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日本の旅
近畿・奈良の旅          奈良・吉野・明日香

秋篠寺
あきしのでら
奈良県奈良市秋篠町757
Tel 0742-45-4600


 秋篠寺は宝亀11年(780)、光仁天皇の勅願によって善珠僧正が創建しました。秋篠宮家の名の由来ともなったこの寺は、奈良時代最後の勅願寺でもあります。
 創建当時は金堂、講堂、東西両塔をもつ大寺院でしたが、保延元年(1135)戦火のため伽藍の大部分を焼失しました。国宝の本堂は鎌倉時代にもとの講堂の跡に再興されました。
 本堂は屋根は寄棟造、本瓦葺きです。堂の周囲には縁などを設けず、内部は床を張らずに土間になっています。正面の柱間5間には格子戸や窓になっています。全体に簡素な構成で、鎌倉時代の再建でありながら奈良時代建築を思わせる様式の建物です。
 本堂には本尊薬師三尊像(重文)を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像(重文)、帝釈天立像(重文)、伎芸天立像(重文)などを安置しています。
 本堂に25体安置されている仏像の中でも特に著名なのが伎芸天立像です。諸技諸芸の守護神として多くの芸術家や芸能人らに慕われ、堀辰雄や会津八一などが足しげく通ったそうです。



八所御霊神社
はっしょごりょうじんじゃ
奈良県奈良市秋篠町742


 八所御霊神社(はっしょごりょうじんじゃ)は秋篠寺の鎮守で、争い事によって怨みながら亡くなった人々が祀られています。平安時代初期に、御霊は、人に祟りをなす怨霊で、異常な死に方をした人、恨みを抱いて死んだ人は、霊威をもつ神となり、人に働きかけると信じられていたそうです。
 主な祭神は、早良親王(長岡京の造宮使藤原種継を暗殺した首謀者の疑いをかけられた桓武天皇の弟で、冤罪で憤死)や伊予親王(謀反のかどで自殺した桓武天皇の第三皇子)、藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麻呂、藤原広嗣、吉備大臣、火雷神の御霊八所です。



平城宮跡
へいじょうきゅうせき
奈良県奈良市佐紀町


 平城宮は平城京の中枢で天皇の住まいである内裏や、国家儀式を行なう大極殿、官庁街の朝堂院(ちょうどいん)などが広がっていました。
 平成9年(1997)、平城宮跡に朱雀門が復元されました。二重の屋根に朱色の柱、白壁といった装いの壮大な門です。これは、奈良国立文化財研究所によって当時の姿を忠実に再現したものです。
 元明天皇が藤原京から平城京へ遷都した和銅3年(710)から延暦3年(784)に桓武天皇が長岡京に遷都するまでの74年間が奈良時代です。
 唐の長安の都にならって造られたといわれ、大路を基盤の目のように整然と配し、東西4.3km南北4.8kmの広大な都を造り上げました。



西大寺
さいだいじ
奈良県奈良市西大寺芝町1-1-5
Tel 0742-45-4700


 西大寺は天平神護元年(765)、称徳天皇の勅願により東大寺に対する西の大寺として、常騰(じょうとう)を開山とし創建されました。
 称徳天皇は藤原仲麻呂の反乱の鎮圧や鎮護国家と平和祈願のため、7尺の金銅四天王像の造立を発願されました。この像は西大寺四王堂に今も安置されていますが創建当時のものは足元に踏みつけている邪鬼だけだということです。
 創建時の西大寺は薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に百十数宇の堂舎が建ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、南都七大寺の1つに数えられる大寺院だったそうです。
 承和13年(846)以後何度も火災にあい、創建当時の建物はほとんど焼失しました。鎌倉時代に興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)によって復興され、密・律兼修の根本道場として伽藍が整備されました。
 平安時代には、火災や台風で多くの堂塔が失われ、寺は興福寺の支配下に入っていました。文亀2年(1502)の火災で最も大きな被害を受け、現在の伽藍はすべて江戸時代以降建てられたものです。
 本堂は寄棟造、本瓦葺で、文化5年(1808)に再建されました。土壁を一切用いないで、装飾性の少ない伝統的な様式です。江戸時代後期の大規模仏堂建築の代表作として、国の重要文化財に指定されています。
本堂
 愛染堂は、本堂の南西に立つ寝殿造の建築です。京都の近衛政所の御殿を宝暦12年(1762)に移築したものだそうです。秘仏の愛染明王坐像(重文)は宝治2年(1247)、仏師善円が作り、日本の愛染明王像の代表作になっています。
愛染堂
 四天堂は延宝2年(1674)に再建された堂宇です。四天王立像(重文)は称徳天皇発願の四天王像で足下の邪鬼のみ創建当時の物です。また平安時代後期の十一面観音立像(重文)も安置しています。 
四天堂



奈良県新公会堂
ならけんしんこうかいどう
奈良県奈良市春日野町101
Tel 0742-27-2630


 奈良県新公会堂は奈良県置県100年を記念して、昭和62年(1987)に建設されました。日本最大級の屋根面積をもつことから、ビッグルーフという愛称がついています。
 国際会議開催にも対応する4カ国語の同時通訳設備を備えた会議室やレセプションホール、能楽ホールなどを有しています。



奈良公園シルクロード交流館
ならこうえん しるくろーどこうりゅうかん
奈良県奈良市雑司町469
Tel 0742-27-2438


 奈良公園シルクロード交流館は昭和63年に奈良公園および平城宮跡で開催されたなら・シルクロード博を記念して建てられた「奈良公園館」が前身です。平成16年(2004)一新して「奈良公園シルクロード交流館」になりました。
 仏教文化が花開いた奈良にふさわしい資料館です。シルクロードの歴史と文化に関する資料を展示しています。



正倉院
しょうそういん
奈良県奈良市雑司町


 国宝の正倉院は東大寺大仏殿の北西の松林の中にあります。奈良時代の建物で東大寺の正倉でした。二等辺三角形の校木(あぜき)を横に組んだ校倉造りです。
 間口33m、東西9m、高さ12m(うち床下3m)の本瓦葺きの大きな建物で北倉、中倉、南倉に分けられています。。
 天平勝宝8年(756)光明皇后が献納した聖武天皇の遺愛品や大仏開眼供養の際に使用された仏具、調度品など9千点あまりが納められています。まさに東洋古美術の宝庫になっています。



東大寺
とうだいじ
奈良県奈良市雑司町406-1
Tel 0742-22-5511


 東大寺は聖武天皇の発願によって創建された華厳宗の大本山です。天平13年(741)聖武天皇は国分寺建立の詔(みことのり)を発しました。
 若草山麓に創建された金鐘寺が東大寺の起源であるといわれています。東大寺は全国の総国分寺(大和の国分寺も兼ねました)として「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)と称しました。
 12万坪という広大な寺域には国宝や国の重要文化財に指定されている建物が24棟点在しています。当時の建物は正倉院、転害門、手向山八幡宮だけで、多くは鎌倉時代や江戸時代に再建されたものです。
 「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきたお寺です。
 この奈良の大仏は天平15年(743)聖武天皇により大仏造立の詔は発せられ、天平勝宝4年(752)に天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として開眼供養が行なわれました。大仏殿や講堂などの伽藍が完成したのは延暦8年(789)といわれています。
 治承4年(1180)平重衝の南都焼き打ちで大半の堂塔を焼失、すぐに重源の勧進で復興しました。しかし永禄10年(1567)松永久秀の兵火にかかり再び伽藍が焼失しました。現在の伽藍は宝永6年(1709)に再建されたものが主になっています。
 東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいます。またこの東大寺は平成10年(1998)古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されています。



興福寺
こうふくじ
奈良県奈良市登大路町48
Tel 0742-22-7755


 興福寺は南都6宗の一つ、法相宗の大本山です。藤原氏の氏寺として藤原氏の隆盛とともに寺勢を拡大し、奈良時代には南都4大寺、平安時代には南都7大寺の1つとして栄えました。
 天智天皇8年(669)、藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置するために、夫人の鏡女王が、京都山科の私邸に建てた「山科寺」を始まりとしています。
 その後飛鳥廐坂の地に寺を移し「廐坂寺」と称しました。都が平城京へ移されると、この地に移し「興福寺」と名付けたそうです。創建の年は和銅3年(710)となっています。
 その後皇室や藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられて整備されました。摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますます栄え、平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになったそうです。勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」(なんとほくれい)と称されたそうです。
 鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たったそうです。しかし、戦国時代に入ってから徐々にその勢いは衰え、江戸時代には21000石余の朱印が与えられた程度でした。享保2年(1717)の火災で西金堂、講堂、南大門など焼失しましたが再建されませんでした。
 明治元年(1868)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行なわれていた興福寺は大打撃を被りました。子院はすべて廃止、寺領は没収され、僧は春日社の神職にされました。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だったそうです。
 かつての興福寺には中金堂(ちゅうこんどう)、東金堂(とうこんどう)、西金堂(さいこんどう)の3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像が安置されていました。寺の中心部には南から北に南大門、中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には南から五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には南から南円堂、西金堂、北円堂が建っていたそうです。

 国宝の東金堂は神亀3年(726)、聖武天皇が伯母にあたる元正太上天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建しました。応永18年(1411)に五重塔とともに火災のため焼失し、現在の建物は応永22年(1415)に天平様式で再建されたものです。
東金堂
 堂内には本尊・薬師三尊像(重文)、脇侍の日光・月光(がっこう)菩薩像(重文)、木造維摩居士(ゆいまこじ)坐像(国宝)、木造四天王立像(国宝)、木造十二神将立像(国宝)、木造文殊菩薩坐像(国宝)など安置しています。
東金堂
 国宝の五重塔は天平2年(730)、光明皇后の発願で創建されました。現存の塔は応永33年(1426)頃の再建されたものです。高さ50.8mで、木造塔としては東寺五重塔に次ぎ、日本で2番目に高い塔です。
五重塔
 各層方3間の本瓦葺き、軒は二重繁?(しげたるき)の五重塔で重厚な天平建築の面影を伝えています。度々焼失し、室町時代の再建ですが、唐様や天竺様の要素を交えない純和様の塔を再現してきたのです。
五重塔
 国宝の北円堂は養老5年(721)、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇、元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させた八角円堂です。承元2年(1208)の再建で、興福寺に現存している建物の中では最も古い建物です。
北円堂
 堂内は内陣と外陣に分かれていて、内陣には八角の須弥壇を築き、国宝の木造弥勒仏坐像を安置しています。晩年の運慶が一門の仏師を率いて建暦2年(1212)に完成させたそうです。脇侍の木造無著菩薩・世親菩薩立像(国宝)や四天王立像(国宝)は国宝館に移されています。
北円堂
 南円堂は弘仁4年(813)、藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂追善のため創建した八角円堂で、国の重要文化財に指定されています。現在の建物は寛政元年(1789)に再建されたものです。
南円堂
 南円堂は西国三十三箇所霊場第9番札所でもあるため線香の煙が絶えません。本尊は高さ3.4mの不空羂索(ふくうけんじゃく)観音坐像(国宝)です。運慶の父である康慶一門の作で、文治5年(1189)に完成させています。
南円堂
 三重塔は康治2年(1143)、崇徳天皇の中宮・皇嘉門院により創建されました。現在の塔は治承4年(1180)の大火後まもなく再建された鎌倉建築で国宝です。現存している建物の中では北円堂とともに最も古い建物です。
三重塔
 三重塔は方3間3重で本瓦葺きです。高さ19mで木割はきわめて細く、軒、組物、屋根などは平安後期の優美さを備えています。
三重塔



