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桑名郡長島町
くわなぐんながしまちょう
 長島の一向一揆で有名な長島町です。元亀元年(1570)石山寺の本願寺教団が織田信長に反抗ののろしを上げると長島一帯の願証寺を中心とした本願寺教団も呼応して蜂起しました。
 尾張小木江城にいた信長の弟、織田信興を攻めて敗死させました。信長は元亀2年、天正元年(1573)、天正3年と大軍を繰り出して攻めましたが土地の感があり大勢の一揆軍に再三敗れました。
 その後2ヶ月長島を包囲した信長は落城させ、中江、大鳥居に立て籠もった2万人の信徒を一人残らず焼き殺したということです。



ナガシマスパーランド
ながしますぱーらんど
三重県桑名市長島町浦安333
Tel 0594-45-1111


 長島町は水害を防ぐため輪中と呼ばれる堤防を巡らしています。木曽川、長良川、揖斐川の運んだ土が堆積してできた町なのです。昭和34年(1959)の伊勢湾台風の時は全町が水没したそうです。
 復興最中の昭和39年(1964)町内に温泉が湧出したのです。大規模な総合開発計画を立てて、わが国唯一の総合文化観光地域の建設をすすめたのです。
 それが「東の富士急、西の長島」と呼ばれるようになったナガシマスパーランドなのです。東海エリアでは最大級の遊園地で、海水を利用したジャンボ海水プールには多数のウォータースライダーが完備され、西日本では有数の規模を誇っています。
 話題のアトラクションが続々登場する遊びの宝庫で、木製コースターならではの木の軋み、横揺れが大迫力の「ホワイトサイクロン」や新登場の「ジャイアントフリスビー」「ボブカート」が人気です。
 日帰り温泉施設「湯あみの島」もある他、隣接して「ホテル花水木」「ガーデンホテルオリーブ」のホテル群と東海地方最大規模のアウトレットモール「ジャズドリーム長島」などもあります。



六華苑
ろっかえん
三重県桑名市大字桑名字鷹場663ー5
Tel 0594-24-4466


 六華苑は山林王と呼ばれた桑名の実業家二代目諸戸清六の邸宅として明治44年(1911)に着工、大正2年(1913)に竣工されました。
 揖斐・長良川を望む約18000u余の広大な敷地に、4層の塔屋をもつ木造2階建ての洋館と和館とが連続して併設する珍しい造りになっています。
 庭園は「池泉回遊式」の日本庭園で平成13年、国の名勝に指定されています。六華苑は若干の改築と戦災を受けたものの創建時の姿をほぼそのままにとどめている貴重な遺構なのです。
 設計はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルです。鹿鳴館の設計で有名ですが旧古河邸、ニコライ堂、岩崎家玉川廟、旧岩崎家庭園洋館なども手がけています。
  「日本近代建築の父」と呼ばれ25歳で来日して以来、67歳で没するまで70余りの建物を造ったそうです。主に東京と神奈川県内に住宅建築をしていますが、関東大震災や戦災により現存する建物は数えるほどしか残っていません。
 全体的には、シンプルなデザインとなっていますが、4階の塔屋が印象的です。貴婦人を思わせる気品があります。
 洋館および和館は平成9年に国の重要文化財に指定され、他に6棟が三重県有形文化財、離れ屋は桑名市の有形文化財に指定されています。
 桑名市は平成3年に土地を取得し、建物は諸戸家からの寄贈を受けたということです。整備工事の後、平成5年(1993)に六華苑という名称で一般公開したそうです。
 洋館を眺めながら食事できるレストランが平成14年(2002)4月にオープンしています。洋館は夜11時までライトアップしています。当時は珍しかった塔屋の曲面ガラスが情緒を誘います。



春日神社
かすがじんじゃ
三重県桑名市上本町46
Tel 0594-22-1913


 通称「春日さん」の名で親しまれているこの社は桑名神社と中臣神社の二社を合わせて桑名宗社ともいわれています。
 春日神社の名は鎌倉時代に奈良から春日大明神を勧請して中臣神社に合祀したためにこの名で呼ばれるようになったそうです。
 桑名神社は三崎大明神とも呼び、祭神は天照大神の第三子である天津彦根命(あまつひこねのみこと、)とその御子である天久々斯比乃命(あめのくぐしびのみこと)です。天久々斯比乃命は桑名開発の豪族である「桑名首(くわなおびと)」の祖神とされています。
 中臣神社の祭神は天日別命(あめのひわけのみこと)、伊勢国造(いせのくにのみやつこ)の遠祖)ほか春日四柱神です。永仁4年(1295)奈良の春日大社から春日四柱神を勧請しています。
 楼門は天保4年(1833)に15代藩主松平定永(松平定信の嫡子)によって寄進されましたが、昭和20年(1945)の空襲で消失し、平成7年(1995)の春日神勧請700年記念事業で再建されました。
 青銅の鳥居は寛文7年(1667)、7代藩主松平定重が桑名鋳物師に命じて建立させたものです。桑名は川口市と並ぶ鋳物の産地なのです。天下の奇祭「石取祭」は毎年8月に行なわれ「日本一やかましい祭り」として有名です。



九華公園
きゅうかこうえん
三重県桑名市吉之丸


 桑名城の本丸一帯は九華公園となっています。昭和13年に整備されました。桑名城は本多忠勝、松平家によって増、修築され豪華壮麗なさまから「海道の名城」とたたえられたそうです。元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったそうです。
蟠龍櫓
 七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルだったようです。今は蟠龍櫓を模した水門統合管理所になっていて、1階は資料館も兼ねています。



多度大社
たどたいしゃ
三重県桑名市多度町多度1681
Tel 0594-48-2037


 多度大社の歴史は古く、太古には多度山(標高403m)全体を御神体としていたようです。5世紀後半、雄略天皇の御代になってはじめて現在地に社殿が造営されたといわれています。
 後一条天皇の御代(1016〜1036)には、東海道六社のうちの1つに数えられるようになったということです。

 祭神は天照大神の皇子とされる天津彦根命(あまつひこねのみこと)です。天津彦根命は当地の豪族・桑名首(くわなのおびと)の祖神でもあります。
 天津彦根命が天照大神の御子神であることや、参詣のための街道沿いにあることから伊勢神宮との関係が深く、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」とも詠われました。
 北伊勢大神宮とも称され、歴代天皇家の尊崇も厚く、産業開発、商工業繁栄の神として人々の崇敬を集めて繁栄してきました。
 中世には国司北畠氏が保護していましたが、元亀2年(1571)、織田信長の長島一向一揆平定の際に兵火により焼失してしまいました。一時荒廃しましたが、慶長10年(1605)、桑名藩主本多忠勝により再建されました。

社域は約9万7千平方mと広大で、社殿は神明造りの本殿、拝殿、別宮の一目連神社、摂社美御前社(うつくしごぜん)などたくさんの摂社・末社があります。
 一目連神社の御祭神である天目一箇命(あめのまひとつのみこと)は、伊勢忌部氏の祖神で、天照大神が天の岩戸に隠れた際に刀や斧を作って活躍された神様です。 
 美御前社は天津彦根命の妹の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀っています。穴のあいた小石を社前に捧げると耳や下の病気に効果があるといわれています。
 昔から多度山には神がいると信じられてきました。人々の願いを神に届ける使者は多度大社に棲む「白馬」だといわれています。於葺門に向かう途中に「白馬舎」があります。 
 多度大社といえば、5月5日の本祭の際に行われる上げ馬神事、11月23日に行なわれる流鏑馬祭りが有名です。上げ馬神事は、古くは農作の時期や豊作/凶作が占われてきましたが、近年では好景気/不景気が占われるようになりました。



