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仁和寺
にんなじ
京都市右京区御室大内33
 仁和2年(886)、第58代光孝天皇の勅願によって建設に着手されました。先帝の菩提を弔い、仏法の興隆を図るため「西山御願寺」(にしやまごがんじ)と称する一寺の建立を発願されたことが始まりです。
 しかし、天皇はその工事なかばにして崩御せられ、次の宇多天皇によって仁和寺は仁和4年(888)、年号を寺号として創建されました。以来、明治維新まで30代、約1000年にわたり皇子皇孫が仁和寺の門跡(住職)に就任し、門跡寺院の第一として隆盛を極めました。
 平安時代の中期から鎌倉時代にかけて皇室の尊崇と貴族の庇護を受けた仁和寺は、大きく栄えることになりました。法親王入寺ごとに御堂が新設されて堂舎僧坊は増加し、寺域も拡大して東は紙屋川辺から西は広沢池にまで及んだそうです。
  一時の仁和寺は子院も含めて64を数えるという大伽藍で壮観を極めました。しかし、元永2年(1119)と仁平3年(1153)の大火で大打撃を受けました。鎌倉時代も後半を迎える頃になると、貴族に替わって武家が台頭し、仏教も禅宗の方が盛んになり、真言宗はかつての栄光を失っていきました。
 そして、応仁元年(1467)に始まった応仁の乱によって、仁和寺は一山ことごとく焼失するという悲運に見舞われたのです。応仁の乱が始まった翌年、当時仁和寺は西軍の一拠点となっており、東軍の焼き討ちに遭い、わずか一夜にしてことごとく焼失することとなったのです。
 その後、21世覚深法親王の時、徳川三代将軍家光によって20余万両の寄進と、京都御所の紫宸殿、清涼殿などを移築して、やっと再建されるところとなりました。当時御所に存在しなかった二王門や五重塔は、その当時新築されたものだそうです。 
 明治20年(1887)の火災で本坊の多くを焼失し、大正2年(1913)現在の姿になりました。それでも仁和寺の広大な境内は御室御所跡として史跡に指定され、伽藍の建造物は、その多くが国宝や重要文化財に指定されています。そして千年以上の歴史と、多くの文化財を所有する仁和寺は、平成6年(1994)ユネスコの世界文化遺産に登録されたのです。



平岡八幡宮
ひらおかはちまんぐう
右京区梅ヶ畑宮ノ口町23
 大同4年(809年)、弘法大師により創建された京都最古の八幡宮で、高雄山神護寺の守護神とされています。応永14年(1407)に焼失しましたが、直ちに足利義満により再建されました。現建物は文政9年に修復されたものです。
 内陣天井は極彩色の花絵44面が描かれ、「花の天井」とよばれています。正面の鴨居には熨斗袋が描かれこれが熨斗の習慣の初めといわれています。御神木は樹齢600年とも800年ともいわれている15mのツブラシイの木です。



竜安寺
りょうあんじ
京都市右京区竜安寺御陵下町13
 龍安寺といえば枯山水の庭といわれるほど、石庭が世界的に有名です。大雲山と号し、衣笠山の西に位置する臨済宗の妙心寺派のお寺です。宝徳2年(1450)室町幕府管領細川勝元が、徳大寺家の別荘を譲り受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)を開山として創建しました。
 応仁の乱で焼失して、長享2年(1488)勝元の子政元が再興しましたが、寛政9年(1797)火災で方丈・仏殿・開山堂を焼失したため塔頭の西源院の方丈を移築したものだそうです。


 方丈の前庭が有名な枯山水の石庭です。東西約25m、南北約10m。三方を築地塀〔油土塀〕に囲まれていて、一木一草も置かずに15の石を七、五、三に置いています。このことから「七・五・三の庭」といわれています。また「都林泉名勝図会」では「虎の子渡し」の庭と記しているそうです。