猿沢池
さるさわいけ
奈良県奈良市登大路町猿沢49


 猿沢池は興福寺南大門の前にある池で奈良八景の1つに数え上げられています。天平21年(749)頃に印度の仏跡「瀰猴(びこう)池」に模して造られた興福寺の放生池です。周囲約360mの小さな池で、年一回、経を唱えて魚を放つ「放生会」が開かれます。
 猿沢池は、昔から「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙はわかず藻は生えず、魚が七部に水三部」と伝えられています。龍神伝説もあり、芥川龍之介の短編小説「竜」の舞台にもなっています。



釆女神社
うねめじんじゃ
奈良県奈良市橋本町


 釆女神社は春日大社の末社で猿沢池のほとりにあります。昔、帝の寵愛が薄れたことを嘆き悲しんだ采女が猿沢池に身を投げたためその霊をなぐさめるために建てられたという伝説が残されています。毎年中秋の名月の日に釆女祭が営まれます。



奈良国立博物館
ならこくりつはくぶつかん
奈良県奈良市登大路町50
Tel 0742-22-7771


 奈良国立博物館は奈良公園内にあり、主として仏教に関する美術工芸品および考古遺品などを収蔵しています。日本で2番目に古い博物館です。
 レンガ造りの本館は、赤坂離宮(迎賓館)などを手がけた宮廷建築家・片山東熊の設計により明治27年(1894)帝国奈良博物館として竣工されたもので、国の重要文化財に指定されています。



元興寺(極楽坊)
がんごうじ(ごくらくぼう)
奈良県奈良市中院町11
Tel 0742-23-1377


 元興寺(がんごうじ)は蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身です。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となったのです。
 奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ南都七大寺の1つに数えられるお寺でしたが、都が京都に移ると次第に衰退しました。
 元興寺には奈良時代の学僧・智光が描かせた阿弥陀浄土図(智光曼荼羅)がありました。平安末期の末法思想の流行や阿弥陀信仰の隆盛とともにこの曼荼羅が信仰を集めるようになったのです。
 曼荼羅を祀る堂は「極楽坊」と呼ばれて、次第に元興寺本体とは別の寺院として発展するようになったのです。
 宝徳3年(1451)、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残りましたが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまいました。そして、寺は智光曼荼羅を祀る「極楽院」、五重塔を中心とする「元興寺観音堂」、それに「小塔院」の3つに分裂したのです。
 奈良時代の元興寺伽藍は、南大門、中門、金堂、講堂、鐘堂、食堂が南北に一直線に並び、中門左右から伸びた回廊が金堂を囲み、講堂の左右に達していたそうです。回廊の外側、東には五重塔を中心とする東塔院、西には小塔院があったようです。
 講堂の背後左右には、数棟ずつの僧房がありました。智光をはじめとする僧たちがここに住んでいたのです。これは、東西に長い長屋のような建物で、このうち東側手前にあった僧房を鎌倉時代に改造したものが、現存する本堂と禅室なのです。
 西側の屋根には飛鳥時代の瓦が残っています。行基葺(ぎょうぎぶき)という天平時代特有の丸瓦を重ねた美しさがあります。本堂、禅室の南側に収蔵庫があり、高さ5.5mの国宝の五重小塔などが収蔵されています。
 国宝の本堂は極楽堂とも呼ばれています。寄棟造、瓦葺で、東を正面として建っています。正面柱間が偶数の6間で中央に柱が来ている点が珍しい点です。内部は板敷きの内陣の周囲を畳敷きの外陣がぐるりと囲んでいます。内陣の周囲を念仏を唱えながら歩き回る「行道」ができるように造られています。
元興寺極楽坊本堂
 同じく国宝の禅室は切妻造、瓦葺きで本堂の西に軒を接して建っています。元は本堂と一緒の東西に長いひと続きの僧房であったものを鎌倉時代に改築しました。本堂と同様、部材や屋根瓦の一部には奈良時代のものが残っています。
元興寺極楽坊禅室
 東門は四脚門とよばれる門で一間一戸、切妻造の本瓦葺きです。国の重要文化財に指定されています。応永18年(1411)東大寺の西南院門を移築したものです。
元興寺極楽坊東門



ならまち格子の家
ならまちこうしのいえ
奈良県奈良市元興寺町44
Tel 0742-23-4820


 ならまち格子の家は奈良町の伝統的な町家を再現したものです。昔の奈良の町家の生活様式や、町民の暮らしぶりを伺えます。
 間口が狭く奥行きが深い構造です。これは昔は間口の広さで税金が決められたからです。
 収納スペースと階段が一つになった箱階段や、明かりとりなど生活の知恵が到るところに見られます。



奈良町資料館
ならまちしりょうかん
奈良県奈良市西新屋町12
Tel 0742-22-5509


 奈良町資料館は奈良町の佇まいを今に残す西新屋町にある私設の資料館です。江戸時代の看板や生活用品が所狭しと並べられています。



唐招提寺
とうしょうだいじ
奈良県奈良市五条町13-46 
Tel 0742-33-7900


 唐招提寺は聖武天皇の招きに応じた中国の高僧鑑真によって天平宝字3年(759)に創建された律宗の総本山です。世界遺産にも登録されています。
 鑑真和上は唐出身で、井上靖の小説「天平の甍」で広く知られるようになりました。5度の航海の失敗ののち、ようやく日本にたどり着き、戒壇院での授戒を制度として確立するため東大寺で5年を過ごしました。
 その後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、唐律招提と名付けられた戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。
 やがて鑑真を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられました。鑑真の没後、金堂や東塔が建立されました。平安時代初頭に伽藍全体が完成し、唐招提寺となりました。
 国宝の金堂は奈良時代の金堂建築としては現存唯一のものです。寄棟造、単層で、屋根上左右に鴟尾(しび)が乗っています。堂内には中央に本尊である国宝・廬舎那仏坐像が安置されています。千体仏を負った3.1mの像です。
金堂
 本尊に向かって右には3.7mの国宝・薬師如来立像があり、光背が薬壺の形をしています。左には5.4mの国宝・千手観音立像があり、3体の巨像に圧倒されます。金堂は正面7間、側面4間で、手前の7間×1間を吹き放ちにしています。吹き放しとなった堂正面には8本の巨大な円柱が並びます。
金堂
 国宝の講堂は平城宮朝堂院の東朝集殿を移築・改造した建物です。正面9間、側面4間の入母屋造りです。天平時代宮廷建築の唯一の遺構としてきわめて貴重なものです。
講堂
 国宝の経蔵は唐招提寺創建以前ここにあった新田部親王邸の倉を改造したものだそうです。境内東側に同じ国宝の宝蔵とともに並んで建っています。ともに奈良時代の校倉造倉庫です。
経蔵
 金堂・講堂の東側に建つ国宝の鼓楼は正面3間、側面3間の小規模な2階建の建物です。鎌倉時代の仁治元年(1240)の建築です。鑑真請来の仏舎利を安置するため、舎利殿ともいわれています。
鼓楼
 境内の北東の奥まった静かなところに鑑真和上の墓所があります。中心には宝篋印塔が建っています。
鑑真和上御廟



大乗院庭園文化館
だいじょういんていえんぶんかかん
奈良県奈良市高畑町1083−1
Tel 0742-24-0808


 大乗院庭園文化館は元興寺を中心とする「ならまち」と高畑界隈の中間に位置しています。名勝旧大乗院庭園を見ることができ、大乗院の資料なども展示されています。屋外には楽人長屋土塀が復元されています。
 大乗院は興福寺内にあって、一乗院とならぶ最高の格式を持つ門跡寺院でした。治承4年(1180)平重衡による南都焼き討ちで東大寺や興福寺等の諸堂と共に焼失し、この場所にあった元興寺禅定院があった寺地を譲られて移転しました。そして今の奈良ホテルがある鬼薗山を含めた広大な土地に堂舎を再建させたのです。
 全盛期の大乗院は、鬼薗山上に丈六堂、天竺堂、八角多宝塔、釈迦堂、弥勒御堂、観音堂を並べ、山麓南側の平場には寝殿や付属殿舎など多くの建物が配置され、東には庭園があったそうです。
 宝徳3年(1451)徳政一揆による火事で建物の大部分が焼失しました。この時の門跡であった尋尊大僧正が再興の際、京から庭師の善阿弥を呼んで造園にあたらせました。善阿弥は銀閣寺の園池も造った当代一の庭師でした。将軍、足利義政もこの頃の大乗院に足を運んだそうです。
 旧大乗院庭園は、現在その一部が整備され、広い池を中心にして中島に架かる反り橋や岸の松などを見ることができます。北側には、奈良ホテルが建つ鬼薗山があります。昭和33年(1958)国の名勝に指定されています。



氷室神社
ひむろじんじゃ
奈良県奈良市春日野町1−4
Tel 0742-23-7297


 氷室神社は奈良国立博物館の近くにあります。奈良時代、吉城川沿いの春日野に造られた氷池や氷室(氷の貯蔵庫)に、氷の神を祭ったのが始まりといわれ、闘鶏(つげ)氷室の守護神を祀っています。
 本殿は3間社流造・桧皮葺きです。床下に2室を設け、両開き板戸をつけています。表門、東廊、西廊とも寛永19年(1642)の造営で、いずれも県の文化財に指定されています。
 毎年5月1日には、献氷祭という、鯉と鯛を封じ込めた高さ1メートルほどの氷柱が神前に供えられるお祭りがあることで有名です。その時には舞楽四曲が舞楽殿で演奏されます。



法華寺
ほっけじ
奈良県奈良市法華寺町882
Tel 0742-33-2261


 法華寺は光明宗の寺院で、大和三門跡に数えられる品格ある尼寺です。東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、法華寺は総国分尼寺であり、正式には法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といわれました。
 この地は、もとは藤原不比等の邸宅でした。不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がここを皇后宮としたのでした。天平17年(745)この皇后宮を宮寺としたことから法華寺が生まれたのです。
 奈良時代の法華寺は東西両塔をもつ大寺院であったようです。平安京遷都以後は次第に衰微し、治承4年(1180)の平重衡の兵火などでかなり荒廃しました。
 鎌倉時代、東大寺大仏の再興を果たした僧・俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)によって、建仁3年(1203)、法華寺の堂宇、仏像が再建されました。そして鎌倉時代中期には真言律宗の僧・叡尊(えいそん)によって本格的な復興がなされたのです。
 しかし明応8年(1499)、永正3年(1506)の兵火や慶長元年(1596)の地震で東塔以外の建物を失いました。(東塔は宝永4年(1707年)の地震で倒壊したそうです)
 慶長6年(1601)、豊臣秀頼と淀殿が片桐且元を奉行として現在の本堂、鐘楼、南門を再建させました。これらは国の重要文化財に指定されています。
 重要有形民俗文化財に指定されている「から風呂」は光明皇后が千人の垢を自ら流したという伝説のある蒸し風呂です。千人目の病人の膿を皇后が吸うと患者は荘厳な阿?(あしょく)仏となって姿を消したそうです。
から風呂
 東庭園は江戸時代前期の作庭です。前庭、内庭、主庭で構成されています。
東庭園
 秀頼と淀殿の寄進で再建された本堂は寄棟造りで、本瓦葺きです。再建の際、地震で倒れた前身堂の部材を再利用しているそうです。堂内厨子には国宝の本尊・木造十一面観音像を安置しています。
本堂



