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大原寂光院
おおはらじゃっこういん
京都市左京区大原草生町676
 寂光院の名で知られていますが、詳しくは清香山玉泉寺寂光院です。歴史が古く聖徳太子が推古2(593)年に用明天皇の菩提のために建てたと伝えられています。
 壇浦の戦で破れ都に戻った平清盛の娘で安徳天皇の生母の建礼門院が出家して住んだ事で知られています。また建礼門院に仕えた阿波内侍が、里人の貢ぎ物の夏野菜を一緒に漬け込んだのが「しば漬」だということです。
 本殿は16〜17世紀、片桐且元が淀君の命により再建したもので、本尊の地蔵菩薩は重要文化財に指定されています。本尊は六万体腹竜りの地蔵菩薩で聖徳太子の御作と伝えられています。本堂は焼失し、平成17年に復元完成予定です。
 大原の山里に、まだ時の権力者であった後白河法皇が、建礼門院を訪ねられたのが平家物語の「大原御幸」の段で出てきます。これで 寂光院は一躍有名になりました。 



三千院
さんぜんいん
京都市左京区大原来迎院町540
 「京都大原三千院 恋に疲れた女がひとり〜 ♪」で大ヒットした三千院です。洛北大原にある有名な三千院は、伝教大師・最澄が比叡山の東塔にあった梨の木の下に一院を開いたのが始まりとされています。
 平安初期、慈覚大師円仁が天台声明の根本道場として魚山大原寺を開いて以来、三千院のある大原の地は、比叡山を取り囲む天台仏教の中心地のひとつとなりました。
 三千院は別名を「梶井門跡」「梨本門跡」「円融院門跡」とも呼ばれる「天台宗五箇室門跡」のひとつです。平安時代後期以降は、皇族の僧が住んでいたそうで、優美な雰囲気です。
 958年に建てられた本堂の往生極楽院には弥陀の来迎を表わす阿弥陀三尊の座像があります。重要文化財にも指定されていて穏やかな面持ちで来訪者を出迎えてくれます。
 妙法院、青蓮院と並ぶ天台宗三門跡の一つでもあり、最澄ゆかりの寺として有名です。後ろには小野山がひかえ、四方はまるで城のように高い石垣に囲まれています。杉の並木が境内を包んでいます。
 三千院内には「有清園」「聚碧園」の二つの地泉回遊式庭園が造られていてしっとりとしたたたずまいをみせています。「あじさい苑」のアジサイ、「有清園」のシャクナゲは人気です。



金福寺
こんぷくじ
京都市左京区一乗寺才形町20
 佛日山金福寺は貞観6年(864)に慈覚大師が自作の聖観音菩薩の像を祀り創建されました。。天台宗のお寺でしたが江戸時代に鉄舟和尚が再興して臨済宗南禅寺派の寺になりました。その頃に松尾芭蕉がたびたび訪れた縁で境内の後丘の庵を芭蕉庵と言われるようになりました。
 芭蕉庵はその後荒廃しました。その後、与謝蕪村が庵を再興しました。寺には今も蕪村の墓があります。この寺は観音の霊場で、俳諧の聖地ともいわれています。
 金福寺は、舟橋聖一の「花の生涯」で紹介された、幕末の安政の大獄で幕府のスパイとして活躍した村山たか女が「妙寿尼」という尼として過ごした隠棲地でもありました。
 安政5年(1858)、44才の井伊直弼は大老になり将軍家跡継ぎと日米修好通商条約をめぐり反対派への弾圧を開始した時、たかは長野主善とともに直弼の手足となりました。その後捕らえられ「生きさらし」の刑で三条大橋の橋柱に縛り付けられたのです。