 江戸時代には寺領720石、塔頭21に及びましたが寛政年間(1789-1801)に焼失してしまい今は3院のみということです。



北野天満宮
きたのてんまんぐう
京都市上京区御前通今出川上ル馬喰町
 北野天満宮は菅原道真公をお祀りした神社の宗祀です。道真は平安時代の学者で右大臣という要職についていましたが九州の太宰府に左遷され2年後に亡くなっています。
 その後、天災、疫病などが続いたため平安時代中期多治比文子らによって祀ったのが始まりだといわれています。今では学問の神として慕われています。
 社殿は昔から、朝廷及び将軍家がその造営修繕に当たられました。国宝の指定を受ける現在の本殿は慶長12年(1607)、豊臣秀頼が造営されたもので、この時作られた中門、東門、絵馬堂、神楽殿、校倉等も現存しています。
 重要文化財「三光門」(中門) です。
 後西天皇御宸筆『天満宮』の勃額を掲げてあります。豊富な彫刻の中に日月星があるから三光門の名がついています。
 永延元年(987)一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ「北野天満宮天神」の神号を得ました。
 絵馬所には算額等の絵馬が多数奉納されています。
 古来、神社祭祀は庭上で行われて来ましたので、壮大な殿内で祭典を執行し得る当宮現社殿の出現は画期的なことでした。八棟造と称され、総面積約五百坪の雄大な桧皮葺屋根は威風堂々としています。
 国宝に指定されている本殿です。御祭神は菅原道真です。桃山建築の代表で絢爛豪華な桃山文化を今に伝えています。現在の社殿は、慶長12年(1607)に造営されたものです。
 入母屋造りの本殿と拝殿が平行に石の間で結んでいます。拝殿の左右に楽の間を設けている八棟造です。いずれも国宝に指定されている建物です。



平野大社
ひらのたいしゃ
京都市北区平野宮本町1
 桓武天皇が和気清麻呂の助言で平安遷都した794年に大和国から移され創られた由緒正しき社です。境内には約60種500本もの桜が咲き乱れます。珍種の桜も多いそうです。
 鳥居を通れば猿田彦社 稲荷社が赤い鳥居で建つ 舞殿が正面に次に拝殿があります。本殿は「平野造り」といって、2殿ごとに結合した特殊な造りで重要文化財に指定されています。
 第一殿に祀られている今木神(いまきのかみ)は桓武天皇の生母で百済系の高野新笠(たかののにいがさ)の粗神で大和国高市郡今木神を延暦3年(784)長岡遷都のときに移し、次いで平安遷都後ここに移したそうです。
 皇室の尊敬あつく土地も寄進されましたが、中世は衰微し、江戸時代に幕府は75間四方の土地を与えた記録が残っているそうです。今は桜の名所で嵐山、円山公園、御室などと名前が出るところです。
 平野神社は高校駅伝、都道府県女子駅伝の1区中継所でもおなじみの所です。4月2日には例祭の平野祭があり、 4月10日には花山車の行列も出る桜花祭があります。これは花山天皇が寛和元年(985)に行った祭礼が起源とのことです。



建勲神社
たけいさおじんじゃ
京都市北区紫野北舟岡町49
 建勲神社は通称けんくんさんで親しまれています。御祭神は織田信長公です。船岡山に鎮座されている神社です。明治2年(1869)明治天皇により創建されました。
 信長公18功臣画像は拝殿に掲げられています。舟岡山頂に鎮座し、東山三十六峰や京都市街の眺望は絶景です。桜もきれいに咲いていましたが花見客はほとんどいませんでした。
 豊臣秀吉は大山崎にて明知光秀を打ち主君の無念を晴らしました。そして大徳寺にて七日間の盛大な法要をしたそうです。秀吉は正親町天皇の勅許を受け船岡山を信長の廟所と定めました。
 信長の他に信忠も祀っています。永禄11年(1568)の信長上洛の日にちなんで、10月19日に舟岡祭が催されます。



金閣寺(鹿苑寺)
きんかくじ(ろくおんじ)
京都市北区金閣寺町1
 鹿苑寺(ろくおんじ)と言う臨済宗の禅寺です。
 お釈迦様のお骨をまつった舎利殿(金閣)が特に有名なため、金閣寺とよばれています。この地は、鎌倉時代に西園寺公経の別荘北山第が在りましたが、足利三代将軍義満(よしみつ)が大変気に入り、応永四年(1397年)に西園寺家から譲り受け、山荘北山殿を造りました。
 金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に現したと言われ、後小松天皇をお招きしたり、又、中国との貿易を盛んにして文化の発展に努力した所で、この時代の文化を特に北山文化と言います。 
 義満の死後、遺言通り夢窓国師を開山(初代の住職)とし義満の法号鹿苑院殿から二字をとり、鹿苑寺と名づけられました。
 二層と三層は漆の上から純金の箔が張ってあります。屋根は椹の薄い板を何枚も重ねたこけら葺きです。屋根の上には中国で縁起がよいといわれる鳳凰が輝いています。  
 一層は寝殿造、二層は武家造、三層は中国風の禅宗仏殿造で、3つの様式を見事に調和させた室町時代の代表的な建築物です。
  金閣寺の庭園
 鏡湖池には大小の島々、奇岩名石が配されています。北方の山々西の衣笠山などを借景としたこの庭園は、室町期の代表的な傑作です。        