春日大社
かすがたいしゃ
奈良県奈良市春日野町160
Tel 0742-22-7788


 春日大社は春日山原始林を背景に御蓋山の西麓に建っています。平城京に遷都された和銅3年(710)、藤原不比等が藤原氏の氏神の武甕槌命(たけみかづちのみこと)を関東の鹿島から春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのから始まるそうです。
 その後、香取の経津主命(ふつぬしのみこと)と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命(あねのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)を併せ、御蓋山の麓に4殿の社殿を造営しました。
 この4殿が国宝の本殿です。春日大社には拝殿はなく、春日造の本殿は、東から第1殿に武甕槌命、第2殿に経津主命、第3殿に天児屋根命、第4殿に比売神が祀られていて、脇塀でつながっています。
 春日大社は藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音には、春日大社の祭神・武甕槌命を本地仏としたそうです。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていきました。 
中門
 春日大社の中門は丹塗り(にぬり)の楼門で、左右に御廊が続いています。国の重要文化財に指定されています。移殿(うつしどの)に架けられている登廊は左甚五郎の作といわれています。
中門
 南門は高さ12mの朱塗りの楼門です。もとは鳥居だったものが楼門に改められたそうです。門内の弊殿(へいでん)、直会殿(なおらいでん)はいずれも素木造りで南門と対照的です。すべて国の重要文化財になっています。
南門
 車舎は二の鳥居の手前にあります。檜皮葺きの優雅が建物です。勅使参向の際にはここに車を収めたそうです。車舎も国の重要文化財に指定されています。
車舎
 着到殿は春日祭の折りに勅使が着到の儀式を行なうところです。天皇が行幸され時には行在所としても使われたそうです。延喜16年(916)に創建されています。着到殿も国の重要文化財です。
着到殿
 数多くの国宝、重要文化財を収蔵しています。藤原氏が奉納した見事な調度品、武具など優れた美術工芸品が多く、平安時代の正倉院ともいわれています。
宝物殿
 春日大社の砂ずりの藤は樹齢700年以上の老木です。5月初旬頃に花房が1m以上にも延び、砂にすれるということからこの呼名があります。摂関近衛家からの献木と伝えられています。
砂ずりの藤



手向山八幡宮
たむけやまはちまんぐう
奈良県奈良市雑司町434
Tel 0742-23-4404


 手向山八幡宮は東大寺の二月堂から若草山へ行く途中にあります。天平勝宝元年(749)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請されました。
 当初は平城宮南の梨原宮にあったようですが、東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移りました。しかし治承4年(1180)の平重衡による戦火で焼失してしまいました。建長3年(1251)北条時頼によって現在地に再建されたそうです。
 現在の社殿は元禄4年(1691)公慶によって再建されたものです。本殿は桁行11間、梁間2間、入母屋造りの檜皮葺きの建物です。若宮本殿、楼門、南北御廊、神楽所などがあります。
 御神体は有名な僧形八幡神像でしたが、明治の神仏分離で東大寺勧進所内の八幡殿に移されました。国宝の唐鞍を所蔵しています。



若宮神社
わかみやじんじゃ
奈良県奈良市春日野町春日野町160
Tel 0742-22-7788


 若宮神社は春日大社の摂社です。ご祭神に、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめがみ)の子である天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)を祀っています。
本殿
 本殿は春日大社の本殿と同じ1間社春日造で檜皮葺きです。拝舎は2間・1間の切妻造で檜皮葺きです。春日大社の本殿とともに文久3年(1863)に再建されています。
本殿
 天押雲根命は水の神です。有名な「おん祭」は、平安時代末期に関白・藤原忠通が、若宮の神に五穀豊穣を祈るため祭りを行なったのが始まりです。以来800年以上も続けられている伝統の行事で、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
 若宮神社の細殿は神楽殿とともに拝舎の西側に東向きに建っています。慶長18年(1135)に再建された建物ですが創建は保延元年(1135)で、平安時代の寝殿造の遺風を伝えています。国の重要文化財に指定されています。
細殿
 若宮神社の神楽殿は6間あり、3間の細殿、1間の御廊の3つの建物が1棟に合わさってできています。諸祭典の際にはここで社伝神楽が行なわれたそうです。ここも国の重要文化財に指定されています。
神楽殿
 春日大社の摂社である若宮神社の大楠は幹周が11.46m、樹高24mの大木です。奈良県では最も幹周が大きい巨樹とされているそうです。神功皇后のお手植えと伝えられています。
若宮大楠



称名寺
しょうみょうじ
奈良県奈良市菖蒲池町7
Tel 0742-23-4438


 称名寺はもともとは興福寺の別院で興北院と呼ばれていたそうです。文永2年(1265)興福寺の僧、專英と琳英、京都西山三鈷寺(さんこじ)の澄忍(ちょうにん)上人の三僧が、浄土宗の念仏の道場として創建したそうです。
 この寺は茶道の祖とされる村田珠光(じゅこう)ゆかりの寺として有名です。珠光は「独盧庵」(俗称珠光庵)を建て「陀び茶」の境地を開いたといわれ、今も多くの人が訪れています。
 本堂に安置されている本尊の木造釈迦如来坐像や木造阿弥陀如来坐像、薬師堂に安置されていた木造薬師如来立像(奈良国立博物館寄託)は平安時代の造立で国の重要文化財に指定されています。



志賀直哉旧宅
しがなおやきゅうたく
奈良県奈良市高畑大道町1237−2
Tel 0742-26-6490


 志賀直哉旧宅は民家が建ち並ぶ高畑にあります。昭和4年から約9年、家族とともに住んだところです。数奇屋造を基調とした洋風建築の建物は志賀直哉自身が設計して、京都の宮大工に建てさせたそうです。
 書斎からは若草山が眺められ、代表作「暗夜行路」はここで完成したそうです。志賀直哉は大正デモクラシーを背景に理想主義・人道主義・個人主義を掲げた文人集団「白樺派」の中心人物の一人です。無駄のない文章は小説の文体の理想とされ、小説の神様とも呼ばれました。「城崎にて」「清兵衛と瓢箪」「小僧の神様」なども代表作です。



薬師寺
やくしじ
奈良県奈良市西ノ京町457
Tel 0742-33-6001


 薬師寺は法相宗の大本山で世界遺産にも登録されています。680年、天武天皇が菟野讃良皇后(うののさららひめみこ)(のちの持統天皇)の病気平癒のため発願され、飛鳥の地、藤原京にて創建されました。
 6年後完成を見ずして天武天皇は亡くなりました。続いて即位された持統天皇によって本尊開眼し、文武天皇の代の698年に藤原京(橿原市)において七堂伽藍が完成したのでした。
 和銅3年(710)の平城遷都に伴い、養老2年(718)に現在地に移されました。金堂、講堂などを中心に、東塔と西塔の2つの三重塔を配する独特な構成をしていて、薬師寺式伽藍配置といわれています。
 天延元年(973)に金堂と東西両塔を残して焼失し、その後も数度の災害と兵火により、創建以来の建造物は国宝の東塔のみとなっています。
 東塔は相輪を含むと高さは34.1mあります。裳階があることから六重の塔のように見えますが三重の塔です。フェノロサにより「凍れる音楽」と評され、その美しさはわが国塔婆中随一ともいわれています。
 金堂は昭和51年(1976)に、創建当時の様式で再建されました。堂内には仏教美術最高傑作の一つといわれる国宝の本尊薬師三尊像を安置しています。
 西塔は昭和56年(1981)に、中門は昭和59年(1984)に、回廊の一部は平成3年(1991)に、そして平成15年(2003)には大講堂や玄奘三蔵院伽藍も復元されました。





休丘八幡神社
やすおかはちまんじんじゃ
奈良県奈良市西ノ京町


 休岡八幡神社は寛平年代(890年頃)に薬師寺の鎮守として勧請されました。薬師寺の南門を出て、道を横切った向かい側の敷地にあります。八幡神が京都にある八幡市の男山へ向かう途中に休憩した所という言い伝えがあります。
 本殿は国の重要文化財に指定されています。慶長8年(1603)豊臣秀頼の命により片桐且元が奉行で再建にあたりました。桃山時代の建築で瑞垣門、楼門、中門なども造られたそうです。
 本殿は三間社流造りで本殿の両脇に各桁行三間、梁間一間、一重切妻造りの脇殿がつながっています。脇殿には十九明神が祀られています。南北に細長い建物は座小屋という宮座の座衆が座る場所です。この座小屋が三間社流造とともに残っている例は少ないそうです。



垂仁天皇陵
すいにんてんのうりょう
垂仁天皇 菅原伏見東陵
すがわらのふしみのひがしのみささぎ
奈良県奈良市尼辻西町


 近鉄橿原線尼ヶ辻駅のすぐ西に水を満々と湛えた濠を持つ御陵は、第11代垂仁天皇「菅原伏見東陵」、天辻宝来山(蓬莱山)古墳です。
 全長227mの前方後円墳です。濠の南東部に浮かぶ小島は、垂仁天皇の命で常世の国へ不老不死の果物を探しに行った田道間守(たじまもり)の墓だといわれています。
 田道間守は命を受けてから10年後、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)という橘の実を持ち帰りましたが、天皇はすでに崩御されていました。悲嘆にくれて死んでしまったそうです。それを哀れんでそばに葬られたとのことです。



郡山城
こおりやまじょう
奈良県大和郡山市城内町


 郡山城は平山城で戦国大名筒井順慶により築城されました。豊臣政権では秀吉の弟秀長の居城となり、江戸時代には大和郡山藩の藩庁が置かれました。
 天正8年(1580)大和一国を領した筒井順慶は筒井から郡山に移り、ここに居城を築きましたが36歳の若さで没しました。
 順慶の死後、養子の定次は伊賀上野に転封となり、天正13年(1585)豊臣秀吉の弟秀長が大和・和泉・紀伊三ヵ国百万石の領主として郡山城に入りました。秀長は大規模な築城を行ない城下町を発展させました。
 増田長盛、筒井定慶、水野勝成、松平、本多を経て、享保9年(1724)柳沢吉保の長男、吉里が甲府から移封になり、明治まで柳沢家が治めました。
 天守台の裏手、北側の石垣には、付近から徴用されて築城に使われた数多くの石地蔵が、石垣に組み込まれたまま城下の人々により祀られています。中には逆さになった状態で石の間に埋もれている逆さ地蔵も含まれています。
 市内東部の平城京羅城門の礎石などもあり、石が足りず使ったのか、社寺の力を抑えるためにわざと使用したのか論議されています。



柳沢神社
やなぎさわじんじゃ
奈良県大和郡山市城内町本丸跡


 柳沢神社は大和郡山城内にあります。城主柳沢氏の氏神で五代将軍綱吉の老中であった家祖柳澤吉安とその長男柳澤吉里を祀っています。
 明治13年(1880)10月に旧藩士たちにより建てられたそうです。拝殿入口の扁額「柳澤神社」の文字は、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の筆だということです。
 拝殿は中間付拝殿で割拝殿と呼ばれます。本殿は銅板一間社流造で敷地は1583坪あります。柳沢吉保は第5代将軍徳川綱吉の幕臣となり元禄時代には大老格として幕政を主導した人物です。
 宝永6年(1709)綱吉が亡くなると甲府藩主であった徳川家宣が将軍になりました。吉保は家宣の後任として甲府藩(山梨県甲府市)15万石の藩主となりましたが隠居して長男の吉里に柳沢家の家督を譲りました。
 柳沢吉里は享保9年(1724)本多氏断絶の後を受けて、郡山へ移封しました。大和、近江、河内、伊勢四ヶ国で15万1288石を領しました。郡山藩初代城主は優れた文人でもあり、和歌は父吉保と共に北村季吟や霊元上皇の選を受けています。



法隆寺
ほうりゅうじ
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1−1
Tel 0745-75-2555


 法隆寺は推古天皇15年(607)先帝の用明天皇の遺志を継ぎ、推古天皇と聖徳太子によって創建されたそうです。
 日本書紀には天智9年(670)伽藍を焼失したと記されており、今の伽藍は8世紀初頭に完成したとみられています。
 東大寺や興福寺のように兵火や天災に見舞われず、飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築名のです。
 境内は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。それぞれが国の重要文化財の大垣と呼ばれる築地塀で囲まれています。
 広さ約18万7千平方mの境内には、飛鳥時代をはじめとする各時代の粋を集めた建築物が軒をつらね、たくさんの宝物類が伝来しています。国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして2300余点に及んでいます。
 法隆寺の建築物群は法起寺と共に、平成5年(1993)年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産に登録されています。



