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日本の旅
近畿・京都の旅          京都洛中

新撰組発祥の地
八木家住宅
京都市中京区壬生梛ノ宮町24
 ここは幕末の頃、京都の浪士取り締まりや治安維持に活躍した新撰組の宿所があったところです。
 文久3年(1863)春、将軍家家茂の上洛警護のため清河八郎の率いる浪士組が入洛しました。宿舎の一つとして使われたのが当時壬生郷の郷士宅であった八木家でした。
 浪士組は在京二十日余りで再び江戸に戻りましたが、芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三らは引き続き京都守護のため残留し、京都守護職松平容保(かたもり)の支配に属して「新撰組」を組織しました。
 当初「新撰組宿所」の標札を掲げ十数名で発足しましたが隊員が増加して近くの農家にも分宿したようです。慶応元年(1865)4月、西本願寺に移りました。
 八木家は壬生村きっての旧家で壬生浪士の長老をつとめていました。長屋門は文化元年(1804)、主屋は文化6年に造営されたそうです。
 長屋門は腰に下見板を張り、与力窓や出格子窓を開くなど昔の面影をよく残しています。昭和58年、京都市指定有形文化財に指定されました。
 壬生の名水(鶴寿井)
 この井戸は八木家に3つある井戸の一つです。数百年前から湧き出て水質に大変恵まれ飲料として適しています。新撰組隊士も毎日飲用していたそうです。
 隊士腰掛けの石
 ここの石類は、本屋敷と表屋敷との間、つまり新撰組の道場のあたりにあったものです。隊士達も腰を下ろし休んでいたそうです。屋敷内を2、3移動した後、ここに落ち着いたそうです。



壬生寺
みぶでら
京都市中京区坊城通仏光寺北入ル
 新選組は文久3年(1863) 3月に、ここ壬生の地において結成されました。慶応2年(1866)頃、新選組は毎月四と九のつく日を壬生寺境内での兵法訓練の日にしていたそうです。 
 壬生寺は、正暦2年(991)、三井寺の快賢僧都が仏師の定朝に地蔵菩薩像を造らせて本尊としたのがはじまりといわれています。その後、白河天皇が訪れて地蔵院の号を与えました。
 建保元年(1213)に平宗平(むねひら)が現在地に移して伽藍を建立しましたが、正嘉元年(1257)に焼失してしまいました。
 宗平の子の政平(まさひら)はこれを再興して地蔵院から宝幢三昧寺に改めました。律宗別格本山である壬生寺はこのため地蔵院とも宝幢三昧寺とも称されているのです。
 正安年間(1299-1302)に円覚十方(えんかくじゅっぽう)上人道御(どうぎょ)が融通大念仏を修し、浄財を募って堂宇を修復しました。この時に境内で猿楽を演じたのが壬生狂言の始まりといわれています。
 毎年節分と4月21日から1週間に大念仏堂で行われる「カンデンデン」の壬生狂言は有名で、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。
 中世末期に衰退した壬生寺は秀吉、家康の保護を受け江戸時代には再び隆盛になりましたが天明の大火で全焼しました。今の本堂は1967年に再建されたものだそうです。
 本堂には、重要文化財に指定されている本尊の地蔵菩薩立像が安置されています。唐招提寺から移座されたものだそうです。また、境内には新撰組隊士の墓も残っています。



