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日本の旅
近畿・京都の旅          京都洛南

石清水八幡宮
いわしみずはちまんぐう
京都府八幡市八幡高坊30
 千年の昔、京から大和の長谷寺(はせでら)詣でをする女人たちは、かならずといっていいほど、男山(おとこやま)石清水八幡宮に立ち寄り、詣り、旅の無事を祈願しました。標高82メートルの神様の坐(いま)す山「男山」の中腹には霊泉“石清水”が涌き出ていて、その名に由来します。
 社号は明治初年に“男山八幡宮”と改称されましたが“石清水”の社号が創建以来の由緒深いものであるため、大正7年に再び“石清水八幡宮”と改称されたそうです。
 石清水八幡宮は「徒然草」にもでてきます。社殿は徳川家光の造営によるものです。
 社伝によると、859年(貞観元年)、九州の宇佐八幡宮に参籠した奈良の大安寺の僧行教が国家鎮護のため八幡大菩薩の神託を受け朝廷に奏上したので、朝廷は宇佐八幡に準じて平安京の西南裏鬼門にあたる男山に正殿・礼殿各3宇を造営し、翌年遷座が行われたとされています。 



長岡天満宮
ながおかてんまんぐう
長岡京市天神2-15-13
 菅原道真が愛した場所として有名です。現在の社殿(本殿、祝詞舎、透塀)は昭和16年に京都の平安神宮の社殿を移築したものです。
 正面朱塗りの拝殿は既存の拝殿を増改築したもので、平成10年秋の竣工です。太宰府では京の梅の木を歌に詠んだ道真ですが、樹齢百数十年のきりしまつつじが多数植えられており、その見事さは日本一といわれています。
 菅原道真が大宰府に左遷されるにあたり、「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残りを惜しまれました。道真自作の木像をお祀りしたのが創立であるといわれています。
 天神さんとして親しまれ、道真が腰を掛けたといわれる「見返り岩」が残り、見返り天神とも呼ばれています。 



光 明 寺
こうみょうじ
京都市長岡京市粟生西条ノ内26−1
 京都は北山、東山、西山と三方を山に囲まれています。その西山にあるのが光明寺です。 長岡京市栗生あることから世に「粟生光明寺」といわれ法然上人の廟所のある寺として浄土宗院中、最も重んじられています。
 熊谷次郎直実が建久9年(1198)に念仏三昧院を建立し開山しました。後に四条天皇により光明寺と命名されました。西山(せいざん)浄土宗の総本山です。法然が最初に念仏の教えを説いた寺で、「浄土門根元地」といわれています。
 モミジの寺として知られ、広大な境内を数百本のモミジが紅に染まり、参道の石畳はモミジで埋め尽くされます。通称「もみじ参道」には大勢の観光客が集まります。入口「総門」と門をくぐった「女人坂」の紅葉は見事です。境内に本堂、阿弥陀堂などが立ち並び回廊で結ばれていて独特の雰囲気をかもし出しています。
  参詣者の多くは緩やかな参道を御影堂の大屋根を見上げながら入ります。御影堂の中には法然上人自作と伝えられる「張り子の御影」と呼ばれる法然上人像があります。これは生母の手紙を張り合わせたものだそうです。
 堂内に安置する釈迦如来立像は、世に「類焼如来」といわれ、頬に焼け火箸で焼かれた傷跡が残っています。この類焼如来にまつわる伝説が、「弥陀次郎伝説」として残っています。
 巨椋池の一口の里に、行いの悪い漁師がいました。ある日、托鉢の僧が訪れましたが、焼け火箸を額にあて追い払ってしまいました。僧は怒ることもなく去っていきました。後をつけて行くと、粟生の光明寺に入ったそうです。中に僧の姿はなく、釈迦如来像の頬に焼け火箸の跡が残っていたというのです。
 光明寺の熊谷蓮生方子は源平一ノ谷の合戦で平敦盛の首をはねた熊谷次郎直実その人です。人を裏切り、手柄をたてることばかり考えていた自分の人生に怒りを覚え、むなしくなった直実は、法然上人を訪ねたのです。
 「蓮生一代事跡」によれば、直実の父・直貞と兄・直正は平忠盛によって殺されました。直実自身は忠盛の子・経盛の助言で助かりましたが、経盛の子・敦盛は、直実によって最後を遂げたそうです。
 始め平家方であった直実は石橋山の合戦で敗れた源頼朝を山中でみつけました。頼朝を栗の大木の空洞の中にかくまい、「ほや(やどり木)」を折って隠しました。頼朝を探しにきた平家軍は、空洞から二羽の鳩が飛び立ったので誰もいないと立ち去りました。これにより命を助けられた頼朝は、その後、直実に対し「ほやに向い鳩」の紋をおくったそうです。これが熊谷家の家紋なのです。
 寿永3年(1184)の「一の谷の合戦」で平敦盛を討った直実は、その敦盛の首を、青葉の笛とともに、屋島にいる敦盛の父・平経盛に送りました。「熊谷状」といわれ有名です。それに対する「経盛返状」と合わせ、当時の武人の鑑とされました。



