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高台寺
こうだいじ
京都市東山区高台寺下河原町526
 北の政所で有名なお寺です。慶長八年(1603)、北政所は後陽成天皇より、「高台院」の号を賜りました。北政所の兄家定は臨済宗建仁寺の塔頭常光院を改修建立されました。家定に触発された北政所は、寺院の建立に向けて動き出され号にちなんで高台寺と決められました。 
慶長10年、この動きを知った家康は、酒井忠世・土井利勝を高台寺造営御用掛、京都所司代板倉勝重を普請奉行、堀監物直政を普請掛に任じ、財を惜しまず協力したといわれています。
 北政所の存在を家康は非常に重要視しており、福島正則・加藤清正・浅野長政等の北政所の子飼いの大名たちも働いたようです。高台寺は、伏見城から運び込んだもの、北政所在世中に築き上げられたもの、その後追悼のために加えられたもので完成に至ったと考えられています。
 北政所は七十六歳で没されるまでここにお住まいになりました。翌年慶長11年、鷲峰山高台寺が落慶したそうです。度重なる火災の為、建物で現在残っているのは開山堂と霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等で、庭も度々改修されているようです。
高台寺の庭園は、小堀遠州の作と伝えられています。東山のなだらかな曲線を背景に、山裾の大地に広がっています。開山堂を正面に左右に二つの池があります。
 東側を臥龍池、西側を偃月池と呼んでいます。偃月池中央には、小方丈より開山堂へ渡る廊橋があり、中央に観月台が置かれています。偃月池の護岸は石組みで廻らされています。
 臥龍池の北東には滝石組みがあり、山裾の湧水をたたえた自然風の池で、東岸の山腹にはもみじが多く、紅葉ともなれば池に映ったその姿は見る人を圧倒します。池の北側には臥龍の廊下がかかり、霊屋へとつないでいます。その姿は、あたかも昇龍のごとくに見え、人工と自然との美しさがここに調和しています。



霊山観音
りょぜんかんのん
京都市東山区高台寺下河原町八坂鳥居前
 高台寺の南側、このような大きな仏像ですがうっかりすると見過ごしてしまいそうなのが、この「霊山観音」です。
 平和日本の建設と、殉国の英霊並びに大戦による犠牲者の冥福を祈念するために建立されたものだそうです。



世界遺産
清水寺
きよみずでら
京都市東山区清水1−294

 本堂(国宝)は寛永10年(1633)再建されました。清水寺本尊十一面千手観音を祀り、「大悲閣」ともいいます。
正面十一間(約36m)側面九間(約30m)高さ18mの堂々たる仏殿で、優美な起り 反り曲線を見せる寄棟造り・檜皮葺きの屋根や軒下に吊る蔀戸など、平安時代の宮殿、貴族の邸宅の面影を伝え、音羽山と見事に調和しています。
 堂内は巨大な丸柱の列によって外陣(礼堂)と内陣と内々陣に三分され、外陣内奥の正面欄間に本尊と両脇寺の懸仏(御正体)を掲げ、最奥の内々陣に本尊を祀っています。そして本尊南正面に懸造り・総檜板張りの「舞台」を錦雲渓に張り出しています。 
 清水寺の住職で歌人の月照と弟信海は幕末勤王僧として活躍しました。月照は西郷隆盛とともに薩摩に逃れ、入水自殺したことは有名です。
 奈良時代の末778年。大和・子島寺の延鎮上人が音羽の滝の行叡居士に逢い、霊木を授けられ観音像を彫造して、滝上の草庵に祀ったのが創建にあたります。
 そして間もなく、坂ノ上田村麻呂公が、滝の清水と上人の観音信仰に導かれて本堂を寄進建立し、御本尊十一面千手観音を安置しました。
 御本尊(秘仏)は、本堂に祀られ、"清水型観音"といわれる四十二臂の最上の両手を頭上にあげて化仏をいただく清水寺独特の観音像をしています。
 現在の建物の多くは、寛永8〜10(1631〜1633)年、徳川家光の寄進によって再建されたものです。



八坂神社
やさかじんじゃ
京都市東山区祇園町北側625
 八坂神社は「八坂さん」「祇園さん」の名で親しまれ、古くから厄除けの神さまとして有名です。花街の祇園がすぐそばにあるせいか、たたずまい、雰囲気とも艶やかで独特の香気をただよわせています。
 創建には諸説ありますが、上代に高麗からの帰化人・八坂氏が牛頭天王を祀ったのが初めという説もあります。八坂神社の祭神は、素戔嗚尊(すさのをのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱御子神(やはしらのみこかみ)です。
 斉明天皇2年(656)に素戔嗚尊を祀ったのが起源で、素戔嗚尊は祇園精舎の守護神である牛頭(ごず)天王と一体視され、長らく祇園社と呼ばれていました。明治初期に八坂神社と改称されたということです。。
 重文の本殿は祇園造りと言われる独特の形式で、1654年に再建されたものを平成14年(2002)に40年ぶりに修復しました。本殿の下に竜穴があり、神泉苑や東寺まで通じているという言い伝えも残っています。
 それほど広くはないが、四方に出入り口のある開放的な明るい境内です。全国各地に約三千もの分社を持っています。
 楼門には、蜘蛛の巣が張る事がなく、また雨だれの跡も付かないといわれています。八坂神社の七不思議のひとつです。重文の鳥居は石造のものとしてはわが国最大のものです。
 悪王子社
 悪王子の悪とは「強力」の意です。荒魂は現実に姿を顕わす霊験あらたかな神の意です。元は東洞院四条にあり、烏丸、四条京極を経て明治10年(1877)ここに移築したものです。
 美御前社(うつくしごぜんしゃ)
 美御前という名の通り美を象徴する神として祀られています。本社の祭神、素戔鳴尊が天照大神と誓約(うけい)をされた時、素戔鳴尊の持っていた十挙剣を振りすすいで生まれた三柱の女神で宗像三女神です。