二条城
にじょうじょう
京都市中央区二条通堀川西入ル
 桃山文化の粋が結集されている二条城は、慶長8年(1603)徳川家康が、京都御所の守護と将軍上洛の際の宿所として京都所司代板倉勝重に命じて造営したものです。
 慶長16年(1611)、後水尾天皇の皇位継承のために上洛した時は、この城で豊臣秀頼と会見しています。また慶長19年(1614)の大阪冬の陣、翌年の夏の陣では幕府方の作戦本部になりました。
 寛永3年(1626)三代将軍家光が後水尾天皇を迎えるために大改修を行い大体いまの体裁を整えました。寛延3年(1750)伏見城から移築した天守が落雷で焼け、天明の大火では本丸のすべてと櫓や門の一部が焼失してしまいました。
 幕末になると開国をめぐり公武の緊張が高まり、14代将軍家茂が二度にわたって上洛し二条城に滞在したそうです。最後の15代将軍慶喜は慶応2年(1866)ここで将軍職を拝命し、翌年大政奉還をしています。
 堀を巡らし石垣に囲まれた広大な城内は、二の丸御殿(国宝)、本丸御殿(重要文化財)、二の丸庭園(特別名勝)などからなり、豪壮な外観に反して、内部はきらびやかさに満ちています。
 国宝の二の丸御殿は桃山時代武家風書院造りの代表的な建物です。城へ参上した大名の控室であった「遠侍」、参上した大名が老中職と挨拶を交した「式台」などがあります。
 将軍が外様大名に対面した部屋は「大広間」です。慶応3年(1867)、15代将軍慶喜が大政奉還を発表し、徳川幕府265年の幕を閉じた歴史的な部屋でもあります。
 その他に「蘇鉄の間」、「黒書院」、将軍の居間と寝室の「白書院」などが並んでいます。二の丸御殿の障壁画は狩野一門の作で、八方にらみの獅子図などがよく知られています。これも重要文化財に指定されています。
 各部屋の襖絵は狩野派一門の手によって部屋の目的に応じて描かれています。また欄間の彫刻、飾金具、長押(なげし)に打たれた花熨斗形(はなのしがた)の釘隠しなどは、金飾あざやかに豪華を極めています。
 二条城の総面積は約27万5千uです。小堀遠州作と伝わる二の丸庭園は、広大な敷地を利用して神仙蓬莱の世界を表わした池泉回遊式の見事な庭園です。蓬莱島・鶴島・亀島の三島を置き、四つの橋を架け、西北隅に滝を落とし、池の汀に多くの岩石を配しています。



下鴨神社
しもがもじんじゃ
京都市左京区下鴨泉川町59
 京都で最も古い神社の一つで、正式には賀茂御祖(かもみおや)神社といいます。古代豪族賀茂氏の氏神社で、上賀茂神社と合わせて賀茂社と総称されていました。
 下鴨神社の祭神は、賀茂建角身命(かもたけのつみのみこと)と玉依媛命(たまよりひめのみこと)です。前者は西殿に、後者は東殿に祀られています。朝廷の尊崇も厚く、「源氏物語」をはじめ数々の文学に登場しています。
 上賀茂神社を上社というのに対し、ここは下社と呼ばれています。南に広がる「糺の森」は、樹齢200年から600年にもなる老樹が茂り、昔は神々の審判の場であったといわれています。
 「糺の森」を抜け、参道の行き着いた先にある大きな鳥居をくぐると、奥に朱塗りの鮮やかな「楼門」が建っています。
 現存の「楼門」は寛永5年(1628年)に建て替えられたもので重要文化財に指定されています。
 「糺の森」は古代の山城国(京都)の原野として、国の史跡に指定されています。東本殿と西本殿の国宝が2棟、楼門など53棟の社殿群が重要文化財に指定されています。平成6年には世界文化遺産にも登録されました。
 玉依姫は古くから水をつかさどる農耕の神様です。 正月4日。境内の鞠の庭では、「ヤァ!」「アリィ!」と独特のかけ声が交わされます。赤や紫、色とりどりの水干(すいかん)、烏帽子(えぼし)姿の貴族達が鹿革で作った鞠(まり)を蹴り交わしています。 
 5月15日の五穀豊穣を願う葵祭も有名です。京都御所での儀式の後、藤飾りの御所車にのった斎王代(さいおうだい)を中心に内侍(ないし)や釆女、葵の葉を冠にさした貴公子達500人の列が、下鴨神社から都大路を上賀茂神社へと行進します。
 「言社(ことしゃ)」は「えとの守り神」ともいわれ、中門の内側、幣殿の前に建てられています。三つに見える社は全部で七つの小さい社で構成されています。大国主命は七つの名前を持っており、名前ごとに祀られているので七つの社になっています。
 幣殿の奥に「東本殿」、「西本殿」が建っています。幣殿の外からは、御簾や柱などに阻まれていて本殿の全体像を見ることは出来ません 「西本殿」には賀茂建角身命、「東本殿」には玉依媛命が祀られています。
 現存の「東本殿」、「西本殿」は桧皮葺の建物で、平安時代の典雅な面影をもっています。現在の本殿は文久3年(1863)に再建され、神社建築の代表的な社殿といわれています。
 重要文化財の出雲井於(いずもいのへの)神社は神武天皇二年の条りに「葛野主殿県主部」とある氏族が祖神として奉斎した社です。「井於」とは、川のほとりのことで、出雲郷の鴨川のほとりに坐す神社との意です。
 地主神である須佐之男命をまつっている。この神社の周囲にどのような木を植えても、柊葉のようにギザギザになることから比良木社(柊社)とも呼ばれているそうです。また、みたらし団子発祥の地(みたらし池)だそうです。
 重要文化財の供御所(くごしょ)です。御殿のなかは東、中、西の三間に分かれています。東の間は神饌を調理する間、贄殿(中の間)は魚介鳥類を調理する間、待所(西の間)は神官など参集し、直会(なおらい)、勧盃の儀などを行う間です。
 重要文化財の三井神社です。御祭神は東殿は伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)、中殿は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、西殿は玉依日売命(たまよりひめのみこと)です。延喜式内の大社で「山城国」『風土記』に、「蓼倉(たてくら)の三身社(みいのやしろ)」とある社です。
 重要文化財の舞殿(まいどの)です。賀茂祭(葵祭)のとき勅使が御祭文を奏上され東游(あずまあそび)が奉納されます。御所が災害に遭われたとき、臨時の内侍所とさだめられています。寛永5年(1628)に建て替えられています。
 重要文化財の橋殿です。御蔭祭のときご神宝を奉安するのに使われている御殿です。葵祭の神事のとき、神楽や倭舞が奉納される他、天皇行幸のときには公卿や殿上人の控え所として使われました。境内を流れる御手洗川の上に橋のように懸かって建てられているので橋殿といわれています。
 重要文化財の細殿(ほそどの)です。歌会、茶会等が行われる殿舎です。平安時代の当神社『神殿記』に「細殿」とあり、歴代天皇の行幸、上皇、法皇、院、関白賀茂詣には、歌会などが行われた社殿です。