寺 田 屋
てらだや
伏見区南浜町263
 ここは坂本龍馬の定宿でした。幕末に有馬新七ら9人の薩摩藩士が同士討ちをした寺田屋事件や坂本龍馬が襲撃されたところです。
 後に妻になるおりょうの気転で危機を脱したのは有名です。「維新は寺田屋の一室から生まれたり」と言われるように、この時代の歴史を語るときには欠かすことが出来ないところです。



伏見桃山城
ふしみももやまじょう
現在の城は、鉄筋コンクリート建てで、昭和39年に建てられたものだそうです。しかしテーマパーク伏見桃山城キャッスルランドは平成15年1月31日に閉園しましたので中には入れません。
 伏見桃山城は築城して直後の1596年7月13日に伏見地震によって倒壊しました。石垣などが倒れて500人あまりの死者がでたそうです。その後、木幡山に再建されましたが、関ヶ原の戦乱に巻き込まれて焼失し、さらにその後に再建されたのですが一国一城令によって廃城となったということです。



伏見稲荷大社
ふしみいなりたいしゃ
京都市伏見区深草薮之内町68
 お稲荷さんの愛称でもっとも京都人に馴染み深いお神社のひとつです。商売繁盛・五穀豊穣・開運の守護神として古くから庶民の信仰を集め、全国約3万から4万近くある稲荷神社の総本社です。
 ふだんから参詣人の絶えない社ですが、特にお正月には商 売繁盛を願ってたくさんの人が初詣に訪れます。大鳥居を抜けると絢爛とそそり立つ桜門、そして檜皮葺きの本殿、権殿など重厚な社殿が並んでいます。 
 稲荷山山腹には千本鳥居と呼ばれる鳥居のトンネルがあり、目にも鮮やかな朱色の鳥居は道なりに延々と続き、驚くばかりに華やかで稲荷山上まで約1万本も続いています。
 ここを抜けて、小祠や塚を巡拝する「お山めぐり」は約4kmの道のり、その辻々には昔ながらの茶店があって、参拝者の休憩所となっています。 



勧 修 寺
かじゅうじ
山科区勧修寺仁王堂町27-6
 真言宗山階派の大本山です。昌泰三年(900年)、醍醐天皇は生母の菩提を弔うため、生母の里であった寺を御願寺と定め、外祖父藤原高藤の諡号をとって、勧修寺と号されました。本堂は江戸時代に霊元天皇より仮内侍所を賜って造られたとされ、千手観音像をまつってあります。
 天皇家、藤原家の帰依のもと、代々の法親王が相次いで入寺され、門跡寺院として繁栄しましたが、まもなく衰え、徳川氏の時代、寺領寄進などにより再興されました。
 庭園は氷室池を中心として、まわりの山々の景色も取り入れた池泉回遊式庭園です。平安時代には、この池に張る氷の厚さでその年の農作物の豊凶が占われたそうです
 寝殿作り風の宸殿や、江戸初期書院作りの典型とされる書院(重文)は元禄十年(1697)に、明正天皇の旧殿を外賜されたものです。前庭には水戸光圀が寄進したという、背が低く大きな笠を乗せた「勧修寺形」の灯籠があり、針状の葉をもつ樹齢750年のハイビャクシンが広がります。



随 心 院
ずいしんいん
京都市山科区小野御霊町35
 伏見の欣浄寺に住んでいた深草少将が小野小町の元に百日通った所が、この随心院の場所です。今の「小町化粧の井戸」の辺りだそうです。 
この地に語り伝えられる百夜通(ももよがよい)の話は悲哀にみちています。深草少将は小町を慕って、小野の里に雨の夜も雪の夜も通い続けました。九十九日目の夜、降る雪と発病により最後の一夜を前に世を去ったのです。この時、小町は榧(かや)の実にて、数を取り、後に小野の里に播いたといわれています。
 夢にしか会えない人を思い、多くの夢の歌を残し、後世六歌仙の第一人者と評され、小倉百人一首の「花の色は  うつりにけりな   いたづらに  わが身世にふる  ながめせしまに」 と哀愁に富み、情熱的な歌は、華やかな盛艶時代を想い、人生のはかなさを歌ったのは、あまりにも有名であります。
 小野小町の屋敷後に残る井戸で小町が朝夕この水で化粧をこらしたと「都名所図絵」に記されています
  文塚
 本堂裏の竹やぶの中にあり、深草少将をはじめ当時の貴公子たちから小町に寄せられた千束の手紙を埋めたところと伝えられています。五つの球体を重ねたユニークな形の石塔です。
 萱葺の屋根の下に年代ものの直径1mほどの榧(かや)の木の幹が横たわっています。深草少将が百夜通いの折に小野小町のところに日ごと榧(かや)の実を置いてきました。99夜目に、後1夜残して亡くなってしまいます。
 小町は後に供養のため、榧の実を小野の里に蒔きました。この幹が成長したその榧の木だそうです。