円山公園
まるやまこうえん
京都市東山区円山町
 円山公園はもと安養寺(あんようじ)六坊や祇園感神院の坊舎などが維新の時に官収された跡地を政府の公園設置の太政官符により明治19年(1886)公園としたものです。
 円山安養寺にちなみ円山公園と命名されました。時宗の安養寺には塔頭に連阿弥、世阿弥、左阿弥など六阿弥坊があって湯茶のどを供し遊楽地になっていたそうです。
 歌枕の真葛ヶ原(まくずがはら)も取り入れて公園の面積は8万6641uです。明治時代は人工鉱泉療養所や貸席、旅館などが建ち並ぶ歓楽地でしたが何回かの火災で焼失しました。
 大正2年(1913)、平安神宮や無鄰菴などを手がけた七代目小川治兵衛によってすばらしい庭園に生まれ変わりました。治兵衛は東京の浜離宮などの作庭にも従事した人物です。
 今では桜の名所として大勢に人が見物に来ています。坂本龍馬、中岡慎太郎の像などもあります。
 なかでも樹齢約75年を誇る大樹「祇園枝垂桜」は堂々とした佇まいで皆の注目を浴びています。見頃になればライトアップされ夜桜の勇姿もみせてくれます。。



知恩院
ちおんいん
京都市東山区林下町400
 大晦日の除夜の鐘の放映でお馴染みのお寺です。地元では「ちおいんさん」と呼ばれていますが正式には華頂山大谷寺知恩教院といいます。華頂山(かちょうざん)の山裾に広がる浄土宗の総本山です。
 祇園の北側にある知恩院は法然がここで布教を始めたところでした。法然は美作国(岡山)の生まれで9才の時、父の漆間時国(うるまのときくに)が政敵に殺害され、臨終の遺言で15才で比叡山へ上り出家しました。
 法然房源空(げんくう)と称し「智恵第一の法然房」と讃えられました。その後念仏さえ唱えれば極楽に往生できると考え43才で下山してしまいます。
 文治2年(1186)、天台僧顕真(けんしん)に大原に招かれそこで行った大原談義で一躍有名になりました。九条兼実(かねざね)の求めで「選択本願念仏集」を撰述しました。
 これらの教えで後鳥羽上皇の女官、松虫と鈴虫が出家したため上皇が怒り、法然は土佐へ流されました。4年後京都に帰ってからは大谷の禅房、今の知恩院境内の勢至堂のあたりに居を構えました。
 建暦2年(1212)に浄土宗の開祖法然が没しました。弟子たちはその東側に廟を定めましたが延暦寺の襲撃を受けました。文暦2年(1234)に法然の弟子の勢観房源智上人が報恩のために伽藍を建立、念仏の根本道場の基礎を築き大谷寺としょうしました。
 知恩院は、応仁の乱 (1467−77) で焼失し一時、近江の伊香立 (いかだち)に難を避けました。乱のあと再興しました。
 大永3年(1523)、百万遍知恩寺と本山争いが起こりました。天正3年正親町(おおぎまち)天皇の綸旨(りんじ)で知恩院が本山と決定しました。
 信長、秀吉の援助を受けて復興に向かい、家康は徳川家の菩提所とし大伽藍の建造を発願、寺領700石を寄進して大小106棟の建物からなる現在の寺観を整えました。
 元和5年(1619)後陽成天皇の皇子八宮(はちのみや)を入寺させて(良純法親王)門跡寺院とさせました。寛永10年の火災でほとんどが焼失してしまいました。
 三代将軍・家光の尽力により伽藍が復興され、現在に至っています。いまでも東山屈指の寺院として威厳を保っている。
 三門は、二代将軍・秀忠の建立になるわが国最大の三門で、重要文化財に指定されています。この巨大な山門を入ると、徳川幕府が戦を想定して築いたとされる城郭のような造りの大伽藍が迎えてくれます。
 本堂は御影堂と呼ばれています。これも重要文化財です。中央須弥壇(しゅみだん)の厨子の中に法然の像を安置しています。
 比叡山で修行した法然は、平安時代末期この地に吉水の禅房を作り、四国配流から帰ると大谷禅房を結びました。そして浄土宗を開き、弟子を通じて教えを全国に広めたのです。
勢至堂
 法然上人が没すると弟子達が廟堂を建て祭りましたが、比叡山の迫害で、遺骸は西山光明寺で荼毘に付されたりしました。その後この地に建立されたのが勢至堂で、知恩院の始まりにあたる場所です。
 重要文化財の勢至堂は七間四面単層入母屋造り本瓦葺きです。享禄3年(1530)の再建で現在の知恩院では最古の建築物です。
法然上人御廟
 この廟所は慶弔18年(1613)に常陸の国土浦城主松平伊豆守の寄進です。宝形造本瓦葺、方三間の建物を唐門つきの玉垣でめぐらしています。
 重要文化財の知恩院経蔵です。
 江戸時代初期の元和7年(1621)に三門と同時期に徳川秀忠によって建てられました。内部中央には廻転できる八角形の輪蔵があり一切経5600余巻が漆塗りの箱に納められています。 
 大晦日に荘厳な除夜の鐘を京の街に響かせる日本一の大きさを誇る鐘楼、賊の侵入を防ぐために工夫されたとされる鶯張りの廊下などでも知られています。
 しだれ桜の名木「美幸」です。方丈庭園は背後の東山を借景にとりいれた名園です。大方丈の菊の間にある襖から雀が飛んでいったそうです。「抜け雀」は七不思議の一つになっています。