四日市市
よっかいちし
三重県四日市
 文明2年(1470)田原忠秀が浜田城(現在の鵜の森神社)を築き、これを中心にできた市場町が都市的起源とされているそうです。毎月四の日に市場が開かれたため四日市という名になったそうです。
 明治の初め稲葉三右衛門が私財を投じて築港工事を完成させてから近代港湾として発展してきたそうです。石油コンビナートも形成され中京工業地帯の一角を担っています。



ばんこの里会館
ばんこのさとかいかん
三重県四日市市陶栄町4−8
Tel 0593-30-2020


 ばんこの里会館は四日市に伝わる萬古焼の歴史や技法を紹介したり展示販売する施設です。萬古焼のすべてを体系的に紹介する展示室やギャラリーがあります。
 江戸時代中期の大商人、沼波弄山(ぬなみろうざん)は茶の湯に詳しく陶芸を趣味にしていました。自分が焼いた作品が永遠に伝わるように願いを込め「萬古不易(ばんこふえき)」の印を押したのが、萬古焼の始まりだそうです。
 萬古焼は、弄山の死とともに一時中断してしまいましたが、江戸時代後期の天保年間に森有節(本名与五左衛門)らによって、再び焼かれるようになったそうです。
 現代の四日市萬古焼は、そのときの技法を研究して明治時代の初めに焼かれたものがもとになっているそうです。1979年に伝統工芸品に指定されています。紫泥の急須や土鍋が有名です。特に土鍋の国内シェアは、7、8割を占めるそうです。
 2階にある「ふるさと工房うつわ亭」では、産地ならではの手頃な値段で萬古焼を販売しており、1階の「陶芸工房」では作陶や絵付けの陶芸体験できるそうです。



萬古神社
ばんこじんじゃ
三重県四日市市陶栄町3−21


 昭和10年に創設された萬古神社です。毎年5月中旬の土・日に「萬古まつり」が神社の周りで開かれ2日間で10万人以上の人がくるそうです。また「土鍋供養祭」などもここで行なわれるそうです。
 境内には明治時代には四日市萬古の礎となった山中忠左衛門の碑もあります。山中氏は洋皿やコーヒーカップ等の洋食器の研究をしました。地域住民への製作指導をして海外へも輸出させたのです。



鈴鹿市考古博物館
すずかしこうこはくぶつかん
三重県鈴鹿市国分町224



 鈴鹿市のあちこちには古墳や遺跡が散在し、貴重な出土品も数多くあります。考古博物館は、これらの出土品や奈良時代の寺院・役所に関する特色ある資料を収蔵、展示しています。
 建物は大きくて立派で洒落た体育館のようでした。考古博物館という石碑がなければ誰も何の建物かわからないでしょう。しかも何もない国道からも離れた田舎にでんとして建っているのです。
 発掘現場を再現したような展示室や実際に土器や石器に触れることができる学習室もあります。展望台では伊勢国府跡を見ることができます。



伊勢国分寺跡
いせこくぶんじあと
三重県鈴鹿市国分町


 「国泰らかに人楽しみ、災いを除き福至る」を祈願された、天平13年(741)の聖武天皇の詔は、国々に国分寺(僧寺と尼寺があった)という寺を建てさせ、国家の平和を祈らせるものでした。
 全国六十六ヶ国と壱岐・対馬の二島に国分寺を建立し、仏教の弘通により国土安穏・万民豊楽を祈願するとともに文化の興隆をはかったのです。奈良の東大寺が総国分寺として位置づけられました。
 伊勢国の国分寺のあったこの場所は、鈴鹿川流域は畿内と東国を結ぶ交通の要衝の地にあって古くから開けていたようです。伊勢国内における先進地でもあったようです。
 大正11年(1922)国分町字堂跡を中心とした約200m四方にわたり国史跡に指定されましたがまだ発掘調査が行なわれています。隣接する考古博物館でもその様子が説明されています。



亀山城
かめやまじょう
三重県亀山市本丸町


 亀山は東海道鈴鹿峠を押さえる交通の要でした。文永元年()関実忠が亀山城を築城しました。天正18年(1590)蒲生氏郷が会津転封になり、関一政は蒲生氏が治めていた白河へ5万石の大名として移封しました。亀山城には岡本宗憲が2万2千石で入り東南の丘陵に新しい亀山城を築いたのでした。
亀山城多門櫓
 三宅康盛の代のとき、幕府は堀尾忠晴に亀山城修築を命じました。寛永9年(1633)、忠晴が天守を解体後、修築するのは明智光秀の居城だった丹波の亀山城だったと判明しました。
 それ以後、天守閣の再建は許されず、天守台には多門櫓が建ったということです。この櫓が三重県唯一の城郭建築となっています。延享元年(1744)に石川総慶が備中松山より6万石で入封して以後、石川氏が11代続いて城主となり明治を迎えたそうです。
亀山公園



結城神社
ゆうきじんじゃ
三重県津市藤方2341
Tel 059-228-4806


 南朝の忠臣「結城宗広(ゆうきむねひろ)」を祀る神社です。後醍醐天皇を奉じて新政権樹立に貢献した武将です。ここの狛犬は青銅製では日本一大きいものだそうです。
 宗広は義良(のりよし)親王(のちの後村上天皇)を奉じて、海路東国へ向かう途中、台風のため安濃津(津市)に漂着しここで病死したそうです。境内には墓もあり毎年5月始めに例大祭が行なわれるそうです。
 この地は古くから結城の森と伝えられ、350本の枝垂れ梅が2月中旬から3月上旬にかけて華麗に咲き誇るそうです。



津城跡
つじょうし
三重県津市丸之内


 津市は、昔には安濃津と呼ばれ、港町として大いに繁栄したそうです。鹿児島県の坊津、福岡県の花旭屠港(はかたつ)と並んで「日本三津」として中国明代の歴史書に登場しているそうです。
 安濃津城は永禄初期(1558-1568)に長野工藤一族の細野藤敦が築いたとされています。永禄11年(1568)に織田信長に攻略され翌年、信長の弟信包(のぶかね)が入城したそうです。
 元亀2年(1571)信包によって修築され本格的な城郭になったようです。天正8年(1580)には5層の天守閣や小天守も完成させたそうです。その後、文禄4年(1590)には、富田一白が城主になっています。
藤堂高虎像
 富田氏は関ケ原の戦では、東軍の徳川方に属していたので、西軍の大坂方の毛利秀元(ひでもと)の3万の大軍に包囲され開城させられ、城下も灰燼に帰したそうです。
 慶長13年(1608)伊予の今治から藤堂高虎が22万の大封を受けて入城しました。城の改築に手がけ、荒廃した町を再興させ、城を中心に武家屋敷、町屋などの城下町を整備しました。伊予から来た者に移住奨励金を与えるなど城下は急速に発展したそうです。
 高虎は大阪の陣の軍功などで増封され、元和3年(1618)には32万石の大大名になりました。以後、津城は藤堂氏が代々相続し、明治維新まで12代260年治めました。



高山神社
こうざんじんじゃ
三重県津市丸之内


 藩祖「藤堂高虎」を祀っています。明治36年(1903)に建てられた神社です。高虎は、法号が寒松院殿道賢高山権大僧都で「高山公」と通称されていたので、神社名もそれに由来しているということです。
 明治9年(1876)創始で、当初は安濃郡下部田村広明(現津市)八幡神社境内に神詞があったそうですが、明治36年(1903)に津城址の本丸跡に遷宮し、鎮座式大祝祭典も執行されたそうです。昭和20年(1945)の空襲で本社殿が全焼、現在は城の南に移築されているということです。