法隆寺・東院伽藍
ほうりゅうじ・とういんがらん
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1−1
Tel 0745-75-2555


 法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。
 この東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡であり、天平10年(738)頃、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子をしのんで建立したものだそうです。
 回廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、回廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿の北に接して伝法堂が建っています。
 明治維新以後の廃仏毀釈により、財政面で困窮の淵にあった法隆寺は、明治11年(1878)貴重な寺宝300件余を皇室に献納し、一万円を下賜され、この援助で7世紀以来の伽藍や堂宇が維持されました。
 国宝の夢殿は八角円堂の建物です。四方に扉が設けてあり、瓦ぶきの屋根は創建当時のものです。、夢殿は643年蘇我入鹿によって焼かれ、現在ある夢殿は天平時代の建立です。
夢殿
 夢殿は聖徳太子が夢の中で金人(仏)に出会ったという伝説から名づけられたといわれています。明治17年(1884)岡倉天心はフェノロサと共に数百年間開けられたことの無かった秘仏の救世観音像をみつけました。
 国宝の伝法堂(でんぽうどう)は天平11年(739)聖武天皇夫人の橘古那加智の住居を施入したもので、東院の講堂にあたります。床を張った現存最古の建物です。
伝法堂
 桁行き三間、梁行き四間の壁と扉で閉ざされた部分、桁行き二間の開放的な部分そして広い簀子敷と三つの空間からなっています。床を上げ、土間から切り離す古代平地住居の形式をとっています。空間を仕切るものとして壁と扉しかなく、内部には間仕切りもありません。
 東院にある鐘楼も国宝です。三間二間の楼造で、一階に腰板を張って軸部を見えなくした袴腰(はかまごし)という形式です 。舎利殿の舎利を奉出する時や、東院伽藍で法要が営まれる時の合図として使用されています。
東院鐘楼
 内部に「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊されています。そのことから中宮寺より移されたものといわれています。
東院鐘楼
 舎利殿は聖徳太子が2歳の春に、合掌された掌中から出現したという舎利を安置する建物です。国の重要文化財に指定されています。
舎利殿



法隆寺・西院伽藍
ほうりゅうじ・せいいんがらん
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1−1
Tel 0745-75-2555


 法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。日本書紀に天智天皇9年(670)に法隆寺は一屋余すところなく焼失したという記事があり、現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子創建時のものと、全焼した後、再建されたものとする説とあります。
 法隆寺の伽藍全体の総門にあたる国宝の「南大門」は、三間一戸の八脚門です。創建時のものは、永享7年(1435)に焼失し、永享10年(1438)に現在の門が再建されました。
南大門
 、単層入母屋造で大きな屋根と深い軒が特徴です。東大寺南大門(奈良県奈良市)・東照宮陽明門・日暮門(栃木県日光市)とともに、日本3大門のうちの1つに数え上げられています。
南大門
 国宝の中門は入母屋造の二重門です。西院伽藍の正門です。天智9年(670)の火災後再建された門で正面柱間が4間で、真中に柱が立つ珍しい門です。
中門
 門内の左右に塑造金剛力士立像を安置しています。和銅4年(711)に造られた日本最古の仁王像で国の重要文化財に指定されています。深く覆いかぶさる軒、その下の組物や勾欄、それを支えるエンタシスの柱、いずれも飛鳥建築の特徴です。
中門
 国宝の五重塔は木造塔として日本最古の塔です。初重から五重までの屋根の逓減率が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分の大きさになっています。高さは基檀上より約31.5mです。
五重塔
 初層内陣には心柱を囲むように須弥壇が築かれています。東面・西面・南面・北面それぞれに有名な塑造群像があります。これら80点が国宝です。東面は「維摩経」(ゆいまきょう)に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は分舎利の場面、南面は弥勒の浄土を表わしています。
五重塔
 法隆寺のご本尊を安置している国宝の金堂です。世界最古の木造建築です。四方に階段を付けた二重の基檀に立つ二層づくりで、柱上に横材が何段も井桁に組まれています。
金堂
 堂内には聖徳太子の冥福を祈って造られたという止利仏師の国宝・釈迦三尊像を安置しています。天人と鳳凰が飛び交う天蓋が吊るされ、周囲の壁面には、世界的に有名な飛天図が描かれています。この12面の壁画は昭和24年(1949)の昭和の大修理中に火災にあい、再現された壁画です。
金堂
 国宝の大講堂は仏教の学問を研鑽したり、法要を行う施設として建立されました。鐘楼とともに延長3年(925)に落雷により焼失しましたが、正暦元年(990)に再建された建物です。
大講堂
 本尊の薬師三尊像(国宝)及び四天王像もその再建されたときに造られています。垂木勾配を緩くしたままで造られています。そのため日本独特の屋根の上にまた屋根を設けるという形式です。このような形式の屋根では現存最古のものだそうです。
大講堂
 回廊も国宝です。東側の国宝の鐘楼、中央の大講堂、西側の経蔵につながり、西院伽藍を形造っています。平安時代以前の回廊は、経蔵、鐘楼の手前で閉じられ、大講堂、経蔵、鐘楼は回廊の外側に建っていたようです。
回廊
 エンタシスの円柱が続き、間には連子窓(れんじまど)が組み込まれています。西回廊(73m)より東回廊(76m)のほうが一間だけ長くなっているのは、金堂と五重塔のバランスを考慮したものだと考えられています。
回廊
 経蔵は経典を納める施設として建立されました。ここも国宝です。天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧、観勒(かんろく)僧正の座像(重文)を安置しています。
経蔵
 西院伽藍の西北の丘の上に八角形をした国宝の西円堂があります。奈良時代、聖徳太子の3夫人の1人橘夫人の発願により行基菩薩によって、創建されたと伝えられています。現在の建物は、建長2年(1250)に再建されたものです。
西円堂
 堂内の空間いっぱいに坐す本尊薬師如来坐像(国宝)は、奈良時代の乾漆像です。俗に「峰の薬師」と呼ばれ、耳病によく効くというので、錐(きり)を納める風習が今日に伝わっています。本尊台座周囲には小ぶりな十二神将立像(重文)、千手観音立像(重文)を安置しています。
西円堂
 国宝の聖霊院は西院伽藍の東側に建つ、聖徳太子を祀る寝殿造りの建物です。保安2年(1121)東室の南側の一部を改造したもので、現在の建物は弘安7年(1284)にやや規模を大きくして新造されたものです。
聖霊院
 厨子には聖徳太子が45歳の時に講義する姿を表した国宝の聖徳太子像のほか太子の長子・山背大兄王や兄弟皇子の殖栗王の像、太子の兄弟皇子・卒末呂王や高句麗僧・恵慈法師の像(いずれも国宝)が祀られ 、「お会式」で公開されるそうです。
聖霊院
 国宝の三経院(さんぎょういん)は西院伽藍の西側、聖霊院と対称的な位置に建っています。創建時代の建物は焼失し、寛喜3年(1231)聖徳太子が勝鬘経・維摩経・法華経の三つの経典を注釈されたこと(三経義疏)にちなんで、西室の南端部を改造して建てられました。
三経院
 三経とは、法華経・維摩経・勝鬘経で現在も毎年、夏安居の3ヶ月間(5月16日〜8月15日)に講義を行なっています。国の重要文化財の阿弥陀如来坐像持国天・多聞天立像を安置しています。
三経院
 国宝の綱封蔵(こうふうぞう)は聖霊院の東に位置しています。綱封蔵とは全僧侶を統括する僧官である僧網が開閉する蔵です。綱封は勅封に次ぐ格式があったそうです。
綱封蔵
 南北9間の両端各3間にそれぞれ蔵を設け、中央の3間が吹き抜けになっています。双蔵(ならびくら)と呼ばれる様式の建物です。またエンタシスの床柱など奈良時代の特色をみることも出来ます。ここにあった寺宝などは大宝蔵殿などへ移されているそうです。
綱封蔵
 国宝の食堂(じきどう)は天平時代に建立された現存日本最古の食堂です。単層切妻造りの簡素な建物です。もとは政所という法隆寺の寺務所でしたが、平安時代に入り僧が食事をする場所として使われました。
食堂と細殿
 重要文化財の細殿と軒を接して並べて建てられています。このような建て方は双堂(ならびどう)といい、奈良時代の様式です。
食堂
 大宝蔵院は国宝の百済観音像を祀るために平成10年(1998)に建てられた新しいお堂です。内部には悪夢を良夢に替えてくれるという国宝の夢違観音(観音菩薩立像)や、香木を用い、彩色を施さず白木で仕上げた国宝の観音菩薩立像(九面観音)も安置されています。
大宝蔵殿
 また大宝蔵院には推古天皇が所持していた仏殿と伝えられている国宝の玉虫厨子もあります。透かし彫りの飾金具の下に本物の玉虫の羽を敷き詰めて装飾したことからこの名があります。厨子の扉や壁面の装飾画も素晴らしい作品です。
大宝蔵殿
 国宝の東大門は西院伽藍から東院伽藍へ向かう道筋に建っています。珍しい三棟造りの八脚門です。切妻造、本瓦葺で奈良時代八脚門の典型的な形式の山門です。
東大門
 この東大門は「中ノ門」ともよばれています。平安時代に現在の場所に移設されたようです。天平時代のものとしては、他に東大寺の転害門があるだけです。
東大門



中宮寺
ちゅうぐうじ
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1−1−2
Tel 0745-75-2106


 法興山中宮寺(ちゅうぐうじ)は、法隆寺の東院伽藍の北東に接する門跡寺院です。聖徳宗に属し、本尊は如意輪観音です。開基は聖徳太子とされています。
 聖徳太子の母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう、第31代用明天皇の皇后)の御願によって、太子が西の法隆寺と対照的な位置に、太子の宮居斑鳩宮を中央にして創建されたようです。
 太子の斑鳩宮・岡本宮・葦垣宮の中間にあたるところから中宮寺と呼ばれたといわれています。
 平安時代には寺運衰退してましたが、鎌倉時代に興福寺の信如尼(しんにょに)が来住して、荒廃した寺を復興し、文永11年(1274)法隆寺の国宝「綱封蔵」から飛鳥時代に作られた国宝の天寿国繍帳(てんじゅこくしゅちょう)を発見したそうです。
 天文年間に伏見宮貞敦(さだあつ)親王の皇女尊智女王(そんちのおおきみ)が入寺され、慶長7年(1602)、慈覚院宮を門跡に迎え、それ以後は皇女が入寺する門跡寺院になり、中宮寺御所または斑鳩御所と呼ばれています。
 本堂には国宝の木造菩薩半跏像が安置されています。謎のアルカイックスマイル(古典的微笑)は、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザと共に「世界の三微笑像」の1つの数え上げられています。



法起寺
ほうきじ、ほっきじ
奈良県生駒郡斑鳩町岡本1873
 Tel 0745-75-5559


 法起寺は推古14年(606)に聖徳太子が法華経を講じた「岡本宮」の跡地と言われています。太子の遺言により子息の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が岡本宮を寺に改めたのが法起寺の始まりとされています。
 法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つに数え上げられ、岡本尼寺、岡本寺、池後寺、池後尼寺とも呼ばれています。
 平安時代から法隆寺の指揮下に入り、寺運も徐々に衰退し、江戸時代のはじめごろには三重塔しかなかったそうです。
 再興を発願した寺僧の真政圓忍(しんせいえんにん)とその弟子たちによって、延宝6年(1678)に三重塔は修復されました。その後、元禄7年(1694)に講堂を再建、文久3年(1863)に聖天堂を建立し、現在の寺観が整えられました。
 国宝の三重塔は恵施僧正によって天武天皇13年(684)に起工し、慶雲3年(706)に完成したといわれています。高さ24mで、三重塔としては日本最古のものです。