花園天皇陵
 花園天皇は、永仁5年(1297)、持明院統の伏見天皇の第2子として誕生し、12才で即位しました。12才から22才までの10年間在位しましたが実権は父の伏見上皇が握っていました。
 22才で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位して、自ら上皇となりました。皇室と北条・足利両政権をめぐる激動の時で、帝は殆ど政務に関与せずひたすら学芸に精進しました。 39才で法名を遍行と称し花園法皇といわれるようになりました。
 貞和4年(1348)花園法皇は52才の生涯を閉じました。正法山妙心禅寺は花園法皇を開基としています。花園天皇は、22年間の行状や生活の様子を繊細に記した日記「花園院宸記」を残されました。



青蓮院
しょうれんいん
京都市東山区粟田口三条坊町69-1
 粟田御所と呼ばれた青蓮院は、天台宗の格式高い門跡寺院で京都五箇室門跡の一つです。 五箇室とは、青蓮院門跡・妙法院門跡・三千院門跡・曼殊院門跡・毘沙門堂門跡の五ケ寺を指します。
 門跡寺院というのは、門主(住職)が皇室或いは摂関家によって受け継がれてきたお寺のことです。ですから気品あふれ上品で優しい雰囲気が漂っています。
 最澄が比叡山延暦寺を開きました。その時にお堂の他に僧侶の住まいの「坊」も建てました。そのひとつに青蓮坊というのがあり、それが青蓮院の始まりだといわれています。
 鳥羽法皇の皇子が現在地に殿舎を造営して門跡寺院としての青蓮院が誕生したようです。天明8年(1788)の御所火災の時に後桜町上皇の仮内裏となったことで「粟田御所」とも呼ばれました。
 青蓮院が最も隆盛を極めたのは第三代門主慈鎮和尚の時です。和尚は四度天台座主をつとめました。当時はまだ新興宗教であった浄土宗の法然や、浄土真宗の親鸞にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護したそうです。
 池泉回遊式の庭は足利時代の絵師・相阿弥が手がけたといわれる築山山泉水庭や、小堀遠州が手がけた霧島の庭などがあります。
青蓮院のクスノキ
12世紀末に親鸞が植えたと伝えられているが、クスノキが現在の境内の地割に沿って生育していることから青蓮院がここに移転した13世紀以降に植樹されたようです。



粟田口
あわたぐち
 粟田口とは三条通の白川橋より東、蹴上付近までまでの地名です。粟田氏が本拠として粟田郷と呼ばれていました。平安京の時は東国との交通の要所になり粟田口と呼ばれて、京都七口の一つに数えられました。平安末期には刀鍛冶が住み粟田口吉光らの名工が名作を残しました。



粟田神社
あわたじんじゃ
東山区粟田口鍛冶町1
 粟田神社は旧粟田口村の産土神です。貞観18年(876)、清和天皇が全国の諸神に疫病封じの祈祷の勅命を出した折、八坂神社で祈願をしていた勅使の夢枕に、大己貴神(オオナムチ)が現れました。
この地に素盞嗚尊(スサノヲノミコト)を祭神とする社を建てるようお告げがあったことから建てられました。また古代の粟田一族(大宝律令の撰定に参加した粟田朝臣真人などがその一族)を祀った神社との説もあります。
 旧社名は感神院新宮粟田天王宮でしたが、明治4年(1871)の神仏分離令に基づき神社に統合され「粟田神社」と改称されました。 
 境内からは京都市街や比叡山が一望できます。毎年8月16日に行なわれる五山の送り火の際には、絶好のビューポイントとなるそうです。



南禅寺
なんぜんじ
京都市左京区南禅寺福地町
 南禅寺は、正応4年(1291)、宋から帰国した無関普門(むかんふもん)を開山とし、亀山天皇が東山の離宮を禅寺に改めたことにはじまります。臨済宗南禅寺派の大本山です。
 室町時代は五山の上位に列せられた格式の高さを誇る大寺院です、2世の南院国師の時に南禅寺と改められました。
 亀山法皇は建長元年(1249)、後嵯峨上皇の皇子として生まれ、10歳で皇位に就かれ第90代亀山天皇になりました。その頃東アジアの情勢が緊迫し、上皇になられてからは蒙古来襲という国難に対処しました。
 伽藍のほぼ完成した嘉元3年(1305)亀山法皇は嵯峨の亀山殿で57歳で崩御されました。御陵は亀山殿の跡地に建立された天龍寺境内にあります。南禅寺はその後も著名の禅僧が歴代住持として住山して五山文学の中心地として栄えました。
 5間3戸2重門の威容を誇る南禅寺山門です。創建当初の門は室町時代に焼失し、現在見るものは寛永年間に伊勢伊賀の領主藤堂高虎が大阪夏の陣で戦死した藩士の霊を弔うため寄進し再建したものです。天下竜門とも称し、上層は別に五鳳楼とも呼ばれています。
 禅寺特有の重厚な造りと太い柱が圧倒的な量感で迫ります。知恩院三門、東本願寺大師堂門とともに日本三大門のひとつ。 元治元年(1864)6月、新選組は肥後の宮部鼎蔵の下僕・忠蔵をこの付近で捕縛しました。尋問に一切答えなかった忠蔵は、三門の楼上に晒しものにされたそうです。
 日本史上屈指の義賊「石川五右衛門」が連想されます。元禄時代の歌舞伎の台本の中で、戯作者が山門に五右衛門を登楼させ「絶景かな絶景かな」の名せりふをはかせたことで有名になりました。三門の向こうの山の緑がとても美しい場所です。生い茂る松、背後に続く山々。自然の偉大さが垣間見えます。
 3世の一山一寧(妙慈弘済大師)は元弘の後に元朝より平和交渉の使僧として来日しました。北条貞時によりスパイ容疑で修善寺に幽閉されました。しかし、のちに建長寺の10世になっています。
 仏殿は三門の奧にあります。法堂で明治末年の再建です。天井の龍は今尾景年(けいねん)の筆です。
 