観音寺(津観音)
かんのんじ(つかんのん)
三重県津市大門31−11
Tel 059-225-4013


 「津の観音さん」と呼ばれ親しまれている観音寺は正式には「恵日山観音寺」といい、奈良時代の和銅2年(709年)に開山されたという真言宗の古刹です。
観音寺山門
 室町時代には将軍足利義教が勅命を奉じて三重塔を建立しました。豊臣秀吉は出陣の時ここで祈願したといわれています。津城主藤堂家の祈願所として特別の加護を与えられていたそうです。
観音寺山門
 江戸時代にはお伊勢詣りのルートに入っており、お伊勢詣りだけは片詣りで縁起が悪いとされ、この観音寺にも寄っていったそうです。
観音寺観音堂
 本尊は阿漕浦の漁夫の網により出現されたといわれている秘仏の聖観世音菩薩です。江戸時代の後期、おかげ参りが大流行した時には、諸国から訪れた庶民で連日賑わったそうです。
観音寺鐘楼堂
 昭和20年(1945)7月の太平洋戦争の津大空襲により、41棟あった堂宇はほとんどが焼失したそうです。現在は見事に復興され、幸いにも難を逃れた数多くの文化財を有しています。
観音寺護摩堂
 五重の塔は平成13年(2001)に500年ぶりに再建されたそうです。仏法興隆と世界平和を祈願して、三重県下初の純木造五重塔です。高さ21mの総檜づくりの五重の塔は国宝寺院の修復を手がけた職人達の手により完成されたもので4億円以上かかっているそうです。
観音寺五重塔
 この観音寺は東京の浅草観音、名古屋の大須観音と並ぶ、日本三観音の一つに数えられています。全国から海上安全、五穀豊穣などの観音様として深い信仰を集めています。



三重県立博物館
みえけんりつはくぶつかん
三重県津市広明町147−2



 三重県立博物館は三重県初の総合博物館として、昭和28年(1953)6月、津市偕楽公園内に開館しています。この場所は江戸時代の津藩主藤堂家の山荘があったところだそうです。明治10年(1877)三重県公園として整備されました。
 この博物館では三重の自然・歴史・文化について紹介しています。第1展示室は、恐竜に関する化石や標本などと展示。第2展示室は、三重県の文化・歴史の紹介や化石の展示。第3展示室は三重県の生物に関する展示などがあります。
 鳥羽恐竜の発掘の様子や恐竜の骨や巨大アンモナイトの実物にさわれる展示をしています。屋外では特別天然記念物の「オオサンショウウオ」を飼育展示をしています。



高田本山専修寺
たかだほんざんせんじゅじ
三重県津市一身田(いしんでん)町2819
Tel 059-232-4171


 浄土真宗高田派の本山で専修阿弥陀寺とも無量寿寺(むりょうじゅじ)とも呼ばれています。俗に一身田御殿といわれ伊勢第一の名刹です。天保15年(1844)上棟された唐門は軒に大きな唐破風(からはふ)があり、扉や柱間に見事な彫刻が施されています。
唐門
 親鸞は明星天子の夢のお告げを得て、嘉禄2年(1226)下野国高田(栃木県芳賀郡二宮町)に民衆教化の根本道場として専修寺を建立したのが高田本山専修寺の開基となっています。
唐門
 
 今は本寺と呼ばれている高田では、親鸞が京都に帰った後は真仏、顕智が真宗高田教団を確立させました。親鸞門弟のうち、ここ高田を中心とする教団は高田門徒と呼ばれ勢力が強かったそうです。京都へ帰った親鸞も著書や手紙を送って力を入れて指導したようです。
唐門
 第10世真慧は東海、北陸方面に教化を拡げると共に、朝廷の尊崇を得て、専修寺は皇室の御祈願所ともなりました。一身田の専修寺はその真慧が伊勢国内の中心寺院として建てたのですが関東の本寺が兵火によって炎上したため、歴代上人が一身田に移るようになり、ここが本山として定着したのです。
唐門
 山門は御影堂の正面にあります。宝永元年(1704)に建てられた二階建ての堂々たる建築です。唐門は同様に如来堂の正面に建てられています。
山門
 広い寺域には重要文化財の御影堂や如来堂をはじめ、史跡名称の専修時庭園には茶席安楽庵があります。伏見城から移築した太閤ゆかりの茶室だそうです。また、宝物館には親鸞上人の直筆など、多くの国宝、重要文化財を保有しています。
山門
 如来堂は教義上の専修寺の本堂です。「証拠の如来」と呼ばれる阿弥陀如来立像を本尊としています。桁行5間、梁間4間で入母屋造本瓦葺に裳階をつけ、正面に唐破風を施した唐様建築です。
如来堂
 上棟は延享元年(1744)、寛延元年(1748)に落成遷仏されています。外観は二階建てのようですが下層の屋根は裳階と呼ばれる三種の庇で1階建てです。
如来堂
 如来堂は国の重要文化財に指定されています。昭和58年(1983)から大修理工事が実施され平成2年(1990)3月に完成しています。7年半の歳月と総工費74億8千万円かかったそうです。
如来堂
 御影堂(みえいどう)も如来堂と同じく国の重要文化財に指定されています。桁行9間、梁間9間で入母屋造本瓦葺で正面に3間の向拝(ごはい)を設けています。寛文6年(1666)上棟され、延宝7年(1679)に落慶供養されています。
御影堂
 堂内は725畳敷きの内陣と外陣からなり、親鸞上人以下、歴代の祖師像が安置されています。現在御影堂は、平成の大修理が行なわれており、平成20年(2008)の完成まで中を見ることはできません。
御影堂
 1000点を超える寺宝の中では、親鸞上人筆の西方指南書と同じく三帖和讃は国宝に指定されていて有名なものです。
 境内の堂塔や塔頭などの建造物はほとんど江戸時代の建立です。亡くなった作家の丹羽文雄さんもここの塔頭の出身だったそうです。



三重海軍航空隊跡
みえかいぐんこうくうたいあと
三重県津市香良洲町浜浦


 三重海軍航空隊の正門があります。土浦海軍航空隊と並んで予科練で有名な三重海軍航空隊は昭和17年(1942)8月に設置されたそうです。
 海軍飛行予科練習生は太平洋戦争時の海軍飛行兵養成制度の一つで志願制だったそうです。通常「予科練」と略称で呼ばれていました。
 飛行場で身体訓練やモールス信号、手旗信号演習などを習得しました。当初は約2年程であった履修期間は戦争が激しくなると短くなっていったそうです。
 若桜会館の「予科練」の碑があります。若桜会館は海軍三重海軍航空隊関係者が募金で作ったものでしたが関係者の高齢化にともない香良洲町に移管され香良洲町歴史資料館に生まれ変わっています。
 予科練生の制服には前に7個のボタンが付いており、「7つボタン」といえば予科練を表す畏敬の言葉でした。多くの優秀な若い命が、祖国のために犧牲になりました。



香良洲町歴史資料館
からすちょうれきししりょうかん
三重県津市香良洲町浜浦6317


 若桜会館は香良洲町に移管されコンクリート3階建てに新築されました。平成10年4月より香良洲町歴史資料館となりました。平成18年1月1日一志郡香良洲町は10市町村で津市に合併したため資料館の名称も変更されそうです。
 1、2階は郷土資料展示室です。3階が平和記念展示室で三重海軍航空隊の遺品や資料が展示されています。当時、香良洲町面積の3分の2が航空隊だったそうです。



香良洲神社
からすじんじゃ
三重県津市香良洲町高砂3675−1
Tel 059-292-4306


 延喜式内社で大同2年(807)の創建といわれる古社です。天照大神(あまてらすおおかみ)の御妹神にあたる「稚日女尊(わかひるめのみこと)」を祀っています。
 伊勢湾に面した松林の中に拝殿や神明造の本殿がひっそりと建っています。古くから「お伊勢参りをして香良洲に参らぬは片参宮」とまでいわれ、参拝者が絶えなかったそうです。
 参拝の道は伊勢参宮街道から分かれ「からす道」と呼ばれていたそうです。伊勢神宮と同様に20年に1度、神宮より1年遅れで式年遷座が行なわれているそうです。
 毎年8月15日に行われる宮踊りは香良洲神社での奉納一番くじで踊る順番を決めています。字(集落)によって定めるためケンカが始まるそうです。
 そのため「香良洲のケンカ踊り」として有名です。三重県の無形文化財に指定されています。
 踊り子は、頭から鳥毛のカブトという「かんむり」をつけて、頭からたれた鳥毛で顔を隠します。浴衣染めのジュバンを着て浴衣のモモヒキをはき、ワラジを履いて、肩からカンコを吊るして踊るのです。
 祭り当日、各区の踊り子は、まず香良洲神社の神前で踊り、その後各区へ戻ってから翌日の午前中まで、不眠不休で踊り続けるそうです。