等持院
とうじいん
京都市北区等持院北町63
 足利尊氏は暦応2年(1341)現在の御池/柳馬場付近に等持寺を建立し夢窓疎石を迎えて開山しました。その後、等持院の別院として北等持寺をこの地に建立しました。
 尊氏の没後ここで葬儀を行いました。北等持寺は等持院と改名し、天竜寺末として夢窓門流相承の臨済宗天龍寺派の禅寺となりました。
 以後足利歴代将軍の廟所となって毎年7月15日に将軍が参詣する足利家の菩提寺となりました。応仁の乱で本寺が焼失後はこちらの等持院が本寺となったのです。
 方丈は後水尾天皇の元和2年(1616)に福島正則が妙心寺塔頭の方丈として建立した物を文政元年(1818)ここに移転再建したものです。廊下は鶯張り、襖絵は狩野興次のものです。
 霊光殿には弘法大師作と伝わる地蔵尊を本尊として、足利歴代の将軍13人の木像や石清水八幡宮豊蔵坊から遷した徳川家康の木造が祀られています。
 足利尊氏の墓もあり、京都で紅葉が一番早く色づくことでも知られています。文久2年(1863)尊王攘夷派の浪士が尊氏ら木像3体の首を抜き取って三条河原にさらしたという事件もありました。
 東庭は夢窓疎石の作庭といい、心字池を配した閑寂な庭。西庭には茶室清漣亭(せいれんてい)がひっそりと姿を見せ季節の花が彩りを添えます。この茶室は義政好みといわれ、上段一畳を貴人床、そこに坐して眺める庭の美しさは格別です。
 芙蓉池は天竜寺の曹源池とともに夢窓国師の名作の一つです。池全体が蓮形の形をなしていて中の島は蓬莱島です。


等持院撮影所跡
 1921年、マキノ省三が等持院境内に建設した京都唯一の寺内撮影所です。 マキノキネマは先駆的な時代劇映画を送りだすとともに、後の日本映画を支える人材を育成しました。 



妙 心 寺
みょうしんじ
京都府京都市右京区花園妙心寺町1
 正法山と号し臨済宗妙心寺派総本山です。康永元年(1342)花園天皇の離宮を禅寺に改めて創建されました。16万uの広大な寺域に、七堂伽藍を中心に47の塔頭寺院が立ち並んでいます。
 総門から一直線に山門、仏殿、法堂、寝殿、方丈、庫裏の大伽藍が並ぶ七堂伽藍です。山号は正法山(しょうぼうざん)と称します。開山は大徳寺の開山大燈国師の法嗣である関山慧玄(かんざんえげん)を招聘しました。
山門
 関山慧玄即ち開山無相大師は清楚闊達(かったつ)の名僧で形式的な読経や規則にとらわれず簡素なる禅風をうちたて人材の育成に努めました。
 五山の禅寺が詩文に重きをおいていましたが、五山十刹にも加えられなかった妙心寺がいわゆる林下として禅の正統を守り応燈関(大応図師・大燈国師・関山)の法系を維持しました。大師入定後も逸材傑僧輩出して、関山禅の宗風全国を風靡するにいたったのです。
仏殿堂と法堂
 そして妙心寺は3世無因宗因のとき大いに繁栄しました。その後幕府に背いて応永の乱を起こした大内義弘と関係が深かったため、3代将軍義満は寺地・寺領のすべてを没収し、住職拙堂宗朴は青蓮院に幽閉、寺は青蓮院の付属となってしまいました。
 その後大内・細川・今川・織田・武田諸氏の帰依を得て堂宇の建造も進み,永正年間(1504〜21)17世ケ林宗棟(とうりんそうとう)の力で大徳寺から独立し、五大派の衰退をよそに教線をのばして臨済宗の主流となりました。
仮涅槃堂(納骨堂)
 山門東の浴室(国重文)は明暦2年(1656)に,明智光秀の叔父密宗和尚が光秀追善のため建てた通称「明智風呂」を改装したもので,蒸風呂です。妙心寺鐘は国宝で、『徒然草』にもある天下の名鐘である。
重要文化財の明智風呂
 庫裏(国重文)は1653(承応2)年の建造で土間に6個の大竈が並んでいます。その北の鐘楼は春日局の建立で,入浴時刻を知らせる浴鐘があります。
大庫裏


妙心寺
天球院
てんきゅういん
京都市右京区花園妙心寺町46
 妙心寺塔頭のひとつです。寛永8年(1631)に、岡山藩主の池田光政が、伯母の天球院のために江山景巴(こうざんけいは)を開山として創建しました。池田家の菩提寺となりました。
 国の重要文化財に指定されている本堂付玄関は寛永12年(1635)の建築で入母屋造りです。玄関は唐破風造柿葺です。 狩野山楽、山雪父子の方丈障壁画152面は見事で、重文に指定されています。