 国宝指定されている南禅寺方丈は江戸時代1611に移築したものです。狩野探幽の水呑の虎などの襖絵などが有名です。
 小堀遠州作の方丈庭園は石組みの配置から虎の子渡しの庭と呼ばれています。砂と石と松で構成された枯山水庭園の代表的なものです。






南禅寺
水路閣
 「京都迷宮案内」などにも登場した「水路閣」です。水路閣は、琵琶湖疎水事業の一環として、施工された水路橋で、延長93.17メートル、幅4.06メートル、水路幅2.42メートル、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つとなっています。
 京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者として、明治18年起工され、同23年に竣工しました。西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計、施工されたもので、土木技術史上、極めて貴重なものです。昭和58年7月1日に京都市指定史跡に指定されました。


南禅寺
金地院
こんちいん
京都市左京区南禅寺福地町86-12
 南禅寺の塔頭のひとつです。 慶長の初め、以心崇伝によって南禅寺へ移されました。もとは北山にあった寺でした。以心崇伝は足利氏の家臣・一色秀勝の第二子でした。南禅寺に引き取られ、玄圃霊三の弟子となり建長寺や・南禅寺の住職になり、臨済宗の最高位についた人です。。
 1608年に徳川家康の命により駿府に赴き、外交事務の担当をするようになります。黒衣の宰相とも言われたそうです。
 方広寺の鐘銘に「国家安康」があり、家康公の名を引き裂いており、「君臣豊楽」は豊臣家を主君として楽しむ、ととれると換言しました。それにより「方広寺鐘銘事件」が起こり、豊臣家を滅亡させたのです。


南禅寺
真乗院
 真乗院には応仁の乱で西軍の総大将だった山名宗全のお墓があります。山名持豊(宗全)は嘉吉の乱では、播磨の白旗城に籠城した赤松満祐を滅ぼし、備前、美作を与えられました。その後、山名氏の領国は9ヶ国におよび、管領の細川氏を凌ぐほどになったのです。
 宝徳2年(1450)入道になり宗全と号しました。赤松家の処遇をめぐって将軍足利義政と対立。享徳3年(1454)子・教豊に家督を譲ってのちに、備前で赤松則尚を滅ぼしました。
 長禄2年(1458)に幕政に復帰してからは、細川勝元と対立。畠山政長を管領職から追い、畠山義就を就けたため、応仁の乱が勃発し、何年にもわたって両雄は争いを止めることなく、京中と寺社はことごとく灰燼となったのでした。



野村美術館
のむらびじゅつかん
京都市左京区南禅寺下河原町61
 南禅寺の門前を北に進むと数奇屋風の和風建築の野村美術館があります。野村證券・大和銀行などの財閥を築きあげた野村徳七(号得庵)が、茶の精神を基本に据えて収集したものです。
 美術工芸品、茶道具を中心に能面・能装束など約1,300点を所蔵しています。主な収蔵品として、雪村周継筆風涛図(重文)、時代千鳥洲浜蒔絵面箱(重文)などがゆうめいです。



永観堂(禅林寺)
えいかんどう
京都市左京区永観堂町48
 聖衆来迎山禅林寺と号する浄土宗西山派の総本山で通称永観堂と呼ばれています。斉衡2年(855)空海の弟子である真紹僧都によって創建され、貞観5年(863)清和天皇より禅林寺の定額を得ました。諸堂は、おおらかな自然と一体となった長い回廊で結ばれています。
 一時衰えましたが、平安時代の末、承暦年間(1077-1081)に永観律師が入山して念仏道場を開き寺を中興しました。このことから永観堂と呼ばれるようになりました。
 念仏を唱えて行道をしていると本尊の阿弥陀仏が壇上より降りてきて先導をはじめ、振り返って「永観遅し」と声をかけたという逸話が残っているそうです。
 東山のふもとに建つ閑静な古刹は「もみじの永観堂」として知られ、東山を背景にした池泉廻遊式の庭園の紅葉は有名です。古今集でも詠まれたほどに紅葉がきれいな場所なのです。
 鎌倉時代中期には浄土宗西山派の本山の基礎を固めました。応仁の乱により堂舎が焼失しましたが明応6年(1497)後土御門天皇の命により再建され、以後遂次諸堂が建てられ現在の伽藍となりました。
 重要文化財の本尊のみかえり阿弥陀如来像は、左後方を振り返っためずらしいものです。国宝の山越阿弥陀図(やまこしあみだず)や鎌倉以来の仏画なども寺宝になっています。
 多宝塔からは京都市内が一望できます。慈愛に満ちた高さ80cmの如来の表情は、見る人の心を癒してくれます。



哲学の道
 哲学の道は近代日本の代表的な哲学者・西田幾太郎や経済学者・河上肇などがよく歩き、思索にふけったことから命名された、といわれています。




 この小道は銀閣寺参道に架かる銀閣寺橋から、南へ琵琶湖疏水の支流に沿って上り、若王子神社前までの約2キロの琵琶湖疏水分線沿いの小道をさしています。



熊野若王子神社
くまのにゃくおうじじんじゃ
京都市左京区若王子町2
 熊野若王子神社は、京都三熊野の一つで 「哲学の道」の起点、また、東山三十六峰のふもととに位置しています。
 熊野若王子神社は永暦元年 (1160)、平安時代の末期に、後白河法皇が紀州の熊野権現を勧請して建てられれました。社名は天照大神の別称「若一王子」に因んで名付けられました。
背後の東山中に滝があり、熊野三山の那智大社に見立てています。熊野詣の時には、この滝で浄めを行ってから出発したといわれています。花見の名所としても有名で寛正6年(1465)足利義政により花見の宴が催されています。
 御神木の梛(なぎ)の大木は樹齢400年で京都で最も古いものです。熊野詣、伊勢参宮などの際に諸々の罪けがれを祓い清めるみそぎの木として用いられ、いまも、この葉で作ったお守りはすべての苦難をなぎ倒すといわれています。
京の名木 なぎ
 応仁の乱により荒廃しましたが豊臣秀吉によって再興され社殿、境内が整備されました。境内には末社として恵比寿神社、三解社が祀られ、背後の若王子山頂には新島襄の墓があるそうです。
 花乃影    
   澄や岩間の
     和すれ水
                梅通
 (梅通は京の俳人です。)