東本願寺
ひがしほんがんじ
京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754
 京都駅前に位置する東本願寺は、真宗本廟(本願寺)と称し、浄土真宗「真宗大谷派」の本山です。 広大な境内地の中心をなす御影堂(ごえいどう)には、宗祖親鸞の像を、阿弥陀堂には本尊の阿弥陀如来を安置しています。 
 徳川家康から寺地の寄進を受け、第12代教如上人が西本願寺より分立して建立しました。中心をなす高さ38m、東西58m、南北76mという木造建築「御影堂」は世界最大級です。
  慶長7年(1602)、すでに退隠していた教如(きょうにょ)に徳川家康が4町四方の寺地を与え、12世を名乗らせて西本願寺から分離させたことがはじまりです。
 創建当時の御影堂(大師堂)は滋賀県にある長浜別院の本堂を京都に移したようです。西本願寺よりも小さかったので、万治元年(1658)、宣如が対抗意識を示してより大きなものに再建しています。
 三度の大火や、元治元年(1864)の兵火で諸建築は焼失し、現在のものはほとんど明治時代のものです。



西本願寺
にしほんがんじ
京都市下京区堀川通花屋町下ル
 大伽藍を誇る西本願寺は、浄土宗本願寺派の本山です。1272年(文永9)宗祖親鸞聖人の娘の覚信尼が京都東山に廟堂を創建したのがはじまりです。室町時代に蓮如上人が寺勢を盛り上げたが、反目を買い、 比叡山宗徒に破壊されました。
 各地に寺基を移したが、天正19年(1591)豊臣秀吉により七条堀川に寺地寄進を受けて顕如の子准如が造営にあたりました。慶長7年(1602)、徳川家康は、顕如の子教如(准如の兄)に寺地を与えて東西に分裂させました。東本願寺ができたので西本願寺と呼ばれるようになりました。1633年(寛永19)頃にはほぼ現存の姿になったようです。
 広大な境内には、御影堂を中心に多数の伽藍が建ち並び、広々として壮観です。国宝の唐門や書院は伏見城の遺構、飛雲閣や能舞台は聚楽第の遺構で、桃山建築の美を堪能できます。
北能舞台は現存する最古の能舞台で、虎渓の庭という桃山の庭も見どころです。西本願寺は1994年世界文化遺産に登録されました。ただ本願寺御影堂は平成大修復中で平成10年から20年まですやねに覆われて姿を見ることはできないようです。