松阪城跡
まつさかじょうせき
三重県松阪市殿町


 戦国の武将蒲生氏郷は、近江の国日野の城主でした。数々の武功により、天正12年(1584)に、秀吉から伊勢松ケ島城の城主として12万石を与えられました。
 松ヶ島城は天正8年(1580)北畠具教の養子に入った信長の次男北畠信雄が築城しました。天正12年(1584)に蒲生氏郷が入城し南伊勢支配の拠点となっていましたが氏郷は不便なこの場所を捨て、四五百森(よいほの森)に新しい城を築いたのでした。
 天正16年(1588)に城は完成し松阪城と名付けたそうです。吉祥の木とされる「松」と秀吉がいる中心地大坂の「阪」から「松坂」としたといわれています。そして地名も松阪になったそうです。
 築城とともに城下町を整え、近江日野などから連れてきた職人や商人を住まわせたそうです。「座」を廃止して楽制にして商売がしやすいようにしたため商業都市松阪の基礎が築かれたのです。
 氏郷はわずか2年で会津若松移封になり、服部一忠に引き継がれました。次に古田重勝・重治が領し、元和5年(1619)から明治維新までは紀州徳川家の管轄となり城代がおかれたそうです。
 天守閣は一国一城令で壊される予定でしたが費用の関係からそのままの姿でいられましたが修復などできなかったため、江戸時代に崩壊したそうです。城址の一角に松阪が生んだ「本居宣長」の旧邸(鈴屋)が保存公開されています。
 本居宣長は古事記伝の執筆に半生を捧げた江戸中期の国学者です。松阪の出身で12才のころから亡くなるまで暮らした魚町の旧宅が明治42年に松阪城址の中に移築されています。宣長が鈴の愛好家であったので、「鈴屋」と呼ばれています。36個の小鈴を飾った柱掛鈴を壁に掛け、音色を楽しんでいたそうです。
 宣長は享保15年(1730)松阪市本町の豪商小津家の長男として生まれました。宣長が11歳の時、父が亡くなって家業が傾いたため、隠居所であったこの「鈴屋」に住むようになったそうです。
 宣長は木綿商の家に生まれましたが商才がなかったため23才の時、母の配慮で医学の修業に京都へ旅立ったのでした。松坂に帰り医者になった宣長「源氏物語」の講義をしたり「日本書紀」の研究や儒学・古典・歌文等を修めていきました。
 賀茂真淵の書に出会って国学の研究に入りました。宝暦13年(1763)「松阪の一夜」として名高い真淵の訪問で万葉仮名に慣れるため万葉集の注釈を薦められました。その後35年間かけて「古事記伝」44巻を執筆したのでした。



本居宣長記念館
もとおりのりながきねんかん
三重県松阪市殿町1536−7



 松阪が生んだ偉大な国学者、本居宣長の記念館です。2階の展示室には「古事記伝」の自筆稿本や日記、遺品、自画像、宣長遺愛の鈴、日常使用していた机や書物などを公開しています。
 収蔵品総数はなんと約16000点もあるそうです。しかも467種1949点が国重要文化財に、また20種31点が県の有形文化財に指定されているという驚くべき博物館なのです。
 宣長が活躍した頃の松阪は自由な気風で開放された場所であったようです。宣長が着ている鈴屋衣(すずのやごろも)という独自の服や、茶筅風(ちゃせんふう)にした風変わりな髪型もそれを表わしています。新しい商法で財をなした越後屋(三越)もここ出身です。蛇足ですが宣長の小津家は、映画監督小津安二郎の祖先になるそうです。



丹生大師(神宮寺)
にうだいし(じんぐうじ)
三重県多気郡多気町丹生3997
Tel 0598-49-3001


 丹生大師は宝亀5年(774)弘法大師(空海)の師である勤操大徳が開山したそうです。女人禁制の高野山に対しこちらは女性に開放されていたことから女人高野(にょにんこうや)と呼ばれたそうです。
 丹生大師は正式には丹生山神宮寺成就院といい、「お大師さん」の愛称で親しまれています。真言宗山階派の1等格寺院です。丹生山「近長谷寺」とは姉妹寺院になるそうです。
 高い構造の仁王門は左右に金剛力士、持国天、多聞天を祀った雄大な山門です。享保元年(1716)に建てられたそうです。
 この堂々とした山門をくぐり抜けると、自然の地形を生かした広大な境内と老樹、大樹、池の美しい風景が広がります。
 光仁年中(810〜824)、唐から帰国した空海は諸国を巡拝し、ここにも立ち寄ったそうです。その時本堂の梁に勤操大徳創立とあるのを見て不思議な縁と感激したのでした。
 「すでに高野山に伽藍建立を考えているが、まずこの地に仏閣を建立し衆生をすくわん」と発願し弘仁6年(815)七堂伽藍を完成させたということです。
 一の鳥居を入って左手神宮寺側奥に丹生神社・拝殿が建っています。この拝殿は昭和5年(1930)の伊勢神宮の式年遷宮の時、外宮の御正殿の傍らにたつ東宝殿の建物を移築したものだということです。
 丹生神社には水銀の採堀用具が、神宮寺には水銀蒸留のためのかまが残されているそうです。ここ丹生は、奈良時代の和銅年間(708〜714)に、水銀が発見されてから次第に繁栄し賑やかになったところだそうです。
 「丹生」という地名も、丹砂を生む所という意味で朱砂・辰砂ともいわれる硫化水銀の原鉱石からきているそうです。
 神宮寺本堂は丹生神社の神宮寺として建立されました。境内は神社と寺院が混然一体となっています。現在でも丹生大師さんとして寺院の方が参拝者も多いそうです。
 文殊堂は元禄14年(1701)に建立され昭和61年(1986)に再建されています。本尊は文殊菩薩、脇仏に普賢菩薩が祀られています。学問の仏として厚く信仰されています。
 
 大師堂の本尊である弘法大師像は、大師42歳の自画像で、衆生の厄除と未来結縁のために、自ら刻んで安置したといわれています。
 古代日本で使われていた水銀のほとんどが、ここ「丹生」で採掘されたものと考えられています。有名な奈良東大寺の大仏にも、丹生水銀が使われたそうです。
 中世には全国唯一の同業者の組合のような「水銀座」ができ、全国から商人や鉱夫が集まり、「丹生千軒」と呼ばれるほどの繁栄をみせたそうです。
 水銀は、仏像や調度品の金具などのメッキ、白粉に代表される顔料の材料としてたいへん重宝されたそうです。しかし中世以降は次第に産出量も減ってゆき、衰退していったそうです。
 護摩堂は煩悩を表示する薪を焚いて修業するお堂です。東海36不動尊霊場の第24番札所になっています。
 七堂伽藍は度々兵火にかかり、天正12年(1584)三瀬左京の乱で殆んど焼失してしまいました。現在の20あまりの諸堂は観音堂の貞享元年(1684)を皮切りに、それ以降の江戸時代に再建されたそうです。