霊鑑寺
れいかんじ
京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町
 霊鑑寺は哲学の道沿いにある南禅寺派の門跡寺院です。江戸初期の承応3年(1654)、後水尾天皇が皇女浄法身院宗澄(そうちょう)を開基をして創建しました。代々、皇女が住職をつとめたので、谷御所、鹿ケ谷比丘尼(びくに)御所とも呼ばれました。
 御所人形・貝あわせ等、皇室ゆかりの品が多く、山麓斜面に広がる池泉鑑賞式庭園や、名椿が多数あることで椿の寺としても有名です。通常非公開ですが、毎年、春(椿)と秋(もみじ)に特別拝観が行われます。



安楽寺
あんらくじ
京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町21
 安楽寺は住蓮山と号し浄土宗の寺院です。法然上人の弟子、住蓮房と安楽房が建てた「鹿ケ谷草庵」の跡に建っています。後鳥羽上皇の女官、松虫と鈴虫がこの2人の僧の影響で出家したため上皇が怒り、2人を死罪、法然を土佐へ、親鸞は越後へ流罪にしました。これは承元元年(1207)のことでした。承元の法難と呼ばれています。
 延宝9年(1681)、住蓮房と安楽房の両僧を弔うために住蓮山安楽寺が建てられました。二人の供養のため2基の五輪石塔が建ちました。
 東方の山林の中には鈴虫、松虫の五輪石塔の供養塔もあります。6月8日に供養会を行っているそうです。桜、ツツジ、サツキ、紅葉の季節に拝観できます。



法然院
ほうねんいん
左京区鹿ヶ谷御所ノ段町30
 善気山万無(ぜんきさんばんぶ)教寺と号し、浄土宗捨世派の本山です。建永元年(1206)に法然上人が弟子の住蓮、安楽とともに六時礼賛(ろくじらいさん)をつとめたと伝えられる旧跡です。
 寛永年間(1624-1644)、ほとんど廃絶状態になっていました。そこを延宝8年(1680)、万無心阿(まんむしんあ)が弟子の忍徴(にんちょう)とともに上人を偲び念仏道場として再興したのでした。
 貞享4年(1687)、宮中から内親王の御座所を下賜されて方丈としました。その襖絵は金地著色の桐二竹図・若松図など重要文化財に指定されたものです。
 本堂内部は通常非公開ですが、正面から恵心作の本尊阿弥陀如来や散華が拝観できます。境内には谷崎潤一郎ら著名人の墓もあります。
 古都特有の厳かな雰囲気が程良い緊張を感じさせる法然院は善気山の清々しい山気に満ち、粛然とした気配がいまも漂っています。
 ヒノキと杉木立の参道をのぼると三門にかわる茅葺(かやぶ)きの数寄屋風の門があります。門をくぐると白沙織段(はくしゃだん)があります。
 両側に砂盛りがあり、白砂に文様が描かれています。池に架かる橋を渡ると方丈の玄関に出ます。本堂には恵心僧都がつくられた阿弥陀如来座像と法然上人が作られた木造を安置しています。
 須弥壇の前には散花(さんげ)と称して四季の花を散らし荘厳美を増しています。経蔵は元文元年(1736)の建造で忍徴(にんちょう)が門弟達と校訂した大蔵経を納めています。阿弥陀の徳を讃える六時礼賛(ろくじらいさん)が今日も続いています。




銀閣寺(慈照寺)
ぎんかくじ(じしょうじ)
京都市左京区銀閣寺町2
 室町時代、東山文化の頃に大きな文化の影響を与えた「銀閣」は、のちに寺に改められ「慈照寺」と名前を変えました。
 銀閣は観音殿といい、創建時の風雅な姿をそのまま残す国宝です。世界文化遺産にも登録されています。
 観音殿(銀閣)は鹿苑寺の舎利殿(金閣)、西芳寺の瑠璃殿を踏襲し、本来観音殿と呼ばれました。二層からなり一層の心空殿は書院風。
 二層の潮音閣は、板壁に花頭窓をしつらえて桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式。閣上にある金銅の鳳凰は東面し、観音苔薩を祀る銀閣を絶えず守り続けています。
 足利義政は、祖父にあたる三代将軍足利義満の北山殿金閣(鹿苑寺)にならい、隠栖生活を過ごすため、山荘東山殿を文明14年(1482)に造営しました。この東山殿が銀閣寺の発祥です。
 銀閣寺は俗称であり、正しくは山号を東山(とうざん)、慈照寺です。義政の法号慈照院にちなみ、後にこう命名されたのです。金閣寺とともに相国寺の山外塔頭のひとつなのです。
 京都の東に連なる山々は東山(ひがしやま)と呼ばれ、如意が岳(大文字山)を中心になだらかに続いています。
 総門をくぐり中門までの約50メートルに銀閣寺垣が続きます。石垣・竹垣・椿の生垣が見事に調和しています。
銀閣寺形手水鉢
中門から中に入ると東山文化のわびさびを感じさせてくれる美しい庭園が目に飛び込みます。庭園は特別史跡、特別名勝に指定されています。
 正面に月待山、銀沙灘(ぎんしゃだん)と呼ばれる白砂や台形の向月台(こうげつだい)が配されています。月見の風情が伺え、枯山水と池泉回遊式の庭園は見事です。
 本堂へ続く東求堂(とうぐどう)も国宝で、同仁斎(どうじんさい)という現存最古の書院造りの部屋が有名です。東求堂の拝観は事前申込みが必要です。
 義政は8才で将軍となり政務に励みましたが、山名、細川氏らの対立を収められませんでした。妻である日野富子まで政治に口を挟み、政局は乱脈を極めました。
 後継者争いから応仁元年(1467)応仁の乱が起こり10年間戦いが続きました。そのさなかの文明5年(1473)、義政は将軍職を9才の義尚に譲ってしまい銀閣寺造営に情熱を向けたのでした。
 文明14年(1482)に乱で焼失した浄土寺の跡地に銀閣を造営して翌年移っているそうです。浄土寺は相国寺の西に移ったそうです。
 義政は文化面に優れた感覚を持ち、祖父の義満の金閣に劣らない建築を志しました。横川景三ら相国寺の僧を相談相手にしていたそうです。
 国の特別史跡・名勝に指定されている庭園は名手善阿弥(ぜんあみ)、襖絵は小栗宗湛、狩野正信らの一流人を用いています。
 資金は段銭を課し、公家、寺院から普請料を徴収したそうです。常の御所、禅堂西指庵、持仏堂の東求堂などを完成させました。最後に観音堂(銀閣)を上棟したのは死の前年の長亨3年(1489)だったそうです。