相国寺
しょうこくじ
上京区今出川通烏丸東入ル相国寺門前町701
 相国寺門前町にある臨済宗相国寺派の大本山です。開山は夢窓国師です。足利三代将軍義満が、後小松天皇の勅命を受けて1382年(永徳2年)に創建しました。京都五山の第二位に列せられた名刹です。
 応仁の乱の戦乱など、数度の焼亡・再建を繰り返した後文化年間(1804-1818)に至って再建完備されました。五山の中枢として絶大な権勢を誇り、多くの高僧を排出しています。明治9年に分離独立して相国寺派を形成し、現在同派寺院は99を数えます。
 現存する塔頭には、大光明寺・鹿苑院・慈照院・大通院・光源院などがあります。本尊は釈迦牟尼如来です。寺宝に本堂(重文)・無学祖元墨跡四幅(国宝)・十六羅漢像(重文)など多数あります。
 重要文化財の法堂の天井には,「鳴き竜」で知られる絵が描かれてい ます。この法堂は豊臣秀頼により再建されたもので日本最古の法堂だそうです。
 寺内にある放生池に架かる天界橋は,細川晴元と松永久秀によって、天文の乱(応仁の乱)の合戦の火蓋が切られたところです。
 方丈は法堂の北、塀に囲まれた中に南面して建つ大建築です。文化4年(1807)の再建です。
 相国寺の浴室は宣明(せんみょう)と呼ばれました。1400年頃創建されましたが現在の建物は慶長元年(1596)に再建されました。
 細川勝元率いる東軍16万が、室町第の隣にある相国寺に陣をはりました。これに対する山名宗全率いる西軍11万が総攻撃をかけます。16万対11万の戦闘の舞台となりました。
 二度目は細川晴元と、その家来であった三好長慶の戦闘です。相国寺に陣をはる細川軍に、三好方の武将、松永弾正の軍が攻撃をしかけました。二度歴史の大舞台となりました。


承天閣美術館
  相国寺境内にある美術館で、相国寺創立600年記念に建てられました。本山相国寺及び鹿苑寺(金閣)・慈照寺(銀閣)をはじめ、相国寺派に伝わる美術品を展示公開しています。
 収蔵品は鎌倉・室町から江戸期にわたる墨蹟・絵画や工芸品が主で、国宝4点・重要文化財111点を含む数百点をかぞえます。また茶碗や茶杓等桃山時代の粋をあつめた茶道具も多く収蔵されています。



西陣織会館
西陣織会館では、京都の伝統産業である西陣織のすべてを知ることができます。
 西陣織・手織実演が行われています。伝統的な技法である爪かき本綴(ほんつづれ)という独特の爪かきで紋様を表現する技法も実演が行われています。和装の美しさを余すとこなくお見せするきものショーやさまざまな体験教室を開催しています。



東  寺
とうじ
南区九条町1

 東寺は平安遷都(794年)の翌々年、桓武天皇が平安京鎮守のため、朱雀大路の最南端・羅城門の東西に建立した寺の一つで、西寺に対し東寺と呼ばれました。五重塔は天長3年(826年)に着工し877年に完成しました。
 東寺は823年、嵯峨天皇から空海に与えられ、真言密教の根本道場となりました。(空海は、入定(死)後87年目の921年に醍醐天皇から「弘法大師」の称号が贈られた)1233年に弘法大師像が完成しました。像の完成により、町の人々も供養に集まるようになり、庶民の寺としての東寺の歴史が始まりました。

観智院
東寺の塔頭の中でも最も格式が高い寺です。慶長10年(1605)の再建で上座の間には宮本武蔵の水墨画、二羽の荒鷲が今にも飛びかからんかとする「鷲の図」があります。同じく襖絵の「竹林の図」も有名です。

 足利尊氏は東寺に本陣を置き新田義貞軍を防ぎ、室町時代の幕を開けました。織田信長も足利尊氏にならい本陣を置き、安土桃山時代が始まった。信長のあとを継いだ豊臣秀吉も1563年の落雷で焼失した五重塔の再建に力を注ぎ、秀頼は金堂の再建に着手しました。徳川家光は1635年の落雷で焼失した五重塔を再建しました。
 明治政府が1868年、神仏分離令を発令したため、神仏習合を唱えてきた寺院は大きな影響を受け、東寺も南大門等が焼かれてしまいました。現在の南大門は、1895年(明治28年)に蓮華王院(三十三間堂)の西大門を購入し、移築したものです。