醍 醐 寺
だいごじ
伏見区醍醐東大路町22
 醍醐山全山を寺域とする京都屈指の大規模寺院です。真言宗醍醐派の総本山で全国に1000もの末寺を持っています。
 貞観16年(874)に修験道中興の祖である理源大師(りげんたいし)が開きました。伽藍は山上の上醍醐と山下の下醍醐に分かれ、80余の堂塔が立っています。
 国宝、重要文化財などの指定文化財を多数擁し、世界文化遺産にも登録されています。国宝の金堂は和歌山の満願寺にあった建物で、豊臣秀吉によって移築されたものだそうです。
 醍醐寺はあまりにも広いので醍醐山の山上の上醍醐と、裾野の下醍醐に分けられます。下醍醐には京都府内最古の木造建築と言われる国宝の五重塔が有名です。醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工、村上天皇の天歴5年(951年)に完成しました。 
 京都府下最古の建造物で内部の壁画は、日本密教絵画の源流をなすものといわれています。
 桃山時代、秀吉が花見の宴を催すために醍醐寺の再興に力を注ぎました。花見の準備に約一年かけ、当日まで桜を植えたといいます。




萬 福 寺
まんぷくじ
宇治市五ヶ庄三番割34
 隠元豆でよく知られる中国、明の高僧隠元禅師は後水尾法皇や徳川家綱の尊崇を得て、寛文元年(1661年)ここ宇治に中国風の寺院を創りました。日本三禅宗の一つ黄檗宗の大本山です。
 中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置は、その後の変遷にも変えることなく、創建当初の姿をそのまま伝える日本唯一の遺構です。
 中国風の仏像、天王殿に座す太鼓腹の布袋さん、斎堂前の魚ホウ、卍くずしの勾欄など、いたるところに異国っぽさが感じられます。
  重要文化財も多く、「明朝体」の源流となる黄檗鉄眼版一切経版木などもあります。
 寺の裏側には京都華僑霊園があります。



平等院 鳳凰堂
びょうどういん ほうおうどう
宇治市宇治蓮華116
 平安時代後期(1052)、宇治関白藤原頼通によって建立されました。極楽浄土を再現し多くの堂舎が整備されていた平等院ですが、1336年の足利・楠の合戦によりほとんどが焼失してしまいました。現在は鳳凰堂、観音堂、鐘楼のみが残っています。創建当時のまま残っているのは、天喜元年(1053)建立された阿弥陀堂だけです。 
 三井寺にあった平等院という寺名を、平安時代に移したのがはじまりです。宇治平等院はもともと藤原頼通が父・道長の別荘を寺に改めたものです。道長は源融の別荘を譲り受けたものだといわれています。本尊の阿弥陀如来座像をはじめ、52体の雲中供養菩薩像、建物すべてが国宝です。1994年、世界遺産に登録されました。
 鳳凰堂と呼ばれているのは本堂の形が羽を広げて飛び立とうとしている鳳凰に似ているという説と、大棟に鳳凰を乗せているという説があります。鳳凰堂(国宝)には仏師・定朝作の阿弥陀如来像が安置され、雲中供養菩薩像が長押の上で、雲に乗って音楽を奏しています。壁扉画と、日本三名鐘のひとつといわれる梵鐘ともに国宝です。
  堂内にある木彫の阿弥陀如来像(定朝作)は見事なもので、1つの巨木を彫りあげたものです。お顔の真正面の部分の壁は格子状になっていますが、池を隔てて向こう側から顔を拝むことができます。
 壁面に施されている雲中供養菩薩(雲に乗った菩薩で、あるものは歌ったり踊っていたりしています)は52体ありますが、その1つ1つが国宝です。