白沙村庭園
橋本関雪記念館

京都市左京区浄土寺石橋町37
 白沙村は「石も木も呼吸している」と言った日本画家・橋本関雪の邸宅です。大文字山を借景にした池泉回遊式庭園には180点もの石仏が置かれ、落ち着きのある素晴らしい空間を作っています。
石塔の他にも至るところに、石造物が置かれ、自然の草木にとけ込んでいる。敷地内には関雪の設計による茶室などもある。昭和58年京都市指定名勝に指定されました。



真如堂
しんにょどう
京都市左京区浄土寺真如町82
  洛東の神楽岡に建つ真如堂は、表通りに面していないせいか、その歴史の深さのわりに静かな佇まいを保っています。真如堂は、鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらくじ)と号し、比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺です。真如堂とは本堂の名です。
 真如堂の建立は古く永観二年(984)。比叡山延暦寺の常行堂の阿弥陀如来像を、神楽岡の東にあった一条天皇の母である東三条女院の離宮に、安置したのが始まりです。
 その離宮の跡は現寺地の東北に当り「元真如堂」といわれています。後に幾たびか寺地を変え、文明17年(1485)足利義政が旧地に再興しました。
 その後また寺地は移り、元禄6年(1693)現在地に復しました。今の堂舎は宝永2年(1705)再建されたものです。
 本尊の阿弥陀如来像は、日本三大如来像のひとつにあげられる平安時代(藤原朝)の名作で国の重要文化財に指定されています。また運慶の願経の法華経6巻は国宝です。
 お十夜

 永享九年(1437)、伊勢守平貞国が出家を決意して真如堂に参籠し、三日三夜の念仏を終えたとき、夢の中に高僧があらわれて「なお三日まつべし」と出家を思いとどまらせました。
 不思議にも翌日、父の隠居が決まり、家督相続の知らせが来て貞国が相続の後、家は興隆したのです。
 阿弥陀佛に帰依していた貞国は、その後も度々三日三夜の念仏に、七日七夜の修行をした事から、十日十夜のおつとめ、「お十夜」の始まりとなったのです。
 境内には春日の局の父で明智光秀の家老、斉藤利三の墓がありました。利三は山崎の合戦で奮戦したが敗北、近江の堅田で打ち首となりました。その晒された利光の首を親友の海北友松が奪い取って京都真如堂に手厚く葬ったという逸話があります。その海北友松や東陽坊長盛、俳人の向井去来などの墓もあります。



白河院庭園
 庭園のある場所は、平安時代に白河天皇が営んだかつての法勝寺の境内にあたり、白河院はそれに因んで付けられました。大正8年(1919)呉服業を営んだ下村忠兵衛により造られました。
 平安神宮神苑や無鄰庵(むりんあん)庭園(国の名勝)など多くの名園を手掛けた7代目小川治兵衛が作庭しました。それぞれの樹木の特性を生かし、琵琶湖疏水の水流を巧みに活用するなど円熟の技が随所に見られます。


洛翠と植治の庭
 洛翠(らくすい)は実業家藤田伝三郎別邸でした。この庭園も多くの名園を手掛けた7代目小川治兵衛の作です。不明門、画仙堂などもあります。
 この門は豊臣の時代に伏見城内に建立されたもので移築したものです。古来より不明門(あけずのもん)とよばれ開けられたことがないそうです。


琵琶湖疏水記念館
びわこそすいきねんかん
京都市左京区南禅寺草川町17
 琵琶湖疏水は琵琶湖と京都を結ぶ水の道です。新鮮な魚介と物資が流通しただけでなく、水力発電等にも活用され、京都の発展に大きく貢献した運河です。
 琵琶湖疏水記念館では当時の滑車やレールがそのまま残る蹴上のインクラインなどを展示して一大事業の計画から完成までの道のりを解説しています。