妙心寺
麟祥院
りんしょういん
京都市右京区花園妙心寺町
 麟祥院は、徳川三代将軍家光が乳母、春日局の追善のために、寛永10年(1633)に創立した春日局の菩提寺です。麟祥院の住持は墨衣のまま江戸城白書院の出入りを許されたといわれています。
 麟祥院には春日局ゆかりの品々が大切に保存されています。また、春日局の養父「海北友松」ゆかりの品もある事でも有名です。春日局の父で明智光秀の家老、斉藤利三の晒された首を友松が奪い取って京都真如堂に手厚く葬ったことは有名です。


妙心寺
春光院
しゅんこういん
京都市右京区花園妙心寺町42
 妙心寺本坊の北西にあり妙心寺塔頭です。天正18年(1590)豊臣三中老のひとり堀尾吉晴が18才で戦死した長男金助の菩提を弔うために創建した寺です。堀尾、石川家の菩提所です。
 開祖は妙心寺113世猷景嘉でした。初め、俊巌院(しゅんげんいん)と号しましが、堀尾氏断絶後、姻戚の石川氏が檀越となり、1636年(寛永13)春光院と改称しました。重文の南蛮寺鐘があります。 


妙心寺
大通院
だいつういん
京都市右京区花園妙心寺町
 山内一豊の子、湘南宗化(しょうなんそうげ)が開山の南化玄興(なんげげんこう)の跡を継ぎ2世となり中興しました。この時 山内家の菩提寺となりました。都林泉名勝図絵に「当院の林泉は奇樹奇石多くして此塔中第一の名庭なり」と記されています。
 ここには山内一豊の墓があります。織田信長に仕え、信長の命により羽柴秀吉に仕えます。小牧・長久手の戦いや小田原の役の戦功により遠江国掛川五万石を領しました。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、家康より土佐一国を受け20万石を領しました。内助の功で有名です。


妙心寺
退蔵院
たいぞういん
京都市右京区花園妙心寺町35
 越前の豪族の波多野出雲守重通により応永11年(1404)に建立されました。妙心寺山内の塔頭です。重要文化財の方丈は慶長年間の建立で正面室中中央に桟唐戸を装置しないで仏間背面に長五畳の眠蔵をつくっていて古式の形です。
国宝の「瓢鮎図(ひょうねんず)」は如拙(じょせつ)が足利義持のために描いたもので室町時代の代表的絵画です。ひょうたんでなまずを押さえるという禅の公案(試験問題)を絵にあらわしたものです。



広隆寺
こうりゅうじ
京都市右京区太秦蜂岡32
 広隆寺は、真言宗の寺院です。推古天皇11年(603)建立の京都最古の寺で、「日本書紀」によれば、渡来氏族の秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から与えられた仏像を本尊にして創建したといわれています。
 国宝の弥勒菩薩像は国宝第1号に指定された弥勒菩薩半跏思惟像の仏像です。永遠の微笑をたたえて霊宝殿に安置されている。高さ124cm赤松の一本造りで新羅より聖徳太子へ贈られたものだそうです。
 広隆寺には、仏像だけでも国宝が17体、重要文化財が31体もあります。この寺は818年と1150年に火災にあって創建時の諸堂はことごとく失われました。それにもかかわらず、これだけ多くの仏像が残っているのです。
 南大門を入ると石畳が続いていて、その右手には赤堂と通称される講堂が、左手には薬師堂、能楽堂、地蔵堂が甍を並べています。石畳の正面には本堂の上宮王院(じょうぐうおういん)太子殿が建っています。
 重要文化財の広隆寺の講堂です。講堂内には国宝の講堂の本尊である阿弥陀如来座像(平安時代)、重要文化財の虚空蔵菩薩座像(平安時代)、地蔵菩薩座像などが安置されています。
 講堂の北には秦河勝を祀る太秦殿(太子堂)があり、その隣りに本堂の上宮王院太子殿があります。
 広隆寺には塔というものがありません。それぞれの堂宇も古代の寺院にありがちな肩苦しい様式で配置されていません。
 603年(推古11)11月聖徳太子は群臣を前にして、「私は尊い仏像を持っている。だれかこの仏を祀るものはいないか」と尋ねられました。
 そのとき秦河勝が「私が祀りましょう」と名乗り出で、仏像を拝領したそうです。そして、その仏像を祀るために建てた寺が、今の広隆寺の前身である蜂岡寺であったと日本書紀には載っています。
 「広隆寺縁起」には聖徳太子が秦河勝に次のような話をしたそうです。「私は昨夜、不思議な夢をみた。香ばしい香りに満ちた桂の林の中に大きな枯れ木があり、五百羅漢がその下に集まってお経を読んでいる。」
 「枯れ木からは大光明が放ち、羅漢の読経が微妙な声で仏法を説いているように聞こえ、まことに格別な霊地に思えた」と語ったのです。
 河勝は「その場所は我々が住む葛野(かどの)です」と答え、その場所へ聖徳太子を案内しました。そこでは、大きな桂の枯れ木の周りを無数の蜂が飛んでいて、その蜂の群は羅漢が説法しているように見えたのでした。
 そこで、仮の宮殿を造って楓野(かえでの)別宮となずけ、河勝に命じて蜂岡寺を建立させたというのです。楓野別宮は現在の桂宮院の当るということです。