石光寺
せっこうじ
奈良県葛城市染野387
Tel 0745-48-2031


 石光寺は當麻寺(たいまでら)の北、1km付近にあります。天智天皇の時代、光り輝くる弥勒三尊の石像が出てきたそうです。そこで勅願により役小角(えんのおづね)が堂宇を建て、石光寺と称したのが始まりといわれています。日本最古の弥勒石仏が残っています。
 伝説の中将姫が使ったとされている曼荼羅を紡ぐ糸時糸を染める染の井や糸かけ桜があります。石光寺はそのため染め寺ともいわれています。
 中将姫は當麻寺にある国宝・綴織当麻曼荼羅を織り上げた人物として有名です。阿弥陀如来が老尼の姿に変え、中将姫を導いたそうです。
 石光寺は當麻寺と同じく牡丹の名所として知られ、春牡丹と、寒牡丹500種類あまり咲き乱れます。



當麻寺(当麻寺)
たいまでら
奈良県葛城市当麻1263
Tel 0745-48-2008


 當麻寺は高野山真言宗および浄土宗兼宗の古刹です。612年に用明天皇の第三皇子麻呂子王(まろこのきみ)が河内国に建立した万法蔵院に始まります。
 その後、麻呂古親王の孫にあたる当麻真人国見(まひとくにみ)が霊夢にしたがって、役行者練行のこの地に移したそうです。685年頃、金堂の他、講堂、東塔、西塔といった伽藍堂塔が建立され、當麻寺となったようです。
 当初は三論学を中心とする奈良仏教の学問寺院でしたが、弘仁14年(823)に弘法大師が参籠してから、真言密教が伝えられ、真言宗となりました。
 のちに浄土宗が興ると当麻曼荼羅を中心とする浄土信仰の霊場として栄えました。現在、真言宗、浄土宗の両宗併立となっています。
 當麻寺には、南を正面とする金堂・講堂と、東を正面とする本堂が相接して建っています。これらの南方には東西2つの三重塔が建ち、金堂と東西両塔の間には中之坊などの子院が建てられています。
 国宝の本堂は當麻寺で一番大きな建物です。當麻曼荼羅が置かれていることから曼荼羅堂ともよばれています。金堂や講堂が南面しているのに対し、曼荼羅堂は西方極楽浄土を象徴して、寺の西方に東面して建っています。
當麻寺本堂
 正面7間、側面6間、寄棟造の本瓦葺きで、背面に3間1間の閼伽棚(あかだな)が付いています。内部は内陣、外陣、外々陣に分けられています。内陣は天平様式を伝え、桁行7間、梁間4間であり、この部分が当初の千手堂だったようです。永暦2年(1161)に外陣部分を拡張して再建されました。
當麻寺本堂
 本堂の内陣に安置されている高さ約5mの巨大な厨子は曼荼羅を掛けるための厨子で国宝です。奈良時代末期から平安時代初期の作とみられます。中将姫が百駄の蓮茎を集めて蓮糸を繰り、井戸に浸して五色に染め、一夜にして織り上げた一丈五尺(約4m四方)の「綴織當麻曼陀羅」(国宝)が本尊です。
當麻寺本堂
 国の重要文化財に指定されている金堂は入母屋造、本瓦葺きの建物です。内陣の柱に文永5年(1268)の田地寄進銘があり、これ以前の鎌倉時代前期の再建と思われます。
當麻寺金堂
 金堂は曼陀羅堂が本堂になる以前の本堂です。 本尊は白鳳時代に造られた国宝の塑像の弥勒菩薩です。當麻寺創建時よりの本尊で、顔の金箔もかなりはげています。本尊のまわりに乾漆の四天王像が立っています。
當麻寺金堂
 国の重要文化財に指定されている講堂は金堂の背後、真北にあります。正面7間、側面4間の寄棟造、本瓦葺きの建物です。棟木の墨書により鎌倉時代末期の乾元2年(1303年)に再建されたものです。
當麻寺講堂
 堂内の須弥壇中央に本尊の寄木造「阿弥陀如来坐像」が安置されています。12世紀末に造られたもので、国の重要文化財に指定されています。他にも多くの仏像を安置しています。
當麻寺講堂
 国宝の當麻寺東塔です。中の坊の裏に建っています。創建当時の東西両塔がそろって残っているのは當麻寺だけだそうです。本瓦葺きの3間三重塔で高さは約23mです。古式にのっとり基壇上に建てられています。
當麻寺東塔
 天平時代の飛鳥様式を多く残し、荒削りな力強さを感じさせます。後世の和様三重塔婆の基本形といわれています。天を突く青銅製の相輪は普通9輪ですが1つ少ない8輪と珍しいもので、水煙(すいえん)も二等辺三角形のような独特な形をしています。
當麻寺東塔
 国宝の當麻寺西塔です。金堂の南に東塔と相対して建っています。治承4年(1180)平重衡の南都攻略によって焼失した後、鎌倉時代に源頼朝によって再建されました。
當麻寺西塔
 本瓦葺きの3間三重塔で高さは約25mで東塔より少し高くなっています。西塔の初重には窓がなく壁になっています。相輪はこちらも8輪です。水煙は唐草模様で構成された方形の先端に宝珠状の火焔(かえん)を配しています。
當麻寺西塔
 国宝の梵鐘は無銘ながら日本最古の白鳳時代のものだそうです。當麻寺創建当時の遺物と推定されています。総高150.5cm、口径は大きな裂傷のため不整で82.1から86.7cmの縦長の鐘です。
當麻寺梵鐘
 當麻寺にある日本最古の石灯籠です。白鳳時代に松香石(しょうこうせき・凝灰岩)で造られました。国の重要文化財に指定されています。
石灯籠
 當麻寺の塔頭である西南院は、用明天皇の皇子麻呂子親王の発願によって創建されたそうです。本尊の木造十一面観音立像、木造聖観音立像、木造千手観音立像はいずれも平安初期の造立で国の重要文化財に指定されています。
當麻寺西南院
 西南院の庭園は池泉回遊式庭園です。江戸初期に造られ、中期ごろ一音法印によって改造された庭園です。天平建築の粋たる西塔を借景とし、山すそより種々の樹木を植え、小丸・段刈り込みなどを用いて自然的な景観にしています。
當麻寺西南院
 當麻寺の塔頭である中之坊は役行者が開いた道場で、當麻寺では最古の塔頭です。740年頃(天平時代)11世実雅上人が女人禁制を解き中将姫を迎え入れました。中将姫はここで出家、剃髪したそうです。中将姫は一夜にして「綴織當麻曼陀羅」織り上げた伝説の女性です。
當麻寺中之坊
 中之坊書院は国の重要文化財に指定されています。江戸初期の住宅建築で、東側は切妻造、西側は入母屋造で曾我二庵筆の花鳥山水画の襖で飾られています。また中之坊庭園は、古くから大和三名園(竹林院・慈光院)と賞される池泉回遊式兼観賞式庭園で国の名勝です。
當麻寺中之坊
 當麻寺の塔頭である奥院は、浄土宗総本山知恩院の「奥之院」として建立された寺です。最初は往生院と呼ばれていました。知恩院第12代誓阿普観上人が知恩院のご本尊として安置されていた法然上人像を(重文)を後光厳天皇の勅許を得て応安3年(1370)ここに建立しました。
當麻寺奥院
 本堂は桁行7間、梁間5間の1重、寄棟造で本瓦葺きです。3間の向拝が付いています。大方丈、楼門とともに国の重要文化財に指定されています。
當麻寺奥院本堂



橿原神宮
かしはらじんぐう
奈良県橿原市久米町934
Tel 0744-22-3271


 橿原神宮は神武天皇が即位建国した宮趾に、明治23年(1890)創建された神社です。ご神体は神武天皇とその皇后・媛蹈鞴五十鈴媛です。
 橿原神宮を含む一帯は南北に長い橿原公苑として整備されており、北側が神武天皇御陵、南側が橿原神宮となっています。神域は50万平方mにおよび、敷地内には森林遊苑や深田池などもあります。
 本殿は安政2年(1855)に建造された京都御所の賢所を移築したもので、国の重要文化財に指定されています。また文華殿は天保15年(1845)に建立された天理市柳本町にあった旧柳本織田藩主の「表向御殿」を移築し復元したものです。



神武天皇 畝傍山東北陵
じんむてんのう うねびやまのうしとらのすみのみささぎ
奈良県橿原市大久保町


 神武天皇陵は畝傍山の北東のふもとにあります。周囲は約100m、高さ5.5mの八稜円形で、幅約16mの周濠をめぐらせています。神武天皇は日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇です。
 古事記では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)と称され、日本書紀では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称されています。
 日向地方から瀬戸内海を東に進み難波に上陸。生駒の豪族長髄彦に阻まれ、南下して熊野へ。そこで八咫烏というカラスに導かれて吉野山を越えて大和に入り、宿敵の長髄彦も倒して大和地方を平定しました。紀元前660年に橿原宮で即位して、初代の天皇となったそうです。



綏靖天皇 桃花鳥田丘上陵
すいぜいてんのう  つきだのおかのえのみささぎ
奈良県橿原市四条町


 綏靖天皇(すいぜいてんのう)は、日本の第2代の天皇といわれています。神武天皇の末子で名は神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)とも神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)ともいわれています。
 母は古事記では三輪山の神大物主の娘、日本書紀では事代主神の娘と書かれています。神武天皇が崩御された後、母は異母兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)と再婚しました。
 手研耳命は天皇になろうと弟たちを殺そうと企て、綏靖は他の兄と共に逆にこれを討ちました。この時、兄は手足が震え手研耳命を殺すことができず、綏靖が一矢で仕留めたそうです。その功により弟でしたが天皇になったとのことです。



藤原京朱雀大路跡
ふじわらきょうすざくおおじあと
奈良県橿原市上飛騨町


 694年、持統天皇は天武天皇の時代から建設中であった藤原京に遷都しました。日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)を布いた本格的な中国風都城でした。
 藤原京の南正門からまっすぐに南に延びる道は朱雀大路といい、藤原京の中心道路でした。昭和51年(1976)の発掘調査によって幅21mの大路が確認されました。



今井町重要伝統的建造物群保存地区
いまいちょうじゅうようでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく
奈良県橿原市今井町


 今井町は江戸時代の町並みが残り、平成5年(1993)国の重要伝統的建物群保存地区の指定を受けた町です。
 慶安3年(1650)に建築された今西家を始めとして、国の重要文化財に指定された民家が8軒、県の重要文化財に指定された民家が2軒有るほか、文化財上貴重な民家が多数残っている歴史的市街地です。
 戦国時代に称念寺の寺内町として発展し、江戸時代には自治特権を与えられ、「海の堺」、「陸の今井」として繁栄しました。「大和の金は今井に七分」と謡われ、当時の今井が豊かな財力を持って居た事を明かしています。
 東西約600m、南北約310mの周囲を濠で囲まれた地区に伝統的建築様式の建物約500軒が密集しています。狭い路地は防備上見通しのきかない町割となっていて、現存する民家の多くは伝統的な様式を保って、この中で生活を営んでいます。



河合家住宅
かわいけじゅうたく
奈良県橿原市今井町1
Tel 0744-22-2154


 河合家住宅は 屋号を「上品寺屋」といい、造り酒屋です。寛永年間に上品寺村(橿原市上品寺町)から移ったようです。国の重要文化財に指定されています。
 安永元年(1772)には既に酒を造っており、今なお酒造業を営んでいます。屋根の一方が切妻、もう一方が入母屋という珍しい造りです。2階には座敷があります。