西本願寺北山別院
にしほんがんじきたやまべついん
 詩仙堂の南側に西本願寺の北山別院があります。建仁元年(1201)、浄土真宗の開山僧である親鸞上人が比叡山より京都鳥丸の六角堂(頂法寺)の救世観音に百カ日の参籠を始めました。
 毎朝、比叡山からの往きには、ここ北山別院で親鸞は身体を清め、帰りには暫し休憩の後わらじのひもを締め直して雲母坂の険路に向かったといわれています。
参籠を始めて95日日の明け方、親賛は聖徳太子から「菩提の道」を示され、六角堂を出ました。そしてその後、親鸞は比叡山へは戻らず、法然の吉水庵へ行ったのでした。
 29才の親鸞が愛用した御聖水は今でも湧き出ています。北山別院の山号聖水山も聖人を偲んでつけられたものだそうです。
 「病患(わずらい)も またご縁なり 法の道」



一乗下り松
京都市左京区一乗寺松原町1
 一乗寺山は八大神社、詩仙堂、西本願寺の北山別院、金福院に囲まれた高台を言います。この「下り松」は、京の都から比叡山延暦寺や滋賀の坂本への道しるべとして植えられたもので、「保元物語」や「平家物語」にも出てくる古いものです。
 一の谷の戦いで戦死した平敦盛の遺児がこの松に捨てられていたのを法然が拾い育てて僧にしたという話、楠正成がここで足利尊氏の軍勢を向かえたという話など残っています。宮本武蔵と吉岡清十郎一門が決闘した所として有名です。一説には決闘したのは一条通の西端の「北野の七本松」で、そこも「一乗下り松」と称されていたということです。



八大神社
はちだいじんじゃ
京都市左京区一乗寺
 詩仙堂の山手(東側)に八大神社があります。鎌倉時代の永仁年間に勧請された由緒ある古社です。この神社は「北の祇園さん」と呼ばれて親しまれています。祇園・八坂神社と同じ牛頭(ごず)天王が奉られているからです。
皇居守護神の一社で都の表鬼門にあたり、方除・厄除・縁結び・学業の神として有名でした。宮本武蔵悟りの地といわれ、宮本武蔵が「下り松」で決闘する前に参拝したことで有名です。
 決闘した当時の一乗下り松(八大神社境内内)の古木です。慶長9年(1604)、21才の宮本武蔵が吉岡一門と戦いました。
 岐阜県本巣郡根尾村の天然記念物「淡墨桜」(うすずみざくら)も植えられていました。



野仏庵
京都市左京区一乗寺葉山町15-3
 お地蔵さんの多い京都の中でも、一乗寺界隈は「野仏」の多い場所です。上田秋成ゆかりの茶室もあり、たくさんの野仏が庭に並ぶ庵です。
 この長屋門は西園寺公望が新撰組に追われ隠遁地丹波にあったものをここに移築したものだそうです。 



詩仙堂(丈山寺)
しせんどう(じょうざんじ)
京都市左京区一乗寺門口町27
 漢詩の大家、煎茶の開祖として知られる石川丈山が寛永18年(1641)に造営しました。晩年の31年間をここで過ごし、90年の長い生涯を閉じました。徳川家康の家臣でしたが放遂され文人の世界に入った人です。
 狩野探幽に描かせた中国の詩仙三十六人の肖像と詩があることから、いつからか詩仙堂と呼ばれるようになりました。
  快い竹の音をひびかせる「ししおどし」は実は丈山が考案したものだといわれています。この「ししおどし」の音が響き渡る唐様庭園も見事です。
 回遊式の庭は白砂とさつきの刈り込みが美しく、藤、花菖蒲、杜若、紫陽花、萩、山茶花など、四季それぞれに美しい花姿が見られるそうです。
 石川丈山は三河の国碧海郡(へつかいぐん)(今の安城市)の出身で大阪夏の陣の時に家康の幕下として参加していました。ところが禁令を犯して先登したために処罰されてしまったそうです。
 その後、丈山は武士をやめて相国寺に入ったそうです。まもなく藤堂家に、のちに母を養うために広島の浅野家に10年ほど仕官し、母が亡くなると隠棲しここに落ち着いたそうです。
 生涯妻をめとらず、風雅の士とのみ交わったそうです。林羅山と親交があり、のちに羅山の仲介で藤原惺窩(せいか)に師事したそうです。詩も書も深草の元政上人と双璧をなし当代一流だったそうです。
 詩は唐詩、書は隷書に優れ、徹底した中国趣味を持ち、隠逸の風は後世に多大な影響を与えたということです。