扇之芝
  治承4年(1180)5月26日、源頼政は高倉宮以仁王を奉じて平家打倒に立ち上がり、平智盛の大軍を宇治川に迎え撃ちました。しかし戦利なく、流れ矢に傷ついた頼政は軍扇を開き 「埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞ哀れなりける」 と辞世の一首を残し、この地で自刃したと伝えられています。


不動堂
 最勝院の不動堂脇には源頼政の墓があります。三位に叙せられた後に後白河法皇の皇子、以仁王(もちひとおう)を奉じて平家打倒の兵をあげますが、宇治橋の合戦で兜をも捨てて奮戦しますが敗れ、平等院で自害したと伝わります。
 三位の位に叙せられると云う異例の出世を遂げたことから「源三位頼政」とも呼ばれているそうです。



宇治川
 源氏物語「宇治十帖」は宇治川近辺が舞台となった最後の十帖の物語です。
 浮舟(うきふね)は薫に連れられて宇治に移りますが、匂宮(におうのみや)は浮舟の居場所を探り出し宇治を訪れます。そして、二人はともに小舟で橘の小島へ渡ったのでした。



宇治十帖モニュメント
 宇治川右岸の朝霧橋のたもとにあり、源氏物語「宇治十帖」の古跡全体を象徴するモニュメントです。ヒロイン浮舟と匂宮が小舟で宇治川に漕ぎ出す有名な情景をモチーフとしています。近くには源氏物語ミュージアムもあります。



宇治神社
うじじんじゃ
宇治市宇治山田1
 宇治橋東詰の上流、朱色の朝霧橋たもとの鳥居をくぐると、応神天皇の皇子で、宇治十帖の八宮(はちのみや)のモデルとも言われている「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)」の邸宅跡と考えられていて、皇子の亡くなった後、邸宅跡にその霊を祭ったのが宇治神社の起こりといわれています。
 古くは離宮明神・離宮八幡とも呼ばれ、明治維新までは、離宮下社と呼ばれていました。明治維新までは宇治神社とその東奥に位置する宇治上(うじかみ)神社は一対の関係でした。
 本殿は三間社流造り桧皮葺きの社殿で、鎌倉時代初期の建築です。内殿には菟道稚郎子の木造等身大坐像がお祀りしてあります。いずれも国の重要文化財に指定されています。



宇治上神社
うじがみじんじゃ
宇治市宇治山田59
 1994年12月に、「古都京都の文化財」のひとつとして、ユネスコの世界遺産に登録されました。明治時代までは、隣接の宇治神社と二社一体で「離宮上社(りくうかみしゃ)」と呼ばれていました。
 社殿は徳川三代将軍家光の造営になるもので、本殿をはじめ建物全てを丹漆塗で施し、随所に当時の名匠の彫刻が刻まれています。本殿は正面一間の流造の内殿3棟を並立させそれを流造の覆屋根で覆った特殊な形式となっています。
 境内正面の拝殿(国宝)は鎌倉初頭のもので、寝殿造りの様式を伝えています。特に縋破風(すがるはふ)といわれる手法を用いた屋根の美しさは格別です。
 飾り気のない質素で素朴な本殿は平安時代後期に建てられた、現存するわが国最古の神社建築です。この建築様式は藤原時代の一間社流れ造りと呼ばれ、日本最古の神社建築として国宝に指定されています。 
宇治上神社(うじがみじんじゃ)は,平安時代に平等院が建立されるとその鎮守社となり,その後,近在住民の崇敬を集めて,社殿が維持されてきました。境内にはその他、春日神社(重要文化財)などの摂社があります。
 宇治七名水のひとつ「桐原水」です。他の六名水が全て失われた現在、現存する唯一の湧き水です。
 O157事件のあと、飲用しないように注意書きが出されました。



放生院
 鎌倉時代に、奈良西大寺の叡尊が宇治橋の架替えの際に行った橋供養のときに建立されたと考えられています。
 本堂にはともに国の重要文化財である本尊の地蔵菩薩像と不動明王像が祭られています。



三室戸寺
みむろとじ
宇治市菟道滋賀谷21
 三室戸寺(みむろとじ)は明星山と号する修験宗のお寺です。もとは天台宗寺門派(三井寺)に属し、宝亀年間の770ー781年に光仁天皇の勅願により創建されたと伝えられています。
 康和年間の1099ー1104年に園城寺の修験僧隆明(りゅうめい)によって中興されたようです。
 文明11年(1479)日野富子の宇治明神参拝につき、その路次掃除に関し宇治の橋寺と争って堂塔が焼失したそうです。再興後も槇島合戦で信長に焼かれ衰退したそうです。
 中世以降、西国三十三所巡礼が庶民の間に広がったのに伴い第十番札所として定着し、今もなお、巡礼姿の参拝客をよく見かけます。


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