無鄰菴
むりんあん
京都市左京区南禅寺草川町31
 この菴は明治大正の元老、山県有朋の別荘です。明治27年から29年の間に建てられました。庭園は有朋自ら設計、監督して7代目小川治兵衛が作庭しました。
 庭園は、曲線を描いて疏水の水を引き入れた見事な池泉廻游式です。明治時代の代表的な庭園の一つに数えられています。
 山県有朋は天保9年(1838)、萩藩中間有稔の長男として生まれました。19歳の時、久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の松下村塾に入門、以後攘夷運動に奔走しました。
 文久3年(1863)奇兵隊に入隊、軍監となり、下関で英仏蘭米四ヶ国連合艦隊と交戦、高杉晋作挙兵に参加し、第二次長州戦争でも活躍、戊辰戦争には官軍の参謀として北越方面に転戦しました。明治2年(1869)欧州を視察し帰国後兵部少輔・兵部大輔となり、大村益次郎なきあとの軍政に尽力し、徴兵令を制定して国軍の基礎を作りました。
 陸軍卿・陸軍大将・元帥などを歴任、明治政府の中心的存在となりました。政治家としては、二次にわたり内閣を組織しその前後に参議・枢密院議長などにもなりました。伊藤博文亡きあと最大の発言力をもつ元老として、軍や政界に重きをなした人物でした。
 建物は簡素な木造2階建ての母屋、藪ノ内流燕菴を模したといわれる茶室、南西隅に洋館があります。
 この部屋で明治36年(1903)4月21日、元老山県有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎が集まり日露戦争開戦直前の外交方針を決める無鄰菴会議が行われました。



京都市美術館
京都市左京区岡崎
 昭和3年(1928)秋、天皇の即位式が京都で行われたのを記念し、5年後の1933年(昭和8年)11月に「大礼記念京都美術館」として開館しました。以来京都の中心的な美術拠点の1つとして広く親しまれています。
 建物は公募によって選ばれた東京の建築家の前田健二郎の設計です。総工費は当時の金額で107万円かかったそうです。建設には、京都の美術関係者だけでなく、京都市民や広く関西の財界からも多額の寄付が寄せられたそうです。




京都市動物園
京都市左京区岡崎法勝寺町
 京都市動物園は上野動物園に次いで日本で二番目に出来た歴史ある動物園です。明治36年に開園したそうです。




岡崎公園
京都市左京区岡崎最勝寺町
 明治37年(1904)7月平安神宮境内の8万uを編入させてできたようです。岡崎という文化施設の一角で野球場とテニスコート2面を有しています。



平安神宮
へいあんじんぐう
京都市左京区岡崎西天王町
 京都一の大鳥居をもつ平安神宮は、平安遷都1100年を記念して、明治28年(1895)に造営されました。平安京大内裏の正庁である朝堂院(ちょうどういん)の8分の5の規模で建造されました。
 社殿の柱はあざやかな朱に塗られ、宮廷風の雅やかさを感じさせます。社殿の背後を囲むようにある神苑は、広さ3万uで桜にカキツバタ、花菖蒲など四季折々に花が植えられています。
 本殿は昭和51年(1976)焼失後の再建で、祭神には、桓武天皇と孝明天皇を祀っています。境内は広大で、創建当時、この周辺で内国勧業博覧会が開催されたそうです。毎年6月1日、2日は薪能が行われるそうです。
 10月22日に行われる時代祭も平安遷都1100年を記念して始められました。勤王鼓笛隊を先頭に2千名もの大行列が、御所から平安神宮まで練り歩きます。
 京都は四神(蒼龍・白虎・朱雀・玄武)相応の地とされていました。
 蒼龍楼
 西方の白虎楼と共に平安京朝堂院(ちょうどういん)の様式を模したものです。屋根は四方流れ、二重五練の入母屋造りで碧(みどり)瓦本葺きが施されています。
 庭園は7代目小川治兵衛の作庭です。
白虎楼
 東方の蒼龍楼と共に平安京朝堂院(ちょうどういん)の様式を模したものです。屋根は四方流れ、二重五練の入母屋造りで碧(みどり)瓦本葺きが施されています。
右近の橘
 平安時代以降、紫宸殿の南階下の西方に植えられた橘のことを「右近の橘」といい「左近の桜」と併称されています。儀式の時、右近衛府の官人がその側に列したことから名付けられました。
 左近の桜
 平安時代より、紫宸殿の南階下の東方に植えられ、儀式の時、左近衛府の官人がその側に列したことから「左近の桜」と名付けられました。
 敷島の        
大和心を人とはば
朝日ににほふ
山ざくらばな
    本居 宣長



蓮華王院
三十三間堂

れんげおういん
さんじゅうさんげんどう
京都市東山区三十三間堂廻町657
 三十三間堂は、正式には蓮華王院(天台宗)といい、内陣の柱間が33あることに由来しています。長寛2年(1164)、後白河上皇の勅願で平清盛が院御所法住寺殿(ほうじゅうじどの)西側に千体観音堂を建立したのがはじまりです。
 その後、焼失しましたが、鎌倉時代の文永3年(1266)に現在の本堂が再建されました。柱間の数が33ある横長のお堂は総檜造りで約120m。あります。
 国宝 蓮華王院本堂(三十三間堂)は国宝に指定されています。三門跡のひとつの妙法院の仏堂なのです。
 中央壇上には鎌倉時代の仏師、湛慶(たんけい)が82才の時に手がけたという国宝の千手観音坐像があります。見る者を圧倒させます。全長335cmの大作です。
 左右に合わせて千体の千手観音立像が並んでいます。平安から鎌倉時代のもので実際には1001体あるそうです。これらは重要文化財に指定されています。
 国宝に指定されている二十八部衆立像は火災時に全部運び出されたと記録されていますが、諸説有るようです。
 国宝の木造風神・雷神像は鎌倉時代に作られたものです。外陣(げじん)に安置されていましたが、今は元通りの内陣に移されています。
 江戸時代には400回ちかく「通し矢」が行われ延べ100万本の矢が使われたそうです。お堂の南辺の柱や板壁には弓を張る時にその先端を差し込んだ小穴が残っています。 
「通し矢」は、毎年1月15日に一番近い日曜日に催されています。また頭痛封じの楊枝の(やなぎ)加持も行われています。
 宮本武蔵が吉岡と立ち会った場所でもあります。
 土塀を少なくしたり、粘土と砂を層状に重ねた「版築」地盤にするなどして耐震のための「揺れる建造物」となっています。
  重要文化財の蓮華王院の築地塀です。別名太閤塀ともいわれます。桃山時代の遺構で豪壮な感じを出しています。
 重要文化財に指定されている蓮華王院の南大門です。桃山時代に建てられたものです。との門を入った右手に法住寺跡の碑があります。
 法住寺は藤原為光が建立した寺でしたが焼失し、その跡に後白河天皇が後院の法住寺殿を造営し、永暦2年(1161)後白河院政を執り行った場所でした。