圓光寺
えんこうじ
京都市左京区一乗寺小谷町13
 瑞巌山圓光寺は慶長6年(1601)、徳川家康が教学のために、足利学校の僧、閑室元佶(かんしつげんきつ)を招いて伏見に建立し、圓光寺学校としたのが起こりです。この足利学校の京分校で儒学を中心に武士や僧侶の教育をしたのです。
 将軍の家康が多くの文献や木製の活字を寄付し教科書となるたくさんの本が印刷されました。出版文化史上、非常に大切なものである最古の木製活字約5万字(重要文化財)の一部を見学できます。
 庭園は洛北ではもっとも古いとされる栖龍池(せいりゅうち)があり、十牛の庭と名づけられています。圓光寺には、村山たか女のお墓があります。
 村山たか女、石川丈山などの厄介者を受け入れる反骨の風土がここにはあります。徳川幕府は、土着の渡辺氏の動静を観察するため詩仙堂の北に圓光寺を開山させたともとられています。



曼殊院
まんしゅいん
京都市左京区一乗寺竹ノ内町42
 延暦年間(782年〜806年)最澄が比叡山上に一宇を設け、天慶年間(938年〜947年)に是算が西塔北谷に移し、東尾坊と号したのが始まりです。天暦元年(945)に門跡寺院となりました。
曼殊院天満宮境内 曼殊院天満宮
 平安後期の天仁年間(1108年〜1110年)忠尋のとき曼殊院と名を改めました。後に北山へ移り、その後足利義満が御所のそばに移し、文明年間(1469年〜1487年)のとき伏見宮貞常親王の子慈雲法親王が入寺し門跡寺院となり、以後竹内門跡と称されるようになりました。
 現在地に移ったのは江戸初期の明暦2年(1656)で、桂離宮を造営した八条宮智仁親王の次男、良尚法親王が住持となったときだそうです。そのため桂離宮の美意識が息づく江戸時代初期の代表的な書院建築です。
 豊臣、徳川の援助を受けつつも、桃山文化の華やかさを皇族流に洗練させた芸術がこの時代に花開いたようです。また良尚法親王は正保3年(1646)天台座主となったなかなかの人物だったそうです。
 虎の間、大書院、小書院、庫裡は重要文化財に指定されています。建築、庭園ともに創意に満ち、狩野永徳や探幽の襖絵があり、欄間、釘隠し、襖の引手など細部の意匠にも美意識が宿っています。
 重要文化財に指定されている庫裏の奧に玄関があります。虎の間、孔雀の間、竹の間へと続きますが、虎の間には狩野永徳筆の紙本金地著色竹虎図(重文・桃山)の障壁画があります。
 重要文化財の本堂は、寄棟造りで、柿葺きの大書院という独自の様式で、小書院はさらに凝っていて曼殊院棚と呼ばれる違い棚がつけられています。
 重要文化財の大書院です。
 江戸時代初期の書院建築です。屋の仏間はもと書院の上段の間でしたが、明治初年、大書院西方にあった宸殿取り壊しのさい現在の場所に移築したものです。桂離宮の様式とよく似ているとのことです。
 「十雪の間」です。
 狩野探幽の筆です。違い棚の様式、用材ともに桂離宮と同じもので同時に作られたと見られています。
 遠州好みの枯山水の庭園です。
 庭の真に滝石があり、白砂の水が流れ出ています。滝の前の水分石から鶴島、亀島へ広がります。
 鶴島には樹齢400年の五葉松、その根元には良尚法親王の母からの贈り物の曼殊院型のキリシタン灯籠があります。
 禅的なものと王朝風のものが融合しています。総体的には公家風で極めて日本的で趣味豊かな良尚法親王の趣向を反映しているように見受けられます。