大覚寺
だいかくじ
京都市右京区嵯峨大沢町4
 嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の総本山です。嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で天皇崩御の後の貞観18年(876)、嵯峨天皇の皇女、淳和天皇皇后が寺に改められ大覚寺と名付けられました。
 一時荒廃しましたが、鎌倉時代には後嵯峨、亀山天皇が入寺、徳治3年(1308)には後宇多天皇が入寺しここで院政をしき、嵯峨御所とも呼ばれました。ここに南朝の大覚寺統を形成されました。 
 皇室ゆかりの格式高い門跡寺院となり代々にわたり法親王が住持し格式を保ってきています。客殿と宸殿は重要文化財の指定されています。宸殿は後水尾上皇が寄進した宮中の建物で、狩野山楽筆の豪華な障壁画が有名です。
 北朝方の持明院統と皇位継承で争いました。明徳3年(1392)、ここの正寝殿にて南北両朝の講和が成立しました。
 大覚寺は門跡寺院らしく王朝風の伽藍が優美な姿を見せてくれます。御所のようなたたずまいは寝殿造りを思わせます。それらは回廊で結ばれていて雅やかです。
 回廊で結ばれた宸殿(しんでん)や御影堂などの御所風の建物に、武家風の明智門、明智陣屋が彩りを添えています。
 明智陣屋は門と同じく、亀山城の一部と伝えられています。切妻部分を正面とし、そこに瓦葺唐破風造りの差掛屋根を設け、玄関としています。内部は天井を張らず、大寸の丸太で梁組され、西屋根に煙だしが設けられています。
 式台玄関は正面に銅板葺きの唐破風を備えています。妻飾りは木連格子懸魚附きです。東福門院の女御御所、長局の一部と推定されています。
 玄関の部屋は「松の間」とよばれ、正面北側の広大な2面の壁貼付を中心として、西側の襖6面、東側襖4面にわたって豪華な金碧画の「松に山鳥図」が描かれている。狩野永保筆です。
 図様は正面の壁貼付2面に、老松の巨幹が根を張り山鳥のつがいが羽を休めています。松の左右には楓が1本ずつ配され、これが東西両側にも連続し、巨大な老松を浮き上がらせています。
 重要文化財に指定されている東の宸殿は入母屋造、檜皮葺(ひわだぶき)です。後水尾天皇の寄進で旧紫宸殿ではないかといわれています。
 宸殿の内部は壁画にちなんで牡丹、柳松、紅梅、鶴の4間があり、前には右近の橘と左近の梅があります。
 御影堂は心経前殿と呼ばれています。大正天皇即位式場に建てられた饗宴殿を式後賜り移築したものです。大正14年建造です。心経殿の前殿ですので心経殿を拝するため開けてあります。
 内陣の左右に嵯峨天皇、秘鍵大師(弘法大師)、後宇多法皇、恒寂入道親王など大覚寺の歴史に大きな役割を果たされた方の像を安置しているのです。
 
 勅使門は嘉永年間(1848〜54)に再建されたものです。門は四脚門とし、屋根は切妻造り、正面および背面に軒唐破風をつけ、全体は素木造りですが唐破風の部分だけ漆を塗っています。
 大沢池です。嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたって、中国の洞庭湖を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれています。日本最古の人工の庭園です。池には天神島・菊ケ島と庭湖石があります。
 遠くの山並みは東山連峰です。正面の山は大文字山(如意ヶ岳)、左手前には朝原山(遍照寺山)が見えます。
 観月台からの仲秋の名月は有名です。
 松尾芭蕉は次のように詠んでいます。
 名月や 池をめぐりて 夜もすがら
 重要文化財の正寝殿です。宮中から移築された桃山時代様式の書院造りの建物です。ここには12の部屋があります。
 上段の「御冠(おかんむり)の間」は13世紀の後半、鎌倉時代に後宇多法皇が上皇として院政を執られた御座所です。
 またこの場所は明徳3年(1392)室町時代の初め、南北朝争乱を治めるために南朝の後亀山天皇とと北朝の後小松天皇によって講和が成立したところでもあるそうです。