養源院
ようげんいん
京都市東山区三十三間堂廻り町
 豊臣秀吉の側室、淀君が父の浅井長政の菩提を弔うため文禄3年(1594)に長政の従兄弟にあたる成伯法印を開山として創建しました。養源院は長政の法号でもあります。
 その後、焼失し、元和7年(1621)、淀君の妹である徳川秀忠夫人崇源院が伏見城の遺構を移し再建しました。廊下の天井は、伏見城落城の際、自刃した武将たちの血のりのしみた板を使ったため「血天井」として有名です。
 本堂の襖、「松図」12面や、白象を描いた杉戸絵8面は俵屋宗達の作品で重要文化財に指定されています。



京都国立博物館
きょうとこくりつはくぶつかん
京都府京都市東山区茶屋町527
片山東熊(かたやまとうくま)により明治30年(1897)に建てられた煉瓦造の洋風建築物です。当時は帝国京都博物館と称されました。国の重要文化財に指定されています。 
 明治16年(1883)閉館した京都府立博物館の収蔵品1076件をを引き継ぎました。彫刻・書跡・金工など約1万2000件の文化財が収蔵されています。




智積院
ちしゃくいん
京都市東山区東大路七条下ル東瓦町964
 真言宗智山派の総本山です。豊臣秀吉が3才でなくなった長男鶴松の菩提を弔うために建造した祥雲寺が始まりです。
 元和元年(1615)紀州、根来寺(ねごろじ)の住職玄宥(げんゆう)が根来寺智積院と改名しました。18世紀初頭、学生僧教学専門学寮70棟を数えたといわれています。
 智積院は布教よりも学寮として発展したそうです。その勢力は全国におよび、代々の住持は硯学(せきがく)が任じられました。
 特に7世の運敞(うんしょう)は語学に通じ、人気があり諸国から宗派を問わず大勢の学生が集まったそうです。
 見どころは境内の収蔵庫にある桃山時代の国宝障壁画です。長谷川等伯一派の描いた桜図や楓図、雪松図、松に秋草図など見事なものばかりです。
 国宝に指定されている桃山時代の二曲屏風「紙本金地著色松に草花図」や重要文化財の「金地著色孔雀明王像・絹本著色童子経曼陀羅図」など有名なものがあります。
 庭園は江戸時代に作られたもので国の名勝になっています。北を生け垣、中央を枯滝組み、南を池泉とした名園です。7世の運敞が中国の廬山の景をかたどって作ったといわれています。



妙法院
みょうほういん
京都市東山区妙法院前側町447
 天台宗に属する寺院で、天台三門跡(梶井門跡、青連院門跡)のひとつに数えられている名刹です。蓮華王院本堂(三十三間堂)は妙法院の仏堂で江戸時代から管理しています。
 後白河上皇の護持僧昌雲(しょううん)が祈祷の験により、新日吉(いまひえ)御所の地を与えられ創建した説と最澄が創建した説とがあります。
 暦応3年(1340)佐々木道誉によって攻撃され灰燼に帰し、復興後も応仁の乱で荒廃しました。豊臣秀吉が方広寺の大仏殿を建立するとき大仏の経堂として再興されました。庫裏は国宝で桃山期の豪快な建築です。
 寺領も1600石になり江戸時代には新日吉神社、蓮華王院、方広寺なども管理しました。天明の大火の際には光格天皇の皇后が避難したそうです。大書院は東福門院の旧殿を移築したものといわれています。
 幕末の七卿落ちが行われた宸殿、小堀遠州作と伝える庭園などもあります。国宝のポルトガル国印度副王信書、狩野派の筆による「唐美人図」「四季花鳥図」など、大画面の豪華絢爛な金碧画なども有名です。。



方広寺
ほうこうじ
京都市東山区茶屋町527-2
 豊臣秀吉が建立した方広寺は、松永秀繁によって焼かれた奈良の大仏が再興されなかったのでここに大仏殿を建立したのです。9年の歳月を費やして建て大仏千人供養をしたのですが、慶長元年(1596)の大地震で焼失してしまいました。
のちに秀頼が再建しましたが、火災で焼失してしまいました。梵鐘に刻まれた銘文が家康の怒りにふれ、大坂冬の陣、夏の陣をひきおすことになり豊臣家滅亡のきっかけとなりました。現在は、大鐘が吊られた鐘楼、諸将の名が刻まれた石塁や石塔だけが残っています。



豊国神社
とよくにじんじゃ
京都市東山区大和大路通正面茶屋町530
 豊臣秀吉を祀り、一般に「コウコクさん」の呼称で人々に親しまれている神社です。境内には、秀吉夫人の北政所を祀る摂社貞照神社もあります。 
 慶長3年(1598)に63才で亡くなった秀吉は後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、遺骸は遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られました。
 豊臣家滅亡後、徳川幕府によって廟所は取り払われました。秀吉の御霊は新日吉神社に移されてしまいました。その後、明治13年(1880)、明治政府が秀吉の徳を称えて、方広寺大仏殿跡に再興したものです。
 石段を上がると豪華な唐門があります。伏見城の城門を移築したものだといわれています。唐破風がついた四脚門で、欄間や扉の彫刻に桃山時代の華麗な遺風が偲ばれます。


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