昇し、53階からは全長42mのエスカレーターで展望台へ行かれます。ガラス張りのパノラマ展望スペースからの360度の眺望は感動的です。淡路島、明石海峡大橋、関西国際空港などが一望できます。
 総事業費は1193億円、大阪市港湾局が中心となって昭和63年(1988)に策定した「テクノポート大阪」計画[1]に基づき、第三セクター方式で建設されました。
 WTCコスモタワーは平成7年(1995)に完成しました。アクセスの不便さやバブル崩壊により周辺の開発が進まなかったこともあって、オフィス入居の予測が外れ、大赤字になっています。
 大阪市は市役所にあった行政部門のうち港湾局・水道局・建設局や第三セクター、関連会社などを多数移転し入居させています。
 橋下徹大阪府知事がWTCコスモタワーを買収した上で、大阪府庁舎をここに移転する構想を出しましたが、大阪府議会で否決されました。しかし平成21年(2009)10月に購入案は可決されたので今後、発展する可能性は大いにあります。


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