近長谷寺
きんちょうこくじ
三重県多気郡多気町長谷


 丹生山近長谷寺は真言宗山階派に属し「近長」さんの通称で呼ばれています。元禄年間に伊勢の皇大神宮に近いということで近の一字を加え「近長谷寺」と改称されたそうです。
 近長谷寺は仁和元年(885)伊勢の国の豪族である「飯高宿禰諸氏」が、第58代光孝天皇の勅願所として建立しています。続日本記によりますと、飯高氏は奈良時代、四代の天皇(元正・聖武・淳仁・孝謙)に仕えた妥女「飯高諸高」を送り出した豪族だそうです。
 諸高は、性甚謙謹・志慕貞潔・典従三位を賜り、宝亀8年(777)80歳で奈保山に葬られるまで、多気郡勢和村丹生から産出する「水銀」で富を築き上げたといわれています。
 本尊十一面観音は、奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺とともに「日本三観音」の一つとして広く知られています。三体の仏像を一本の樟から造っていると伝えられているのです。国の重要文化財に指定されています。
 この十一面観音は高さ6.6mに及ぶ巨人な平安時代の観音像です。全国に二百ヶ寺以上あるといわれる大和長谷型観音に属するもので、なかでも右手に錫杖を添える姿は、日本唯一のものだそうです。
 本堂は、中興の祖「真海上人」が、天文6年(1537)50年かけ天正末年に再建しましたが、元禄3年(1690)の大雨などで倒壊したそうです。現在の建物は元禄7年(1694)快舜により再建されたものだそうです。



近津長谷城跡
ちかつはせじょうせき
三重県多気郡多気町長谷


 近津長谷城とよばれる中世の城郭跡が近長谷寺のある長谷の城山の山頂にあります。眼下にはJR紀勢線、国道42号線がある平谷方向です。左手には田丸城があったそうです。
 中世城郭(ちゅうせいじょうかく)と呼ばれるもので、石垣や天守を持たず切り盛りした土塁などが残されているだけのものです。
 外宮の神官の書いた「目安案」という文書の中に「伊勢近津長谷城」とその城主「外宮神官度会家行」の名が記してあるそうです。
 貞和三年(1347)に南朝方の楠木正行(くすのきまさつら)の挙兵に呼応しここに城を構えたことが書かれているそうです。



斎宮跡
さいくうあと
三重県多気郡多気町竹川


 斎宮(さいくう)とは天皇の代わりに伊勢神宮に仕えた未婚の皇女「斎王(さいおう)」の宮殿が置かれたところです。第11代垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が初代斎王といわれています。
 斎王は天皇が即位すると亀の甲羅や動物の骨などを使った占いである「卜定(ぼくじょう)」によって未婚の内親王(天皇の皇女)から選ばれて天皇の代わりに伊勢神宮に仕えました。
 672年、大海人皇子は壬申の乱での戦勝を願って迹太川(とほがわ)ほとりで伊勢神宮の方を向いて天照大神を拝んだそうです。大願成就したため途絶えていた斎王の制度を確立させました。大海人皇子と大田皇女(天智天皇の皇女)との子で大津皇子の実の姉でもある大来(おおく)皇女が斎王になりました。



斎宮歴史博物館
さいくうれきしはくぶつかん
三重県多気郡多気町竹川503


 昭和54年(1979)に明和町にある斎宮跡の約137ヘクタールの範囲が国の史跡に指定されました。発掘調査が進められていますが、規模の大きな宮殿のため、全体を把握するには相当長い年月が必要とされるようです。
 斎宮歴史博物館は昭和45年(1970)以来継続的に進められている発掘調査や研究の成果に基づき、斎宮の歴史を紹介するため、平成元年(1989)10月に史跡の一角にオープンしました。平成11年(1999)10月、斎王や斎宮を紹介する博物館としてリニューアルしています。



神宮
じんぐう
三重県伊勢市
 お伊勢さんと呼ばれて親しまれている伊勢神宮は正式には単に「神宮」といいます。豊受大神宮(外宮)と皇大神宮(内宮)という二つの正宮からなっています。
 両社の間は約6km離れていて「外宮先祭」といって、外宮から参拝するのが習わしとなっているそうです。「神宮」にはそれぞれに別宮、摂社、末社、所管社があり大きな組織となっています。
 神宮は2千年前、皇女、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神(あまてらすおおかみ)の御鎮座の地を求めて長旅に出て、伊勢に定めたのが始まりだといわれています。
 本来、皇室しか奉幣できませんでしたが、貴族や武士、さらには庶民も参拝できるようになりました。旅も自由にできなかった江戸時代に伊勢参宮は特別許可されたこともあり半年に500万人が訪れた事もあったそうです。



伊勢神宮
いせじんぐう
 お伊勢さんと呼ばれて親しまれている伊勢神宮は正式には単に「神宮」といいます。豊受大神宮(外宮)と皇大神宮(内宮)という二つの正宮からなっています。
 両社の間は約6km離れていて「外宮先祭」といって、外宮から参拝するのが習わしとなっているそうです。「神宮」にはそれぞれに別宮、摂社、末社、所管社があり大きな組織となっています。
 神宮は2千年前、皇女、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神(あまてらすおおかみ)の御鎮座の地を求めて長旅に出て、伊勢に定めたのが始まりだといわれています。
 本来、皇室しか奉幣できませんでしたが、貴族や武士、さらには庶民も参拝できるようになりました。旅も自由にできなかった江戸時代に伊勢参宮は特別許可されたこともあり半年に500万人が訪れた事もあったそうです。


伊勢神宮外宮(豊受大神宮 )
いせじんぐうげくう(とようけたいじんぐう)
三重県伊勢市豊川町
Tel 0596-24-1111


 高倉山の麓にある豊受大神宮は豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀っています。天慶年間(938-947)頃から内宮(ないくう)に対して外宮(げくう)といわれるようになったそうです。
北御門口参道
 豊受大御神は天照大御神の御饌都神(みけつかみ)とも呼ばれ、御饌(みけ)、つまり神々への食物を調達し農業をはじめ諸産業をつかさどる神とされています。
土宮
  雄略(ゆうりゃく)天皇は、夢の中で天照大御神の教えを受け、豊受大御神を丹波(たんば)の国に鎮座したそうです。内宮の伊勢鎮座の500年後にここ山田の原に遷されたそうです。
風宮
 宮域内には神楽殿、九丈殿、忌火屋殿(いんびやでん)、御酒(みさか)殿、斎館(さいかん)、外宮正殿(げくうしょうでん)、東宝殿、西宝殿、外幣(げへい)殿などがあり、正宮の南に風宮などの別宮が木々に包まれて建っています。東北隅にある御饌殿(みけでん)は内宮にはありません。
忌火屋殿
 外宮のつくりやお祭は内宮とほぼ同じですが、外宮の方が境内は一回り小さい感じです。 神様にお供えする御料米や衣服、野菜、果物、御塩、鮑などは神宮の御料地で神宮が直接その生産、調製をしているそうです。
多賀宮


正殿
 (しょうでん)
 正殿は板垣、外玉垣、内玉垣、瑞垣をめぐらした斎庭に建てられています。内部には豊受大御神と御伴神(おとものかみ)3座が祀られているそうです。
 正殿は唯一神明造り(ゆいいつしんめいづくり)と呼ばれる建築様式で建てられています。一般神社の神明造りと区別されています。屋根は切り妻造りの平入で萱(かや)で葺いています。柱は掘立、全て直線的です。
 棟には鰹木が9本列び(内宮は10本です)、その東西両端、破風板の先端が屋根を貫いて、千木(ちぎ)になっています。棟上に堅魚木(かつおぎ)をおき、妻の上にはV字型に千木(ちぎ)を出しています。千木の先端は内宮は水平なのに対し外宮では垂直に切られています。


風宮
かぜのみや
 風宮は土宮の東方、向かい側にある外宮の別宮です。風の神、級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)を祀っています。農業に深い関係のある風と雨の順調をお祈りする。
 風宮ははじめは多賀宮へと続く参道沿いにあった小さな社だったそうです。弘安4年(1281)の元冦に際して蒙古の敵軍を全滅に至らしめた神威の発顕によって内宮の同じ御祭神をもつ風日祈宮とともに一躍別宮に加列されるようになったそうです。