中橋家住宅
なかはしけじゅうたく
奈良県橿原市今井町3


 中橋家住宅は称念寺東方斜め筋向かいにある中規模な民家です。屋号を「米彦」といい、米屋を営んでいたそうです。国の重要文化財に指定されています。
 主屋は切妻造、本瓦葺、平入りで、道に面した側面は白壁、下部板壁となっています。内部は、西側を土間、東側に六室をとっています。18世紀後半に建てられた平屋建の町屋でしたが19世紀初期に正面通りに「つし二階」が増築されています。



今西家住宅
いまにしけじゅうたく
奈良県橿原市今井町


 今西家住宅は「八つ棟造り」と呼ばれる城郭を思わせる構造の民家で、国の重要文化財に指定されています。今西家は今井町を支配した惣年寄の筆頭で町の自治権を任されていました。
 棟札によると慶安3年(1650)の建築で、間口15.9m、奥行13.8m、一部2階の入母屋八つ棟造り、本瓦葺きの堂々たる建物です。内部には、裁判が行なわれたお白洲や、罪人を閉じこめた部屋(いぶし牢)も残っています。



音村家住宅
おとむらけじゅうたく
奈良県橿原市今井町1


 音村家住宅は中町筋北側に建っています。屋号を「細九」といい、かつては金物問屋を営んでいたそうです。17世紀後半頃の建築と推定されます。国指定の重要文化財です。
 主屋は切妻造、本瓦葺、平入りで、正面のみ「つしニ階」があります。内部は東側は通り土間になっています。西北部に「角座敷(つのざしき)」が19世紀中頃、増設されています。



高木家住宅
たかぎけじゅうたく
奈良県橿原市今井町1
Tel 0744-22-3380


 高木家住宅は中尊坊通りの東端しにあります。四条屋の分家で屋号を「大東の四条屋」といい、本家の酒造業を助けながら、後には醤油業も営んでいたそうです。国の重要文化財に指定されています。
 切妻造、本瓦葺きの2階建で、幕末上層民家の特徴が残っています。2階の窓も虫籠(むしこ)窓ではなく、出格子(でごうし)窓になっています。江戸時代末期に建てられたようです。



豊田家住宅
とよだけじゅうたく
奈良県橿原市今井町
Tel 0744-25-0418


 豊田家住宅は寛文2年(1662)の建築で、今井町では今西家に次いで古い家です。2階正面「虫小窓」の左右に「木」の字を丸で囲んだ大きな紋がついています。材木商、金融業として栄え、福井藩の蔵元もつとめた「西の木屋」、牧村家の屋号を表す紋です。
 豊田家は屋号を「紙八」といい、明治初年「紙半」から分家してこの家に移ったそうです。主屋は間口12m、奥行11.7m、一部2階建てで入母屋造、本瓦葺きの建物です。南面と北面にひさしをつけています。



上田家住宅
うえだけじゅうたく
奈良県橿原市今井町4


 上田家住宅は大工町筋の南側に建っています。屋号を「壺屋」といい、寛永16年(1639)より今西家、尾崎家と並び惣年寄を勤めていました。惣年寄の旗が残っています。国指定の重要文化財です。
 延享元年(1744)の祈祷札があるのでこの頃の建築とみられます。入母屋造、本瓦葺で、二階の軒は低く、内部は北側に土間、南側は整形六間取りとなっています。



旧米谷家住宅
きゅうこめたにけじゅうたく
奈良県橿原市今井町1
Tel 0744-23-8297


 旧米谷家住宅は中町筋北側に面しています。屋号を「米忠」といい、代々金具商、肥料商を営んでいたそうです。国指定の重要文化財です。
 主屋は切妻造、本瓦葺き、平入りで立ちの低い町家です。内部は東側に通り土間があります。そこには煙返しが付いていて農家風の民家です。18世紀中頃の建築と推定されています。



旧高市郡教育博物館
きゅうたかいちぐんきょういくはくぶつかん
奈良県橿原市今井町2−3−5
Tel 0744-24-8719


 旧高市郡教育博物館は左右対称に翼楼(よくろう)がついた美しい明治建築です。明治36年(1903)に建てられた奈良県初の社会教育施設でした。その後、今井町役場として使われました。
 現在は今井まちづくりセンター華甍(はないらか)として今井の歴史や建築を紹介し、今井観光案内の拠点となっています。なおこの建物は奈良県の指定文化財になっています。



称念寺
しょうねんじ
奈良県橿原市今井町335
Tel 0744-22-5509


 称念寺(しょうねんじ)は自治都市今井町の中心的存在で江戸時代に再建された堂宇は繁栄ぶりをしのばせる豪壮な建物です。本堂は国の重要文化財に指定され、太鼓楼 、庫裡客殿、対面所は橿原市指定文化財です。
 天文年間(1532年〜1555年)石山本願寺の家衆であった今井兵部が創建しました。織田信長により武装解除させられてからは、自治都市の要として栄えました。明治10年(1877)には、ここに明治天皇が立ち寄っています。



旧常福寺
きゅうじょうふくじ
奈良県橿原市今井町3丁目162


 今井町の西南隅に春日神社があります。今井町は藤原氏の氏寺である興福寺の荘園であったので、春日神社があるのです。明治初年までここに「常福寺」があり、春日神社の神宮寺でした。
 常福寺は明治の廃仏毀釈で廃棄され観音堂、表門、行者堂が残っています。観音堂、表門は橿原市の文化財に指定されています。
 旧常福寺観音堂は慶長18年(1613)に上棟したことを記す棟札が残されています。延宝9年(1681)から天台宗多武峯妙楽寺末寺となっていました。



藤原宮跡
ふじわらきゅうあと
奈良県橿原市高殿町


 藤原宮跡は694年に持統天皇が飛鳥から遷都され、和銅3年(710)に平城京に遷都されるまでの3代16年、藤原京の首都として機能していた都の跡です。
 藤原京は唐の長安を模した日本で初めての本格的な都市です。その中心の藤原宮には天皇の住まいである内裏や儀式などを行なう対極殿、役所にあたる官衙などが置かれていました。
 藤原宮は東西2.17km、南北3.27kmの規模であったようです。宮跡からは木簡、桶、板人形、土器などが多数出土しています。国の特別史跡に指定されています。



本薬師寺跡
もとやくしじあと
奈良県橿原市城殿町


 本薬師寺跡(もとやくしじあと)は藤原京にあった薬師寺の跡です。奈良の薬師寺は藤原京から平城京に遷都されるときにこの地より建物が移されたとされています。移された薬師寺と区別するために本薬師寺跡と呼ばれているのです。
 680年天武天皇は後の持統天皇となる皇后の病気平癒を願い、薬師寺建立を発願しました。天武天皇はその完成を待たずに崩御、遺志を継いだ持統天皇が698年、薬師寺を完成させました。
 藤原京が和銅3年(710)に平城京へ遷都されると、薬師寺もまたその8年後の養老2年(718)、藤原京の後を追うように平城京へと移転しました。今は金堂跡と東西両塔跡に大きな礎石を残すのみです。



飛鳥寺(安居院)
あすかでら(あんごいん)
奈良県高市郡明日香村飛鳥682
Tel 0744-54-2126


 飛鳥寺(あすかでら)は596年蘇我馬子が発願して創建された日本最古のお寺です。平城遷都で奈良に移り、元興寺となりました。ここは法興寺、元興寺と呼ばれ、現在は安居院となっています。
 近年の発掘調査では、東西200m、南北300m、塔を中心に東金堂、西金堂、中金堂を配し、それらを回廊で囲み、その外に講堂を置くという独特の伽藍配置だったようです。法隆寺の3倍近い大寺院で蘇我氏の権勢を物語るお寺でした。
 江戸時代に再建された講堂(元金堂)の中には本尊の飛鳥大仏が祀られています。606年に推古天皇が中国渡来した鞍作止利仏師に造らせたそうで、東大寺の大仏よりも150年も古い日本最古の像です。
 高さと2.75mの巨大な飛鳥大仏(銅造釈迦如来座像)は2度の金堂消失と雨ざらしのためかなり破損し、顔面、左目、右手人差し指が残っていただけでしたが、発掘で見つかった様々な部分を使って修復され、国の重要文化財にも指定されました。



安倍文殊院
あべもんじゅいん
奈良県桜井市阿部645
Tel 0744-43-0002


 安倍文殊院は京都の天橋立切戸の文殊、山形の亀岡文殊とともに日本三大文殊の一つに数え上げられています。
 華厳宗のお寺で、本尊は文殊菩薩です。獅子に乗った木彫極彩色の文殊菩薩は快慶の作で、総高7mもあります。文殊像では日本最大で国の重要文化財に指定されています。
 大化元年(645)孝徳天皇の勅願で、左大臣の安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が創建しています。安倍仲麻呂や平安時代の陰陽師安倍晴明ゆかりの地としても知られています。
 子院40余りを数える大寺院で寺運も隆盛しましたが、永禄6年(1563)松永久秀の兵火にあい焼失しました。
 現在の堂宇は寛文年間(1681-1673)に再建されたものです。入母屋造、桟瓦葺きの庫裏は明治6年(1873)に造られ県の文化財に指定されています。
 境内には安倍仲麻呂にちなんだ金閣浮御堂が立つ文殊池や、精巧な石室をもつ文殊院西古墳、巨石を積んだ閼伽井古墳、白山堂などがあります。

 文殊院西古墳は本堂東にある横穴式古墳です。全長12m、玄室の長さ5.1m、幅2.9m、高さ2.7mの石室です。古墳時代末期の築造とみられます。
文殊院西古墳
 内部は良質の花崗岩が使用され、表面をきれいに削ってあります。長方形に整形し互い違いに五段に整然と積み上げられています。天井には巨大な一枚石をのせ、アーチ状に造られています。国の特別史跡に指定されています。
文殊院西古墳

 文殊院東古墳は、閼伽井(あかい)の窟とも呼ばれています。智恵の水「閼伽水」が湧き出る泉があるのです。閼伽水とは仏に供える清浄かつ神聖な水のことです。
文殊院東古墳
 古来より閼伽井の窟を参拝すると知恵が湧くことで知られています。
 この石室は自然石での乱石積となっています。ここは奈良県の史跡に指定されています。
文殊院東古墳

 安倍文殊院にある白山堂は、加賀の国(石川県)の霊峰「白山」をご神体とする白山神社の末社です。伊邪那岐命と伊邪那美命の縁を取り持った菊理媛命(くくりひめのみこと)が祀られています。このことから白山堂は特に縁結びにご利益があると信仰を集めています。
白山堂
 白山堂は安倍山の鎮守として造られた白山神社です。本殿は室町時代の末期の造立で、一間社流、向拝唐破風付、?葺きの建物で国の重要文化財に指定されています。
白山堂



安倍寺跡
あべでらあと
奈良県桜井市阿部


 安倍文殊院の南西に文殊院の前身、安倍寺がありました。この地域一帯は、安部氏一族の本拠地であったといわれています。安倍寺は641年から685年頃の間に、左大臣の安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)によって創建されたようです。
 安倍寺は戦国時代の戦火に焼かれ、その後再建されることなく、別院であった現在の文殊院に移ったとようです。南北100m、東西92mの寺地から、法隆寺式伽藍配置の塔跡と講堂跡が出てきました。飛鳥時代の寺院跡として国の史跡に指定され、史跡公園として整備されています。