東寺五重塔
 877年に完成した五重塔は落雷による火災で4度焼失しましたが、地震には大変強かったようです。高度な耐震設計が施されていたためで、安土桃山時代後期の1596年、京都は大地震にみまわれ伏見城の天守閣が倒壊し、東寺でも食堂、中門、講堂、灌頂院、南大門、北大門が倒壊したといいますが、五重塔は何事もなかったかのようにそびえたっていたという話が残っています。
 現在の五重塔は1644年、三代将軍徳川家光によって再建されたものです。高さ57メートルのこの塔は、日本に現存する五重塔としては日本一の高さがあります。



京都タワー
京都市下京区烏丸通り七条下ル東塩小路町721-1
 京都人の間ではロウソクという愛称で呼ばれている和ろうそくをかたどった高さ131mのタワーです。地上100mの最上階にある展望室からは山に囲まれた基盤状の洛中洛外を楽しめます。
 タワー自体は骨組みなど無く、小さな円筒を繋いだ物でできています。先端までは131mあります。夜景もきれいで古都のシンボル的存在です。隠れた名所は地下3階にある駅前温泉です。地下水を汲み上げて沸かした立派な銭湯です。



京都駅
 三年半余りかかって完成した京都駅ビルは、高さ59、8m、東西の長さ 470m、延べ面積23万8千平方メートルもあって国内最大規模のターミナルビルです。
 駅施設と劇場、ホテルやデパート、専門店街、観光・行政関係施設、駐車場もあります。遊ぶ・観る・食べる・飲む・買う・泊まる楽しみがいっぱいあり、京都の新しいアミューズメントスポットになっています。



東福寺
とうふくじ
東山区本町15丁目778
 東福寺は臨済宗東福寺派の本山です。嘉禎2年(1236)関白の九条道家が聖一国師を開山として菩提寺建立を発願し創建されました。延応元年(1239)に大仏殿が上棟されました
 19年の歳月をかけて建長7年(1255)に七堂伽藍が完成しました。五山の一つで「東福の伽藍面(がらんづら)」とまでいわれ壮観を極めました。
 東福寺の名前の由来は、奈良の東大寺のように大きく、興福寺のように盛大を極めた寺に・・・ と、それぞれ一字ずつとって「東福寺」と命名されたそうです。
 東山の山腹と渓谷を利用した境内には、国宝に指定されている室町最古の三門があります。至徳2年(1385)頃建設されたようです。五間三戸二階二重門、入母屋造り、本瓦葺きで切妻造り本瓦葺きの山廊があります。
 わが国最古で最大の禅堂は国の重要文化財です。別名、僧堂・選仏場とも呼ばれる座禅するための堂です。14世紀ごろの造立だといわれています。7間に4間の広さがあり一重で裳階が付いた切妻造りで本瓦葺きです。
 日本で唯一重要文化財に指定の禅宗寺院様式の「東司」(とうす)は長さが35mもある便所です。浴室も歴史が古く長禄3年(1459)の造立です。禅宗浴室としては現存最古のものです。
 方丈庭園は鎌倉時代の手法を用いた昭和の枯山水です。角石と苔とが描く市松模様の北庭はよく知られています。竜吟庵の方丈は現存最古の方丈建築で国宝に指定されています。
 本堂と開山堂を結ぶ歩廊の「通天橋」の下を三ノ橋川が流れ、洗玉澗(せんぎょくかん)と呼ばれる渓谷を創っています。紅葉の名所となっていて、橋のなかほどにある張り出し舞台にたつと素晴らしさが実感できます。
 この東福寺も度重なる兵火と明治14年(1881)の失火で仏殿、法堂、庫裏などを焼失しています。
 境内に建つ25の塔頭も名寺が多いのでしられています。光明院は虹の苔寺という愛称をもっています。同聚院は重要文化財の不動明王を安置しています。
 芬陀院(ぶんだいん)には雪舟の築造と伝えられる鶴亀の庭があります。霊雲院には九山鉢海の名園があります。


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