土宮
つちのみや
 土宮は亀石の橋を渡ると右手に見えるお宮で、多賀宮への参道の右側にあります。 外宮の別宮で、外宮宮域の地主の神である大土御祖神(おおつちみおやのかみ)を祀っています。
 平安時代末期の崇徳天皇の大治3年〈1128〉に宮川治水、堤防の守護神として別宮に加列されたそうです。氾濫による被害が相次ぎ宮川堤防の守護神ということに重きが置かれたものと推察されます。その結果、祈年祭、月次祭、神嘗祭の際、官幣に預かることになったようです。


多賀宮
たかのみや
 多賀宮は小高い檜尾山上にある外宮第一の別宮です。98段の石階をのぼると檜尾山に南面して建っています。豊受大御神荒御魂(とようけおおみかみのあらみたま)を祀っています。
 多賀宮と荒祭宮は各祭典とも正殿に引き続いて行なわれる格式が高い別宮です。正殿に続いて勅使が参向せられ、奉幣の御儀が行なわれるそうです。丘の上の高いところにお鎮まりになっていることから、明治以前は、高宮とも書かれたそうです。



伊勢神宮内宮(皇大神宮)
いせじんぐうないくう(こうたいじんぐう)
三重県伊勢市宇治舘町1
Tel 0596-24-1111


 皇大神宮は一般には内宮と呼ばれ、日本国民の大御親神(おおみおやがみ)と崇められる皇祖・天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀っている最高最大の大神宮です。
 第11代垂仁天皇の26年(約2000年前)に伊勢の地に鎮座されたようです。大和朝廷の東国進出とも関係があるようです。
 幅の広い参道には玉砂利が敷きつめられ、樹齢数百年という杉がうっそうと繁っています。まさに神域といった感じです。神苑は外宮よりやや広くて約93万平方mあり神路山の麓、五十鈴川の右岸に位置しています。
 崇神天皇のとき、それまで皇居の中に祀られていた三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)をその神威を恐れて大和の笠縫邑に移すことにしたそうです。
五十鈴川
 八咫鏡とは天照大神が天の岩戸に隠れたとき、石凝姥命が作ったという鏡です。天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出したといわれています。のちに鏡は天照大神が瓊瓊杵尊に授けたといわれています。
手水舎
 崇神天皇の次の第11代垂仁天皇の代に皇女、倭姫命(やまとひめのみこと)を大神につけ鎮座にふさわしい土地を求めさせたのです。
神楽殿
 倭姫命は近江、美濃などを巡歴した後、伊勢の国に至り、そこに宮を建てたのが内宮のおこりです。宮津市大垣にある籠神社は伊勢神宮の元になったとされています。伊勢神宮はここから伊勢へ移されたので元伊勢籠神社といわれています。
正殿
 宮域内には神楽殿、東宝殿、 西宝殿、五丈殿、忌火屋殿(いんびやでん)、御酒(みさか)殿、内宮正殿、外幣(げへい)殿、風日祈宮などがあります。
 御手洗場(みたらし)、手水舎(てみずしゃ)、祓所(はらえど)、内御厩(うちのみうまや)、由貴御倉(ゆきのみくら)、御贄調舎、御稲御倉などもあります。広く美しい内宮神苑には季節の花が咲いています。


大鳥居
 宇治橋の外側と内側には高さ7.44mの大鳥居が立っています。外宮旧御正殿の棟持柱が用いられ、20年後には桑名の「七里の渡し」の神宮遥拝の鳥居となるのだそうです。


宇治橋
うじばし
 宇治橋は長さ101.8m、巾8.42mあります。五十鈴川にかかり、俗界と聖界との掛け橋といわれ檜で造られています。内宮側の鳥居は、内宮旧御正殿の棟持柱が使われ更に20年後は鈴鹿峠の「関の追分け」の神宮遥拝の鳥居に使われるそうです。


第一鳥居
だいいちのとりい
 手水舎で清めて、表参道を進むと正面に第一鳥居があります。鳥居をすぎると右側には御手洗場があり、五十鈴川の清流が流れています。この石畳は元禄5年(1692)徳川綱吉の母、桂昌院が寄進したものだそうです。


正殿
しょうでん
 
 杉の大木に囲まれた参道の一番奥には広い30余段の石段があります。この上に正殿があります。板垣南御門に進むと、生絹の御幌(みとばり)がかけられている外玉垣南御門前で参拝できます。。
 正殿の後ろには東宝殿、 西宝殿があり、 この3つの殿舎を囲んで内側から端垣、 内玉垣、 外玉垣、 板垣が巡らされています。天照大御神が祀られいて、御神体は、三種の神器の一つ八咫鏡(やたのかがみ)です。
 正殿は外宮と同じく唯一神明造りと呼ばれる建築様式で南に面して建てられています。屋根は切り妻造りの平入で萱(かや)で葺いています。柱は堀立式の丸柱で地中に埋め建ててあり、素木造りで造られています。
 棟には鰹木が10本列び、その東西両端、破風板の先端が屋根を貫いて、千木(ちぎ)になっています。棟上に堅魚木(かつおぎ)をおき、妻の上にはV字型に千木を出しています。千木の先端は水平の内削ぎになっています。
 伊勢神宮では、20年に一度、正殿を引越しして建て替えます。これを式年遷宮といい神宮最大の神事になっています。現在の正殿の西隣に同じ広さの宮地があり、ここは式年遷宮御敷地と呼ばれ、平成25年に正殿が建て替えられる予定地です。


神楽殿
かぐらでん
 
 第二の鳥居を過ぎ、内御厩(うちのみうまや)を過ぎると左手に入母屋造の神楽殿が見えます。「神楽殿」、「御饌(みけ)殿」、「御神札授与所」が並んで建っています。
 内宮・荒祭宮・風日祈宮の御札やお守り、神宮暦の授与、また、献金の申し込みや御神楽の奉奏・御饌の奉奠(ほうてん)や参拝記念の御朱印もこちらで扱っています。


五丈殿
ごじょうでん
 
 神楽殿を過ぎ御正宮に向かうとすぐ左にあります。名前の由来は正面の長さからきています。雨天の時にここで御祓い(修祓)・大祓・遙拝など諸祭が行われます。


御稲御倉
みしねのみくら
 御稲御倉は、御正宮より規模は小さいですが、唯一神明造りになっています。皇大神宮所管社で、 神宮新田から収穫した抜穂 (ぬいぼ) が納められ、 祭典の際はこの稲から大御饌が調進されます。
 御稲御倉神(みしねのみくらのかみ)を祀っています。高床式建築で棟の両端を支える棟持柱があり、屋根は茅葺きで、千木がつけられています。棟の上には鰹木(かつおぎ)が並んでいます。


外幣殿
げへいでん
 正宮の西側の式年遷宮御敷地の手前左側に、御稲御倉があり、その奥に外幣殿があります。忌火屋殿の裏手にあたります。
 ここ外幣殿には、古神宝類がお納めしてあります。ここも高床式の建物です。規模は小さいのですが、左右一対の棟持柱、屋根の上の千木・鰹木など見ることができます。


荒祭宮
あらまつりのみや
  荒祭宮は、天照大御神の荒御魂(あらみたま)を祀っていて、伊勢神宮の14の別宮の中でも第一に位置づけられています。
 荒御魂というのは、事にあたって動きを示す荒く猛々しい時の御魂をいうそうです。普通の時の御魂は和御魂(にぎみたま)というそうです。
  「荒祭宮」の前の石段には「踏まぬ石」といわれる石があります。石の割れ目が天の字に見えることから、天から降ってきた石といわれ、踏んではいけないということです。