大徳寺
だいとくじ
京都市北区紫野大徳寺町
 重要文化財の大徳寺三門です。
 大徳寺最古の建造物です。応仁の乱で焼失後、一休が一層を再建しました。60年後千利休が二層に改修し利休木像を安置したため秀吉の逆鱗に触れ切腹させられました。
 元応元年(1319)大澄国師(宗峰妙超)が創建した禅寺です。花園・後醍醐両天皇の帰依を受け嘉暦元年(1326)に大徳寺と名付けられました。
 京都五山の上位に列せられましたが、足利氏の時代に入ると五山から除かれてしまいます。応仁の乱で焼失してしまいました。その後一休禅師が堺の豪商の援助を得て復興させました。
 茶の湯との関係も深く、千利休ら堺の茶人や茶の湯好きな大名などが次々に帰依しました。塔頭が建立され大いに隆盛しました。境内は広大で南北一直線上に典型的禅宗伽藍が配置されています。
 築地塀に囲まれた中に22もの塔頭があります。方丈など国宝の堂宇にはじまり、枯山水の庭園や茶室などがあります。秀吉が信長の葬儀をここで執行したことでも有名です。



大徳寺
黄梅院
京都市北区紫野大徳寺町
 大徳寺塔頭のひとつです。通常は非公開です。永禄4年(1561)に春林宋俶によって創建された庵居黄梅庵が前身です。天正16年(1588)小早川隆景が建立しました。
 豊臣秀吉によって本堂・唐門、小早川隆景によって庫裏・表門を改築し、寺名を黄梅院と改めました。黄梅の名は中国黄梅県破頭山東禅寺よりとられたそうです。
 方丈は入母屋造り本瓦葺で、天正十年(1582)に豊臣秀吉によって建立されたもので、庫裏は現存する禅宗寺院としては最古のものだそうです。方丈造りの本堂(重文)は、桃山時代の建築様式をよく表わしているそうです。



大徳寺
高桐院
こうとういん
京都市北区紫野大徳寺町73-1
 高桐院は、細川忠興により、慶長6年(1601)に父の藤考(幽斎)の菩提所として建立された大徳寺塔頭のひとつです。細川忠興(三斎)は、利休七哲の一人として茶道家としても有名で、文武両道に秀でていたといわれています。
 客殿の西にある庭に建っている石灯篭が、三斎とガラシャ夫人(明智光秀の娘)の墓塔となっています。これはもともと利休秘蔵の灯篭でした。秀吉と三斎の二人から請われて、利休はわざと裏面三分の一を欠いて疵物と称して退けました。利休割腹の後、改めて三斎に遺贈されました。
 袈裟形のおつくばい
 この浄水盤は加藤清正公が朝鮮王城羅生門の礎石を持ち帰り、細川三斎に贈ったものです。三斎は、灯篭とともに愛用し熊本・江戸間の参勤交代にも持ち歩いていたといわれています。



大徳寺
瑞峯院
ずいほういん
京都市北区紫野大徳寺山内
 キリシタン大名の大友宗麟(そうりん)が天文4年(1535)に創建しました。臨済宗大徳寺の塔頭です。宗麟は自らの法名を以て瑞峯院と名付けたそうです。
 方丈は表門とともに創建当初の建物で、重用文化財に指定されています。方丈南の枯山水の独坐庭は、大刈込と巨石で表した蓬莱山から半島・小島に打ち寄せる荒波を砂紋で表現しています。
 中庭には茶庭があります。方丈北庭の庭園は閑眠庭といい、キリシタン燈籠を中心にした十字架の形の石組が残されています。境内には宗麟夫妻の墓もあります。



国立京都国際会議場
京都市左京区宝ヶ池
 国立京都国際会議場は京都洛北の美しい自然、そして緑と静かな環境に恵まれた国際的コンベンションセンターです。 京都駅地下の地下鉄烏丸(からすま)線の終点です。
 地球温暖化防止会議の時は連日世界中のプレスが押し掛け大変だったようです。緑を背に合掌造りをベースとした現代建築で主だった会議はここで開かれています。
 横にある宝ケ池公園は、大文字の五山送り火のうち「妙法」に抱かれるように広がる広大な公園です。特に池の向こうに広がる比叡山と京都国際会議場はなかなかの絶景です。


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