清涼寺
せいりょうじ
京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
 「嵯峨の釈迦堂さん」の愛称で親しまれる浄土宗の寺です。浄土宗の元祖法然上人が、24歳の時に人々を救う仏教を求めて、同寺の釈尊像の前に7日間籠ったという由緒ある寺院なのです。
 仁王門から入った広い境内の参道正面に本堂があります。正面ひさし上に隠元筆の「栴壇瑞像(せんだんずいぞう)」の大額があります。みほとけは栴檀の香木を刻んだ生身の仏とされることからきています。。
 他に阿弥陀堂、一切経蔵、薬師寺、宝物館、弁天堂、狂言堂、聖徳太子殿、鐘楼、豊臣秀頼公首塚、多宝塔など多くの堂塔が建ちならんでいます。
 清涼寺の起源である棲霞観(せいかかん)は、源融が嵯峨天皇から仙洞(嵯峨院)の地所の一部を別荘として賜り、寺として建立したもので、寛平7年(895)、融の死後、遺族がこの地に御堂を建てたのが阿弥陀堂の始まりといわれています。
阿弥陀堂
 清涼寺は、平安貴族の源融の山荘地で、融の死後、寺に改め、棲霞寺とされたそうです。のちの寛和元年(985)、宋より帰朝した東大寺の僧「然(ちょうねん)が持ち帰った釈迦如来を、その境内に一宇を建てて安置したそうです。
 「然(ちょうねん)は清涼寺を創建しようとしていましたが果たさず亡くなりました。その後弟子の盛算がその志を継いで釈迦堂を建てたのが始まりとされています。
 棲霞寺は華厳宗でしたが、浄土信仰の振興につれて清凉寺の方が高名となり、現在、棲霞寺は阿弥陀堂にのみ名残をとどめています。
 本尊は国宝の木造釈迦如来立像でインド、中国、日本と三国伝来の釈迦如来といわれています。37歳のお釈迦様の生き姿をそのまま写したものであるということです。
清涼寺多宝塔
 昭和39年(1964)には像内納入品が発見されて国宝に指定されています。本堂左に薬師堂、その前に鐘楼があります。梵鐘は室町時代のものです。
 秀頼公首塚は1980年に大阪城の三の丸から出土した豊臣秀頼の首を1983年に納めたものだそうです。首に介錯の跡があったといわれています。



壇林寺
だんりんじ
京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町2-10
 嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子(壇林皇后)によって平安初期の786〜850年に創立された官寺です。一時は天龍寺一帯を占めた大寺でした。
 創建当時は十二坊の塔頭があったといわれ、中国から来朝した僧・義空を師としてこの寺で禅が唱え始められました。
氏の学問所学館院を設けたのもこの人であり、平安初期の文化や仏教に影響を与えました。その後廃絶し、その跡地に現在の天竜寺が建てられたのだそうです。
 現在のお寺は、壇林皇后をかたどったとされる准胝観音を本尊として、昭和39年建立されたもので元の「壇林寺」とはあまり関係がないようです。寺内には宝形造の本堂と宝物館があります。
 「壇林」は「栴檀の林」と言う意味で、転じて「僧が集って学問をする場所」「お寺」という意味になったようです。嘉智子は深く仏教を信仰したので、「壇林皇后」と呼ばれるようになったのだそうです。



祇王寺
ぎおうじ
京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32
 「平家物語」に名高い白拍子・祇王ゆかりのお寺です。祇王は平家物語に出てくる白拍子です。平清盛の寵愛を受けていた祇王は母の刀自(とじ)、妹の祇女(ぎにょ)と3人で裕福に暮らしていました。
 ところが自分が推薦した同じ白拍子の仏御前に清盛の寵を奪われてしまったのです。祇王は母と、妹の3人で嵯峨野の往生院に入って、尼となったのでした。
 後に仏御前も祇王を追い、4人の女性は念仏三昧の余生を過ごしたのです。往生院はこのあたりにあったのではないかと推測されています。
 庵の前には緑の苔むす庭があります。これが秋になると一変して真っ赤な散りモミジが絨毯のように敷き詰められそうです。竹林も見事でした。
 祇王寺は法然の弟子の念仏房良鎮(りょうちん)が創建したといわれています。本尊は大日如来です。 
 江戸末期までは寺は存在したのですが荒廃しました。明治28年(1895)、当時の府知事の北垣国道が茶室を寄進しました。
 この茶室を本堂として富岡鉄斎らが復興させたのです。本堂内には本尊、平清盛と4人の尼の木像を安置しています。
 右が清盛供養塔で左が祇王祇女の墓です。昭和9年(1934)新橋の名妓だった智照尼が庵主となり復興に尽くしました。




人形の家
にんぎょうのいえ
京都市右京区嵯峨鳥居本仏餉田町12
 嵯峨野の祇王寺の北にある人形の博物館です。日本の美の温もりを残す様々な種類の人形約20万の人形達と出会えるところです。