おはらい町
おはらいまち
三重県伊勢市宇治中之切町


 内宮の宇治橋から五十鈴川に沿って続く800mほどの通りが参宮街道である「おはらい町」です。明治以前は、宇治橋を渡った神苑の中にまで家並みが続いていたそうです。
 伊勢特有の切妻・妻入りの町並が続くこの「おはらい町」では、昔ながらの食事処やおみやげ物屋、銘菓の老舗、旅館が軒を連ねています。
 宇治橋前から赤福本店あたりまでは昔に戻ったように人力車も走っています。元の神宮司庁舎の神宮道場や神宮祭主の宿泊所であった祭主職舎「旧慶光院」などの歴史的建造物もあります。
 江戸時代、この町には「御師(おんし)」の館が立ち並んでいたそうです。御師とは全国津々浦々を回って伊勢信仰をひろめた権禰宜(ごんねぎ)たちのことで、全国に伊勢参宮ブームを巻き起こさせた人々です。
 はるばる伊勢を訪れた参宮客を自分の屋敷に泊め、神楽を奏し、お祓(はらい)して「お札」をあげてもてなしたそうです。ことから「おはらい町」といわれるようになったそうです。
 現在は伊勢に御師の館はありませんが、おはらい町の中に2カ所立派な門が残っているそうです。住時の繁栄がわかりそうです。



おかげ横丁
三重県伊勢市宇治中之切町52


 土産物屋や味処などが軒を並べる一角には、伊勢路の明治初期の町並を復元した新しい名所・おかげ横丁もあります。
 約2700坪のこの横丁には、郷土料理が味わえる老舗や土産店など27棟、42店舗が軒を連ねています。「おかげ座」では、江戸時代に流行した「おかげ参り」を体感できるそうです。
 宝永4年(1707)に創業した「赤福」が中心になって「おはらい町」の中に平成5年7月に誕生させた横丁ということです。



猿田彦神社
さるたひこじんじゃ
三重県伊勢市宇治浦田町2−1−10
Tel 0596-22-2554


 伊勢神宮内宮のそばに「猿田彦神社」はあります。天孫降臨の際、神々の先頭に立ち道案内した記紀神話の神「猿田彦大神」を祀っています。社殿は平成9年(1997)に改修されています。
 天孫降臨の時、道に迷った神様の一行、行く手に立つ人物を怪しみ瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は天鈿目命(あめのうずめのみこと)をこの男の所に行かせたそうです。 
 「貴方はどなたか」と尋ねると、「皆さんを、案内して差し上げようとお待ちしているのです」と答えたのが「猿田彦命」だったのです。そして一行を神の国から、この世に導いたのでした。
 身の丈七尺と背が高く、鼻が天狗のように高く、キリリとした良い男、その為、日本書紀に「俳優神」「衢(ちまた)の神」と書かれ、皆に崇められてきました。
 口は輝き、目は三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)のようにてりかがやいていたそうです。猿田彦大神はこのことから天狗のモデルともいわれ、鉄腕アトムのお茶の水博士のモデルでもあるそうです。
 猿田彦命が天孫降臨の際、道案内役を務めたことから万時善い方へ導く、「みちひらきの大神」として広く崇敬されているそうです。方位除け、交通安全にも御利益があるそうです。
 猿田彦命の子孫の「大田命」[おおたのみこと]は五十鈴川の上流の霊域を献上し「伊勢神宮」を創建したと言うことです。更にその子孫の「宇治土公」[うじのつちきみ]は神宮の《玉串大内人》と言う特殊な職掌に任ぜられ、代々これに務めているそうです。



小坡美術館
しょうはびじゅつかん
三重県伊勢市宇治浦田2−4−65
Tel 0596-22-2554


  伊勢市内宮前にある猿田彦神社の横から旧参宮街道沿いの牛谷坂を上ると白壁が美しい小坡美術館があります。明治から昭和期にかけて活躍した女流日本画家「伊藤小坡」の作品を展示する美術館です。
 小坡は明治10年(1877)猿田彦神社宮司宇治土公家に生まれました。このことから幼い頃から古典文学や茶の湯に親しみ古典的な女性の美しさを描き続けたようです。
 平成8年(1996)に小坡美術館はオープンしました。展示館内には猿田彦神社と伊勢に関わりのある文献も併せて公開しています。  



神宮徴古館
じんぐうちょうこかん
三重県伊勢市神田久志本町1754−1
Tel 0596-22-1700


 神宮の「内宮」(皇大神宮)と「外宮」(豊受大神宮)の中間にあたる倉田山のふもとの広大な敷地に神宮徴古館が建っています。伊勢神宮の歴史と文化の総合博物館です。
 神宮の撤下御装束神宝をはじめ、神宮崇敬の歴史を物語る史料や日本文化の移り変わりを示す古文化財、近代絵画や工芸品の数々を展示しています。
 明治42年(1909)神宮徴古館は日本初の私立博物館として誕生しました。設計は赤坂離宮の設計者・片山東熊で煉瓦造に石貼仕上げとする端正な意匠のルネッサンス様式の建物です。昭和20年(1945)戦火をうけ、建物と収蔵品の大部分を惜しくも焼失しました。
 昭和28年(1953)第59回神宮式年遷宮を記念して復旧されました。花崗煉瓦石積の壁面はそのままにして、二階建に改装し、さらに昭和60年(1985)には新館もできました。平成10年に国の登録有形文化財となりました。



神宮美術館
じんぐうびじゅつかん
三重県伊勢市神田久志本町1754−1
Tel 0596-22-5533


 平成5年(1993)の第61回神宮式年遷宮を記念して創設された美術館です。寝殿造りや書院造りなど、日本古来の建築様式をふんだんに取り入れたものとなっています。
 美術館で収蔵、展示している作品は、文化勲章受章者・文化功労者・日本芸術院会員・重要無形文化財保持者の、当代を代表する美術・工芸家から神宮に献納されたものだそうです。
 今後も神宮崇敬の精神を伝えるという構想から、遷宮が行われる20年ごとに絵画・書・彫塑・工芸の多彩な秀作を収め、我が国の美術・工芸を残していくそうです。



倭姫宮
やまとひめのみや
三重県伊勢市楠部町5


 倭姫宮は倉田山の一角にある内宮の別宮の一つです。天照大御神のご鎮座の地を伊勢と定めた倭姫命(やまとひめのみこと)を祀っています。原始の森の中に大正12年(1923)に創建されました。
 国が荒廃し、疫病が流行り、苦しむ民を見た崇神天皇は、皇女豊鍬入姫(とよすきいりひめ)に託し、天照大御神を宮中から、大和の笠縫邑に祀ったのでした。
 倭姫命は、第11代垂仁天皇の皇女で、豊鋤入姫命に代わって、天照大御神の御杖代として大御神の安らかに鎮まる地をさがし求める旅に出たのです。
 伊勢の地へこられ「是の神風の伊勢の国は、常世の重浪の帰する国なり。傍国の可怜し国なり。是の国に居らむと欲ふ」と大神の言葉により、この五十鈴川上の宮に鎮座されたのでした。



二見興玉神社
ふたみおきたまじんじゃ
三重県伊勢市二見町江575
Tel 0596-43-2020


 二見興玉神社は二見浦の夫婦岩のそばに建っています。沖合いの海中に沈む神石を、夫婦岩を通して拝するための遥拝所が起源となっています。のちに僧の行基(ぎょうき)が建立したそうです。
 二見浦は一昔前までは伊勢神宮にお参りする人々が「清き渚」で身を清めて内宮、外宮へ向かった習わしのあった神聖な場所だったそうです。
 <縁結の歌碑>
 「お伊勢まいりに見そ免(め)た あなた むすぶ縁能(の)夫婦岩」
 二見浦の海岸沿いに建つ石碑です。
 倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神(あまてらすおおかみ)の御鎮座の地を求めてこの地を訪れた時あまりの美しさに二度も振り返ったとことから二見浦と呼ばれるようになったそうです。
 「みちひらき」の神、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を祀っています。また豊受大神とも称される宇迦御魂大神(うがのみたまのおおかみ)も祀っています。明治43年(1911)興玉社と三宮神社を合祀して現在の二見興玉神社という名称になったそうです。
 現在の社殿は平成8年(1996)に造営されたそうです。ご神体は海中にある興玉神石で、縁結び、夫婦円満、交通安全、海上守護、厄除け、開運招福の御神徳があるそうです。
 天の岩屋(あまのいわや)です。
 