長谷寺
はせでら
奈良県桜井市初瀬731−1
Tel 0744-47-7001


 長谷寺(はせでら)は、豊山神楽院と称し、真言宗豊山派(ぶざんは)の総本山で、西国三十三箇所観音霊場の第八番札所です。
 寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、道明上人が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、徳道上人が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したといわれています。
 長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めました。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しています。また「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典文学にも登場しています。
 長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺でしたが、正暦元年(990)頃に興福寺(法相宗)の末寺となりました。天正15年(1587)豊臣秀長が特別の配慮を寄せ、空賢専誉(くうけんせんよ)を迎えました。
 その事により、興教大師覚鑁(かくばん)によって興され頼瑜僧正により成道した新義真言宗の寺院となりました。明治33年(1900)真言宗豊山派として独立し、総本山になりました。
 本堂以外の建物のほとんどは明治44年(1911)の大火災で焼失し、大正年間(1913-1926)に再建されました。寺宝類はきわめて多く、国宝、重要文化財を含め千点近くを所蔵しているそうです。
 国宝の本堂のほか、仁王門、下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊が国の重要文化財に指定されています。
 本堂は奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536年)までに計7回焼失したそうです。豊臣秀長の援助で天正16年(1588)に新しい堂が竣工しました。現存する本堂は徳川家光の寄進を得て、正保2年(1645)から工事に取り掛かり、5年後の慶安3年(1650)に落慶したものだそうです。
本堂
 本堂は間口25.9m、奥行27.1mと大きな建物です。入母屋造で本瓦葺き、正堂は一重裳階(もこし)が付いています。本堂には本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)があります。前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり)になっています。
本堂



大神神社
おおみわじんじゃ
奈良県桜井市三輪1422
Tel 0744-42-6633


 大神(おおみわ)神社は大和盆地の東南にある三輪山そのものを神体とした神社です。三輪明神ともよばれています。今日でも本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残しています。
 大神神社は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を主祭神とし大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)を配祀しています。日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在する理由などから「日本最古の神社」と称されています。
 寛文4年(1664)、徳川家綱によって造替された拝殿と、その奥にある三ツ鳥居は国の重要文化財に指定されています。三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものです。この鳥居を通して御神体の三輪山を拝するという古代の祭祀形態を残しているのです。
 大物主神は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めています。農業・工業・商業すべての産業開発、禁厭(まじない)、製薬、交通、航海、縁結び等、世の中の幸福の守護神です。
 酒屋の商標であった杉玉は大神神社で作られ、配布されたもので、今も全国の醸造業者からの崇敬を集めています。



崇峻天皇倉梯岡陵
すしゅんてんのうくらはしのおかのみささぎ
奈良県桜井市大字倉橋


 587年、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)は、敏達天皇の皇后・炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)や蘇我馬子らに擁立されて皇位につき、崇峻天皇となりました。物部守屋が穴穂部皇子(あなほべのみこ)を擁立させようとしたため炊屋姫は皇族の最年長皇子で蘇我馬子とともに物部氏を倒した泊瀬部皇子を天皇にしたのでした。
 しかし、592年に泊瀬部皇子は蘇我馬子の指示で東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されてしまいました。日本歴史史上唯一、臣下により暗殺された天皇の御陵なのです。



聖林寺
しょうりんじ
奈良県桜井市下692
Tel 0744-43-0005


 聖林寺は多武峰山麓高台にある真言宗室生寺派のお寺です。藤原鎌足の長男の定慧(じょうえ)が、藤原鎌足を祀る談山神社の別院として和銅5年(712)に創建したそうです。
 創建以来再三兵火にあって衰退しましたが、建久年間(1190-1199)に慶円が再興したということです。元禄年間(1688-1704)に文春が石仏を造り聖林寺という今の寺号に改めたそうです。この時の石仏が本尊石造子安延命地蔵です。
 寺宝の天平仏の傑作・十一面観音立像は木心乾漆造で国宝です。台座の一部を除いて、造立当時のままの姿をしています。
 十一面観音立像は大神神社の神宮寺である大御輪寺(おおみわでら)に地蔵菩薩とともに安置されていた像でした。明治の廃仏毀釈の時に十一面観音は聖林寺に移されたということです。



談山神社
たんざんじんじゃ
奈良県桜井市多武峰319
Tel 0744-49-0001


 談山神社(たんざんじんじゃ)は、桜井市の多武峰(とうのみね)にある藤原鎌足を祀る神社です。明治の初めに神仏分離令が出て談山神社となりました。それまでは妙楽寺(多武峰寺)と一体でした。
 寺伝によると、白鳳7年(678)、鎌足の長男、僧の定慧(じょうえ)が唐からの帰国後に、父、鎌足の遺骨を摂津国阿威山からこの地に改葬し、木造十三重塔を建てたことに始まります。
 白鳳9年(680)、現在の拝殿にあたる講堂が創建され、妙楽寺と号しました。大宝元年(701)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立され、聖霊院と称しました。
 平安時代には藤原高光が出家後に入山、増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げました。天台宗の増賀を迎えたことから、同じ藤原氏縁古の興福寺とは争いが絶えなくなりました。
 天正13年(1585)、豊臣秀吉により、郡山城下に移すことを厳命され破却されました。その後許され、徳川家康の時に寺は復興されたそうです。
 談山の名は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645)大化の改新の談合をこの多武峰で行ない、「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼ばれたことが基になっています。

 談山神社十三重塔は、木造十三重塔で神廟(しんびょう、神の御霊屋)と呼ばれています。白鳳7年(678)、鎌足の長男、僧の定慧が唐からの帰国後に、父、鎌足の遺骨を摂津国阿威山からこの地に改葬し、唐の清涼山宝池院の塔婆を模して建てた墓塔です。
十三重塔
 現在の塔は享禄5年(1532)に再建されたものです。各層は方3間、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、初重の屋根を特に大きくして、二重以上は軸部を非常に短く造り、頂上に青銅の相輪をのせています。木造十三重塔として現存世界唯一の貴重な建造物です。国の重要文化財に指定されています。
十三重塔

 藤原鎌足を祀る談山神社本殿は大宝元年(701)の創建で聖霊院、多武峰社ともいわれます。現在の本殿は嘉永3年(1850)の造替です。三間社隅木入春日造の絢爛豪華な様式で知られています。社殿全体は極彩色 模様や、花鳥などの彫刻によって装飾されています。
談山神社本殿
 談山神社拝殿は朱塗舞台造りです。永正17年(1520)の造営です。中央の天井は伽羅(きゃら)香木で造られています。本殿とともに国の重要文化財に指定されています。
談山神社拝殿

 檜皮葺の屋根美しい東透廊、西透廊は本殿を囲む特異な形態をしています。国の重要文化財に指定されています。
東西透廊
 神廟拝所(しんびょうはいしょ)は定慧和尚が天武天皇8年(679)、父鎌足公供養のため創建した妙楽寺の講堂です。国の重要文化財に指定されています。
神廟拝所
 塔の正面に仏堂をつくる伽藍の特色をもち、内部壁面には羅漢と天女の像が描かれています。現存のものは、寛文8年(1668)に再建されたものです。
神廟拝所
 談山神社の末社、比叡(ひえ)神社本殿は、寛永4年(1627)造営されています。小社ながら豪華な様式を備え、国の重要文化財に指定されています。一間社流造、千鳥破風及び軒唐破風付、桧皮葺きの建物です。比叡神社は飛鳥の大原にあった大原宮で、ここに移築され、明治維新までは「山王宮」と呼ばれていました。
比叡神社本殿
 談山神社の権殿は天禄元年(970)摂政右大臣藤原伊尹(これただ)の立願によって創建されました。元の常行堂で実弟の如覚が阿弥陀仏を安置しました。この権殿も国指定の重要文化財です。
権殿
 談山神社の東宝庫、西宝庫も国指定の重要文化財です。校倉造りで本殿に向かって左右に位置しています。元和5年(1619)の造営です。
東西宝庫
 後醍醐天皇寄進の石燈籠です。竿に南北朝動乱の始まった元徳3年(1331)の刻銘があります。雄大かつ装飾豊かで、国の重要文化財に指定されています。
後醍醐天皇寄進石燈籠
 談山神社の末社、総社本殿です。延長4年(926)の勧請で天神地祇・八百万神をまつり、日本最古の総社といわれています。この本殿は寛文8年(1668)造替の談山神社本殿を、寛保2年(1742)に移築したもので国の重要文化財に指定されています。
末社・総社本殿
 談山神社の末社、総社拝殿です。寛文8年(1668)の造営です。談山神社拝殿を縮小し簡略化した様式で、正面、背面ともに唐破風をもつ美麗な建物です。国の重要文化財に指定されています。
末社・総社拝殿
 国の重要文化財に指定されている閼伽井屋(あかいや)です。屋根はこけら葺きで、元和5年(1619)に造られました。この中の井戸は魔尼法井(まにほうい)と呼ばれ、定慧和尚が法華経を講じたとき、龍王が出現した場所だそうです。
閼伽井屋
 恋神社で有名な談山神社摂社の東殿(とうでん)です。鏡女王(かがみのおおきみ)、定慧和尚、藤原不比等を祀っています。元和5年(1619)造替の談山神社本殿を移築したものです。国指定の重要文化財です。
摂社東殿



室生寺
奈良県宇陀市室生区室生78
Tel 0745-93-2003


 室生寺(むろうじ)は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派の大本山です。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名があります。
 続日本紀などによると、奈良時代末期の宝亀年間(770年−781年)、皇太子山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、室生の地において延寿の法を行ないました。そして竜神の力でみごとに回復することができたので、興福寺の僧・賢環 (けんきょう)が朝廷の命でここに寺院を造ったということです。
 賢環没後は高弟の修円に引き継がれました。修円は最澄や空海と並んで当時の仏教界を指導する高名な学僧でした。
 以来、室生寺は山林修業の道場として、また法相、真言、天台などの各宗派兼学の寺院として独特の仏教文化を形成してきました。
 室生山の山麓から中腹にかけてが境内となっています。最初の急な石段(鎧坂)を上がると、正面に金堂、左に弥勒堂があります。さらに石段を上ると如意輪観音を本尊とする本堂(灌頂堂)、その上に五重塔があり、奥の院御影堂へと続いています。

 国宝の金堂は寺の創立より少し遅い平安初期に建てられたと思われます。桁行5間、梁間5間、寄棟造の柿葺きです。正面1間破風葺きになっています。天承元年(1131)頃に大修理が加えられ、多くの部材が取り替えられたようです。礼堂部分は寛文12年(1672)の建築です。
金堂
 内陣には本尊釈迦如来立像(国宝)を中心に祀り、向かって右に薬師如来立像(重文)、地蔵菩薩立像(重文)、左には文殊菩薩立像(重文)、十一面観音立像(国宝)が安置され、これらの像の手前には十二神将立像(重文)が立っています。金堂本尊背後の壁に描かれた彩色画、板絵着色伝帝釈天曼荼羅はこの時代の壁画では唯一のもので国宝です。
金堂
 弥勒堂は鎌倉時代に建てられていますが、後世に大分改造されています。国の重要文化財に指定されています。
弥勒堂
 弥勒堂の堂内中央の厨子に本尊弥勒菩薩立像(重文)を安置しています。平安時代に造られたものです。向かって右に国宝の木造釈迦如来坐像があります。伝来や造像の由緒は一切不明ですが、作風から平安時代前期の作と思われます。
弥勒堂
 室生寺の本堂は国宝で、灌頂堂(かんじょうどう)とも称されています。灌頂という密教儀式を行なう堂でもあるのです。桁行5間、梁間5間、入母屋造の檜皮葺きです。延慶元年(1308)に建てられています。
本堂(灌頂堂)
 堂内中央の厨子に国の重要文化財に指定されている木造如意輪観音坐像を安置しています。その手前左右の壁に両界曼荼羅(金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅)が向かい合わせに掛けられています。
本堂(灌頂堂)
 室生寺の五重塔は創立当時800年頃の建立で、国宝に指定されています。屋外にある木造五重塔としては、法隆寺の塔に次いで日本で2番目に古く、現存する五重塔では最も小さい朱塗りの優雅な塔です。 
五重塔
 高さは約16m、初重は一辺の長さ2.5mで、高さは興福寺五重塔の3分の1ほどです。塔の最上部の九輪の上には通常「水煙(すいえん)」という飾りが付きますが、この塔では水煙の部分が宝瓶(ほうびょう)になっています。その上に宝鐸をつるした八角形の宝蓋がついています。この室生寺独自の意匠です。寺伝では、創建にかかわった僧・修円がこの宝瓶に室生の竜神を封じ込めたと伝えられています。
五重塔
 北畠親房の墓といわれる五輪塔と小さな五輪塔が2つあります。室町時代前期のもので国の重要文化財に指定されています。
五輪塔