化野念仏寺
あだしのねんぶつじ
京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17
 念仏寺は華西山東漸院(かさいざんとうぜんいん)と号する浄土宗の寺です。化野は古来より死者を風葬する地で鳥辺山の煙とともに世の無常の象徴とされました。和歌では「化野の露」という人生の無常をあらわす枕詞に使われているほどです。
寺伝によれば弘法大師空海が弘仁年間(810-824)に小倉山寄りを金剛界、曼茶羅山寄りを胎蔵内と見立てて千体の石仏を埋め、中間の川の河原に五智山如来寺を建てて、野ざらしとなった屍を弔ったのがはじまりです。
 当初は真言宗でしたが、鎌倉時代の初期に法然の常念仏道場となり浄土宗に改められたということです。そして名も念仏寺となったそうです。
 正徳2年(1712)、黒田如水の外孫の寂道が本堂を再建したそうです。本尊は阿弥陀如来で、湛慶の作だということです。
 整然と並べられた8,000体もの石仏は三途の川をイメージさせます。徒然草にも 「あだし野の露消ゆることなく鳥辺野の烟立ち去らで」 と記されています。
 明治の中頃まではいたるところに無数の石仏が散乱していたそうです。風化してしまい顔の形もわからないような仏たちが石と同じように風雨にさらされていたのです。
 これらの無縁仏は明治中期にここ化野念仏寺に集められ、今のように並べて安置されました。これで浮ばれます。
 8月23、24日の地蔵盆には、無数の石仏、石塔にろうそくを灯す千灯供養が行われ、多くの参詣者で賑わうそうです。幻想的な風景だそうです。




二尊院
にそんいん
京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27
 二尊院は正しくは、小倉山二尊院華台寺といい、天台宗の寺院です。鎌倉時代に制作された「発遣(ほっけん)の釈迦」如来像と「来迎(らいごう)の阿弥陀」如来像の「二尊」の立像が祭られているので、「二尊院」と呼ばれるようになったそうです。



常寂光寺
じょうじゃくこうじ
京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3
 百人一首で知られる小倉山の中腹にある常寂光寺は日蓮宗の寺です。藤原定家の山荘、時雨亭があったところだそうです。
 茅葺きの仁王門が印象的です。そこをくぐると急な石段が山の斜面に沿って本堂へと続いています。
 江戸初期の商人で、熱心な日蓮信者であった角倉了以が可愛がっていた僧日禎(にってい)の隠居所として建てたものを、その門弟の日詔が寺に改めたそうです。
小早川秀秋らが堂宇の建立に寄与しました。そして2世の日詔(につしょう)はさらに整備したそうです。
 日蓮宗不受不施派本圀寺16世日禎は、豊臣秀吉の東山大仏の開眼千僧供養に出仕を拒否、この地に隠居したのでした。
 隠居所を寺に改め、土地が常寂光土の感があるとして「常寂光寺」としたそうです。
 本圀寺から移築された仁王門は南北朝時代の藁葺きの門で、京都屈指の紅葉の名所です。
 仁王門に至る参道わきに藤原定家の時雨亭跡碑があります。 
 坂を上った正面には伏見城の一部といわれる本堂があります。
 その上の多宝塔は元和6年(1620)の建立で、釈迦如来と多宝如来の両如来を本尊にしているので、並尊院という霊元天皇の勅額を掲げています。
 この多宝塔は国の重要文化財に指定されています。京の町衆辻藤兵衛尉の寄進したものだそうです。
 さらに上に行くと歌仙祠があります。定家、家隆、家康の木像が祀られています。



トロッコ電車嵐山
 JR山陰線(嵯峨野線)とトロッコ電車の線路があります。昔は右側のトロッコの線路が山陰線の線路であったが、真っ直ぐ小倉山の下を抜けるトンネルが出来たので、旧線路にトロッコの観光用電車を走らせています。
 



嵐山公園
あらしやまこうえん
京都市西京区嵐山上河原町
 嵐山は、標高375メートルの山で国の史跡・名勝に指定されています。もとは、対岸の小倉山と併せて小倉山と呼ばれていたそうです。
 「小倉山峯のもみぢ葉心あれば・・・」の歌でも知られるように古くから桜と紅葉の名所として有名なところです。
 山頂には、嵐山城の跡があり、通称元禄山の山頂から南へ少し下がった尾根に、礎石がわずかに残っています。
 管領細川政元の家臣で山城国守護代の香西元長がここを本拠とし、永正4年(1507年)6月に政元を暗殺したときも、ここから京都へ打って出て都の支配権を握りました。
 しかし8月の百々橋の合戦で敗れ討死しました。この知らせが嵯峨野に伝わると、日頃香西の酷使に甘んじていた農民が蜂起して嵐山城へ乱入し、留守居の武士を皆殺しにしたということです。
 村岡局(むらおかのつぼね)の座像です。村岡局は本名を津崎矩子(つざきのりこ)といい大覚寺門跡諸大夫の妹です。近衛家に仕えて村岡局と称しました。朝政を預かる近衛忠熙の信任が厚く、僧月照や西郷隆盛などとも親交を持っていました。
 安政の大獄で捕らえられましたが、30日の押しこめの後許されて京都へ帰り、直指庵(じきしあん)を再興し、ここで87才の生涯を終えました。江戸へ送られる道中で次の有名な和歌を詠みました。
 嬉しさを何に喩へむ 駿河なる富士の高嶺を 近く見つれば
 角倉了以(すみのくらりょうい)の像です。京都の豪商で金融業を営み、常寂光寺でも登場しました。慶長16年には鴨川に沿って二条から伏見に至る高瀬川を掘り、京都大坂間の物資運送に役立てました。