 表参道の右手にある岩窟で旧三宮神社の遺跡の跡です。日の大神がお隠れになった天の岩屋と伝えられます。日の出に対し日の入り(お隠れ)になった処とされています。
 稲を司るといわれる宇迦御魂大神(うがのみたまのおおかみ)を祀っっています。洞の入口に小祠と鳥居があります。



夫婦岩
めおといわ
三重県伊勢市二見町江575


 二見浦にある「夫婦岩」です。海食により大小二つの岩が形成された奇勝です。沖合700mの海中に沈むご神体「興玉神石(おきたましんせき)」の自然の鳥居を形造っているそうです。
 高さ9mの大きい岩を男岩、4mの小さい岩を女岩と称し、二つの岩を結ぶ大注連縄(おおしめなわ)は「結界の縄」と呼ばれ、神様達が寄る神聖な場所として俗世と区別されてきたそうです。
 この大注連縄長さ35m、重さ40kgあるそうです。鎌倉時代の後半である約650年前にはすでに張られいたそうです。現在も5月、9月、12月の年3回、大注連縄張り替えの神事が行なわれているそうです。
 二見興玉神社境内には猿田彦大神のお使いとされる二見蛙(ふたみかえる)が多数奉納されています。禊の浜として二見浦に現れた白蛇、大蛇を鎮めるため献納されたそうです。
 これらの蛙は人々の暮らしの安全を加護した「無事カエル」や「若がえる」「貸した物がかえる」など縁起物として親しまれています。



鳥羽湾
とばわん
三重県鳥羽市鳥羽
 鳥羽湾は伊勢志摩国立公園の代表的な景勝地です。たくさんの島々が形作るリアス式海岸と青い海に浮かぶ養殖真珠筏とのコントラストがきれいです。
 江戸時代には東西貿易の風待ち港として栄え、風光明媚な良港として知られていました。イルカ島と真珠島に寄港する「志摩の松島」めぐりの定期観光船コースも人気があります。



伊勢湾フェリー
いせわんふぇりー
三重県鳥羽市鳥羽一丁目2383−4
 鳥羽から伊良湖まで往復する伊勢湾フェリーです。渥美丸、志摩丸、三河丸、知多丸、鳥羽丸などがあります。 



鳥羽水族館
とばすいぞくかん
三重県鳥羽市鳥羽3−3−6
Tel 0599-25-2555


 昭和30年(1955)に日本で26番目の水族館としてオープンしています。ここには世界で唯一、人魚伝説のジュゴンをペアで飼育しています。
 社会教育施設として文部科学省の博物館の指定を受け学術研究にも努めています。スナメリの赤ちゃんが誕生したり、日本初のラッコ2世の誕生、そしてジュゴンの世界唯一飼育記録も更新中ということです。
 全面ガラス張りで海の底の気分が味わえるコーラルリーフダイビングゾーンや、アマゾンの一日を コンピューターで再現するジャングルワールドなど、見所いっぱい。
 館内は11のテーマにゾーン分けされ、順路を気にすることなく自由に観覧できるようになっています。850種もの海や川の生物が、自然を取り入れた環境とともに飼育されています。



ミキモト真珠島
みきもとしんじゅとう
三重県鳥羽市鳥羽1−7−1
Tel 0599-25-2028


 島全体が真珠の博物館です。真珠王とよばれる御木元幸吉が世界で最初に真珠の養殖に成功した島なのです。真珠のすべてをあらゆる角度から紹介している「真珠博物館」などがあります。
 また「御木本幸吉記念館」には幸吉の波瀾に富んだ生涯と業績が、数多くの写真や実物、説明パネルによって、時代順に展示されています。また年間を通して海女の実演も見ることができます。
 御木元幸吉は鳥羽のうどん屋「阿波幸」の長男に生まれ、さまざまな商売を経験するなかで志摩の名産だった真珠の魅力に着目しました。
 「世界中の女性の首に真珠をつけさせよう」という強い信念で試行錯誤や失敗を繰り返し、明治26年(1893)に世界で初めて真珠養殖に成功したのでした。



伊雑宮
いざわのみや
三重県志摩市磯部町上之郷
Tel 0599-55-0208


 伊雑宮は皇大神宮の別宮の一つです。昔、大神の遙宮(とおのみや)ともいわれ、志摩の国の大社として有名です。 
 伊勢神宮内宮の別宮の中でもとりわけ高い格式を誇っています。倭姫命(やまとひめのみこと)が志摩の国を巡られたとき伊佐波登美命に命じて造営されたとされています。
 崇神天皇の第3子、垂仁天皇は、「いま私の世に、天神地祇を祭司することを怠ることができようか」と述べられ、天照大神に倭姫をお付けになったそうです。

 倭姫は大神の御魂を依り代柱にして常住するところを求め、大和の笠縫邑を出発しました。伊賀・近江・尾張の国々から北伊勢、南伊勢に行き滝原宮に鎮座したそうです。
 しかし、大神はここでは住み心地が悪いと倭姫に告げたので、五十鈴川の河口から川上の現在の宇治に鎮座したといわれています。
 皇大神宮の遥宮である伊雑宮は祭祀はすべて本宮に準じて行なわれているそうです。、祭神の天照坐皇大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)を祀っています。

 神饌として米を奉納する為、「御田」(おみた)が隣接されています。ここで6月24日に行なわれる御田植祭は、日本三大御田植祭として有名です。平成2年(1990)国の重要無形文化財に指定されたそうです。



安乗崎灯台
あのりざきとうだい
三重県志摩市可児町安乗


 安乗崎は志摩半島の中央部に深く切れ込んだリアス式海岸です。的矢湾(まとやわん)の入り口に位置し、伊勢志摩国立公園の一部を成しています。
 ここは江戸幕府の燈明台が置かれていたところだそうです。明治5年(1872)に英国人技師ブライトンが設計した木造八角形の灯台が建てられたそうです。
 75年間海を守り続けた後、この灯台は東京の「船の科学館」に移されれたそうです。昭和22年(1947)現在の四角い灯台が新設されたのです。
 この灯台も映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台になっています。眼下にせまる太平洋の海原と、真っ白で四角形の灯台、青い空とのコントラストがとても美しく感じました。
 安乗神社の祭礼に奉納する人形芝居として400年あまりの歴史と伝統を持つ民俗芸能「安乗文楽」があります。航海の幸運を神社に祈るために奉納芝居として上演されていたものです。国の重要無形民俗文化財に指定されています。



大王埼灯台
だいおうざきとうだい
三重県志摩市大王町波切


 志摩半島と熊野灘を二分するように突出する大王埼は陰礁、暗岩が散在しています。高さ8.4mの大王岩は「伊勢の神崎、国崎の鎧、波切大王なけりゃよい」と謡われたほどの海の難所だったそうです。
 大正時代に3000トンの巡洋艦「音羽」が大王岩に激突して座礁してしまう大惨事があり、その後8年かけて灯台が完成したそうです。
 大王埼灯台は「喜びも悲しみも幾年月」「君の名は」「浮草」「学校の怪談4」など数々の映画に登場する灯台です。また、この地は織田水軍の将、九鬼義隆が生まれた地としても知られ、「波切城跡地」としても知られています。


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