石舞台古墳
いしぶたいこふん
奈良県高市郡明日香村島庄


 巨石を積み上げた石舞台古墳は飛鳥のシンボルになっています。6世紀の築造で、この地が蘇我馬子の庭園があったことから、馬子の墓であるという説が有力です。
 盛土を除かれた日本最大級の横穴式石室は玄室の長さ7.5m、幅3.4m、高さ7.7mです。石舞台という名前は、昔狐が女性に化けて石の上で踊って見せた話や、この地にやって来た旅芸人が舞台がなかったので仕方なくこの大石を舞台に演じたという話で名付けられたようです。



高松塚古墳、高松塚壁画館
たかまつづかこふん、たかまつづかへきがかん
奈良県高市郡明日香村
Tel 744-54-3340


 高松塚古墳は昭和47年(1972)、極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されました。この壁画は青龍、白虎などの4神や、女子群像、星座などが描かれ、2年後に国宝に指定されました。
 高松塚壁画館は高松塚古墳の隣に造られ、精巧な壁画の模写や、石槨の発見時の姿の復元模型などを展示しています。



キトラ古墳
きとらこふん
奈良県高市郡明日香村


 キトラ古墳は高松塚古墳の近くにあります。昭和58年(1983)石室内に彩色壁画が発見され注目されました。国の特別史跡に指定されています。
 この古墳は円墳であり、四神を描いた壁画があるなどの類似点から、高松塚古墳の「兄弟」ともいわれています。



飛鳥資料館
あすかしりょうかん
奈良県高市郡明日香村奥山
Tel 0744-54-3561


 飛鳥資料館は正式には奈良国立文化財研究所飛鳥資料館といいます。古代史上重要な位置を占めるこの地域の歴史的意義の理解に役立てる目的で、昭和50年(1975)に開館しました。
 飛鳥の宮、寺、石、古墳、万葉、高松塚古墳の6つのコーナーに分かれています。復元模型や重文指定の高松塚古墳出土品、須弥山石、石人像や飛鳥寺塔心礎の埋葬物などの出土品展示で古代飛鳥の歴史や文化を紹介しています。



橘寺
たちばなでら
奈良県高市郡明日香村橘
Tel 0744-54-2026


 橘寺(たちばなでら)は、聖徳太子建立七大寺の1つで天台宗のお寺です。正式には仏頭山上宮皇院菩提寺と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音です。
 橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来しているそうです。
 皇族・貴族の庇護を受けて栄え、平安時代には5間4面重の金堂、7間4面の講堂、五重塔など四天王寺式伽藍配置の壮大なものでしたが、鎌倉期以降は徐々に衰えたそうです。
 木造聖徳太子、木造如意輪観音座像は国の重要文化財に指定され、他にも古い由緒をもつ寺だけに仏像や絵巻など文化財を所蔵しています。



岡寺
おかでら
奈良県高市郡明日香村岡806
Tel 0744-54-2007


 東光山岡寺(おかでら)は、真言宗豊山派のお寺で龍蓋寺(りゅうがいじ)とも称します。本尊は如意輪観音で西国三十三箇所第7番札所になっています。
 寺伝によると、663年、天武天皇の皇子である草壁皇子が住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したと伝えられています。
 毒龍が大雨や強風を巻き起こし村民を苦しめていました。義淵は法力をもって池に封じ込め、そこに大きな石で蓋をしたそうです。これが龍蓋寺の名前の由来となっています。
 鮮やかな朱色をした桜門様式の仁王門は慶長17年(1612)に再建された建物で、国の重要文化財に指定されています。
 本尊の如意輪観音座像は塑像(土で造られた仏様)で、弘法大師の作と伝えられています。塑像としてはわが国最大の仏像で国の重要文化財に指定されています。厄除け観音としても知られ、古来より信仰を集めています。



金峯山寺
きんぷせんじ
奈良県吉野郡吉野町吉野山2498
Tel 0746-32-8371


 金峯山寺(きんぷせんじ)は金峯山修験道の総本山です。白鳳年間(7世紀末)、役行者(えんのぎょうじゃ)が金峯山を道場として修行し、蔵王権現を感得し、それを桜の木で刻んで、お堂を建てたのが始まりです。
 金峯山寺は吉野山の中心となるお寺で「吉野大衆」と呼ばれる僧兵を抱え、平安から鎌倉時代にかけて隆盛を極めました。
 金峯山とは、単独の峰の呼称ではなく、吉野山と、その南方の大峯山系に位置する山上ヶ岳を含む山岳霊場を含んだ名前です。古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきたところです。
 山上ヶ岳(山上)の蔵王堂は一般の人には参拝することが難しいので、天平年間(729-749)に行基が吉野山の山下に蔵王権現を祀りました。これが現在の蔵王堂で金峯山寺の本堂になりました。現在、山上の蔵王堂は「大峯山寺」として、吉野の金峯山寺と区別されています。
 国宝の仁王門は銅鳥居(重文)の南200mの正面石段の上に建っています。三間一戸の楼門で、桁行12.3m、梁間6.9m、棟の高さ20.3mと大きな門です。創立年代ははっきりとしませんが、康正2年(1456)再建されたようです。室町時代の二重門の代表的な遺構です。
仁王門
 仁王門は、北面の玄関口の役割を果たしています。村上義光が最後を遂げた二天門は南門でしたが、焼失し今はありません。仁王門には高さ5.28mの仁王像2対が安置されています。
仁王門
 本堂で国宝の蔵王堂です。山上ヶ岳の大峯山寺本堂の「山上の蔵王堂」に対し、山下(さんげ)の蔵王堂と呼ばれています。役行者が感得した蔵王権現を本尊としているので蔵王堂といわれます。
蔵王堂
 桁行25.5m、梁間27.3mの重層入母屋造の檜皮葺きです。木造の古建築としては東大寺大仏殿に次ぐ規模をもつといわれる豪壮な建築です。2階建てのように見えますが一重裳階(もこし)付きの建物です。
蔵王堂
 扉金具の銘から天正19年(1592)豊臣家の寄進で再建されました。内部の柱には、自然木を素材のまま使った長大な柱8本が林立しています。内陣にはわが国最大という巨大な厨子があります。本尊として3体の巨大な蔵王権現像を安置しています。
蔵王堂
 蔵王堂に向かって左側に威徳(いとく)天満宮があります。天満神社ともいい、菅原道真を祭神としています。如意輪寺の開基・日蔵道賢が死にかけた時、菅原道真の霊を感じ取ってここに祀ったそうです。
威徳天満宮
 蔵王堂前の広場に石柵で囲まれた一廓があり、4本の桜があります。元弘3年(1333)、足利軍に攻められた大塔宮護良親王が落城前に最後の酒宴をしたところです。石柵内に立つ銅燈籠は文明3年(1471)の作で、重要文化財に指定されています。
四本桜
 愛染堂金峰山寺の愛染堂です。内陣には本尊の愛染明王坐像を安置しています。鎌倉時代のもので、もとは吉野山奥ノ院の安禅寺にあったそうです。
愛染堂
 金峰山寺の観音堂です。内陣に室町期の十一面観音立像や阿難立像、および鎌倉期の迦葉立像を安置しています。
観音堂



如意輪寺
にょいりんじ
奈良県吉野郡吉野町吉野山1024
Tel 0746-32-3008


 如意輪寺は竹林院にいた日蔵道賢上人によって延喜年間(910-922)に創建されたそうです。元は金峯山寺の塔頭寺院の1つで、古くから吉野山の修行道場だったようです。
 如意輪寺は塔尾山椿花院ともい、南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に行宮を置いた時、勅願寺となりました。如意輪観音を本尊として、密教の名残りをとどめています。
 山門を入ると正面に寄棟造、檜皮葺きの如意輪堂(本堂)があり、左方に庫裏、宝物殿、一段高いところに多宝塔があります。本堂の背後には後醍醐天皇の陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)、世泰親王墓があります。
 慶安3年(1650)、鉄牛上人という僧によって再興され、浄土宗に改宗しました。寺宝には建武3年(1336)に造られた厨子入木造蔵王権現立像(重文)や楠木正行辞世の扉などがあります。
 正平2年(1346)楠木正成の長男・楠木正行が四条畷の戦いに出陣する際、一族郎党とともに後醍醐天皇陵に詣で、辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」と詠んだそうです。正行はそれを本堂の扉に鏃(矢じり)で刻んでいったそうです。
 境内にある難切不動尊の不動明王石像は日本最大の石の不動尊です。如意輪寺本堂の右手にあり、もとは峰の薬師堂に祀られていたものです。
石の難切不動尊
 楠木正行の妻になるはずであった弁内侍が正行が討ち死にを遂げた後、髪を切り尼となりました。その黒髪の一部を埋めたのが、弁内侍至情塚です。
弁内侍至情塚



吉野神宮
よしのじんぐう
奈良県吉野郡吉野町吉野山3226
Tel 07463-2-3088


 吉野神宮は明治22年(1889)、明治天皇が後醍醐天皇をしのんで創建された神社です。祭神は後醍醐天皇です。摂社御影社、船岡社、滝桜社には日野資朝、児島高徳ら7人の功臣を祀っています。
 後醍醐天皇は建武の中興半ばにして敗れ、延元4年(1339)吉野の行宮で亡くなりました。明治維新により、その理想が実現できたとして創建されたものです。
 神体は後醍醐天皇の皇子である後村上天皇が自ら刻んだといわれる後醍醐天皇像で吉水神社(明治7年までは吉水院・南朝の行宮)から移したものです。
 この地は護良親王が元弘2年(1332)に挙兵した際、北条勢によって占拠され、本陣となったところといわれています。
 現在の社殿は、大正11年(1922)から境内の拡張とともに造営され、昭和3年(1928)に完成した総檜造りの荘厳な建物です。入母屋造りの拝殿の奥には流造りの本殿があります。



村上義光の墓
むらかみよしてるのはか
奈良県吉野郡吉野町吉野山


 村上義光の墓は吉野神宮の南約1km、道の西側に立つ宝篋印塔です。村上彦四郎義光は金倉末期の信濃国埴科(さらしな)の武将で、元弘の乱の時、後醍醐天皇の第一皇子、大塔宮護良(おおとうのみやもりよし)親王に従って北条幕府と戦いました。
 元弘3年(1333)足利軍に攻められて吉野が陥落した時、蔵王堂前の二天門の高櫓で、大塔宮護良親王の鎧兜を借りて宮の身代わりとなって自刃したそうです。首は里人が拾って、この地に葬ったといわれています。



後醍醐天皇塔尾陵
ごだいごてんのうとうのおりょう
奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾 如意輪寺内


 第96代後醍醐天皇塔尾陵は奈良吉野山の如意輪寺本堂裏の塔尾山のふもとにあります。玉垣に囲まれた円墳です。後醍醐天皇は足利尊氏に都を追われ、4年間吉野山で過ごされたのち崩御されました。
 延元4年(1339)天皇は病床につかれ「玉骨はたとえ南山(吉野)の苔に埋るも、魂魄は常に北闕(ほっけつ=京都)の天を望まんと思ふ」という悲痛な遺言を残して崩御されました。天皇の御遺骸はそのまま当時の裏山に葬られれ塔尾陵となりました。
 「身はたとへ南山の苔に埋むるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん」とも読まれ、都への望郷が強かった心情を表しています。陵は京都と同じ方角の北に向かって築かれています。
 すぐ近くに孫の長慶天皇の皇子である世泰親王の墓があります。


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