渡月橋
とげつきょう
 嵐山の代表的な風景は渡月橋です。平安時代初期に亀山上皇が「くまなき月の渡るに似る」と感想を語ったことから「渡月橋」と呼ばれるようになったそうです。
 橋の長さは155mあります。現在の橋は洪水で流されたあと昭和9年に竣工し、2001年3月にリニューアルされました。
 下を流れるのは大堰川です。上流は保津川、下流は桂川と呼ばれ、淀川に合流して大阪湾に注いでいます。江戸初期に角倉了以が渡月橋のすぐ上流に大きな「井堰」を築いて舟運の便を図ったので、この辺りを「大堰川」と呼ぶようになったそうです。
 仁明天皇の承和年間(834〜48年)の平安初期に道昌僧正が現在の渡月橋より200m上流の場所に橋を架けたそうです。この橋は葛野橋とか法輪寺橋ともいわれ天竜寺十景の一つに数えられていたそうです。
 天竜寺造営後、夢窓国師が更に大きな橋に架け替えましたが、応仁の乱で焼失したそうです。その後景徐という僧が勧進帳を作って橋を架けたのですが洪水で流失してしまったそうです。
 慶長年間(1596〜1615年に)嵯峨の富豪で度々登場する角倉了以が保津川を開き「井堰」を築いて舟運の便を図った時に現在の処に架け替えられのです。




美空ひばり館
みそらひばりかん
京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町
 国民的アイドルだった美空ひばりさんの記念館です。衣裳やアクセサリーなど1万点にものぼる資料が展示され、楽屋やショー劇場、自宅リビングにいたるまで再現されています。
 戦後40年間にわたり、日本の心を歌い続け、映画でも活躍、多くのファンを魅了した故美空ひばりさん。女性では初めて国民栄誉賞を受けました。



天竜寺
てんりゅうじ
京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
 天竜寺の勅使門です。桃山時代のものです。創建以来度々兵火に遭い古い建築はほとんど残っていませんが、勅使門は伏見城のものと伝えられています。
 天竜寺は、正式には霊亀山天竜資聖寺といい、臨済宗天龍寺派の大本山です。本尊は釈迦如来です。1994年に世界文化遺産に登録されました。
天竜寺中門
 暦応2年(1339)年8月に後醍醐天皇が吉野の行宮で没すると、夢窓疎石の勧めで足利尊氏は翌年4月亀山殿の旧地に寺院建立の工を起こしました。寺号は暦応の年号から暦応資聖禅寺と定めました。
 ところが延暦寺が暦の字の使用に反対したため、2年後天竜寺としました。そして夢窓疎石が院宣により開山しました。
 工事は戦乱による財政難などで遅れましたが、天竜寺船などの対明貿易の利益をあて康永元年(1342)10月に上棟式と執り行い、貞和元年(1345)8月に盛大な完成の式典を挙行できました。
 当時は京都五山の第2位でしたが、第1位の南禅寺が五山の上となったので至徳3年(1386)に五山の第1位となりました。
方丈
幕府の保護が厚く、元中4年(1387)の文書にと寺納米2402石、銭5721貰文、奉書のときは1720石であったと記されています。足利将軍家と夢窓門徒とともに順調に発展して15世紀前半に最盛期を迎えました。
 しかし、しだいに学問研究や詩文の述作に流れて禅風振るわなくなり、応仁の乱で寺は全焼してしまいます。さらに足利家の没落とともに衰退しました。
 江戸末期には元治の役で長洲藩の本陣となったため、その報復として薩摩藩の砲撃をうけ主要伽藍が焼失してしまいました。
 明治維新では廃仏毀釈で大きな打撃をうけ 明治10年(1887)25町歩が上地されました。明治2年(1869)滴水宜牧が、次いで峨山倡禎が復興に努め、1900年頃ほぼ現在の規模となったようです。
選佛場
 夢窓疎石が築いたといわれる広々とした回遊式の庭園は、景勝嵐山を借景にして曹源池を中心に置く借景庭園です。日本で初めて史跡・特別名勝に指定されました。
 法堂の天井に描かれた雲竜は明治の巨匠鈴木松年の作です。この時に使った日本最大の硯石が庭園内にあります。



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