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出石町
いずしちょう
兵庫県豊岡市出石町
 平成17年(2005)4月1日、出石郡から合併して豊岡市になりました。但馬の小京都といわれるように風情のある町並みが残る出石藩の城下町です。
 新羅の王子天日槍(あめのひぼこ)が、垂仁天皇3年に渡来してこの地を開いたといわれています。天日槍が持っていた出石小刀から出石の名前が付いたといわれているそうです。
 古くは但馬の国衙(こくが)が置かれていたようです。室町時代になると、山名時氏(ときうじ)が但馬地方を制圧しました。山名一族は 、日本全国66カ国中11カ国を治さめ「六分の一殿」と呼ばれたそうです。
 明徳の乱などの内紛でわずか3カ国の守護と成り下がりましたが時義の孫宗全(そうぜん)はその勢力を盛り返し、応仁の乱では西軍の大将となりました。
 その後山名の勢力は衰え、山名祐豊(すけとよ)は織田方の羽柴秀吉軍に攻められ此隅山城は落城しました。城を有子山に移し抵抗しましたが、天正8年(1580)秀吉の弟秀長により有子山城も落城し山名氏は滅ぼされたのです。
辰鼓楼
  有子山城には秀長の家臣青木甚兵衛が入城し、次いで前野長康に変わりました。文禄4年(1595)その後播州竜野から小出吉政(よしまさ)が領主として封ぜられ5万3千石を領しました。その子吉英(よしふさ)の時に山城を廃し、山麓に平山城を築き現在の城下町が形成されたのです。
 悲恋物語のヒロイン「おりゅう」の名がつく灯籠です。出石川のそばにあり、そのまわりには蔵屋敷、塩蔵などが立ち並んでいたそうです。
おりゅう灯籠
 出石そばは宝永3年(1706)信州上田藩より国替えになった仙石氏がそば職人を連れてきたことから始まったそうです。わさびをすりおろし、つゆに入れずにそばに乗せて食べます。
出石そば



出石神社
いずしじんじゃ
兵庫県豊岡市出石町宮内99
Tel 0796-52-2440


 但馬一の宮といわれ、祭神は但馬の祖神、天日槍(あめのひぼこ)命と出石八前大神だそうです。
 天日槍は新羅の王子でしたが渡来して、当時入江湖であった但馬地方を瀬戸の岩戸を切り開いて耕地にしたと出石神社由来記には記されているということです。
 出石神社の創立ははっきりしませんが、奈良時代には山陰地方の有数の大社であったようです。
 拝殿は舞殿形式で入母屋造り平入りで蔀戸をつり、正面に身舎の屋根と独立した平唐破風出桁の向拝は他に類のない珍しい建物です。
 現在の社殿は大正3年に再建され、本殿は三間社流れ造りで南に面しています。



出石家老屋敷
いずしかろうやしき
兵庫県豊岡市出石町内町98
Tel 0796-52-3416


 江戸時代の三大お家騒動である仙石騒動の中心人物、仙石左京の屋敷があった場所だそうです。不意の襲撃に備えるための隠し二階があります。大名行列の諸道具などを展示した資料館として公開しています。



豊岡市立出石史料館
とよおかしりついずししりょうかん
兵庫県豊岡市出石町宵田78
Tel 0796-52-6556


 旧福富家という町屋を出石町が譲り受け、出石史料館として公開しています。藩政時代の資料展示および建屋内の内部を見ることができます。
 この旧福富邸は明治期における但馬の商家の風情を今に伝えています。母屋、離れ、土蔵からなり極めて高度で贅沢な造りになっています。
 土蔵には三代お家騒動である仙石騒動の関係資料なども展示されています。旧福富邸は豊岡市の文化財にも指定されています。



宗鏡寺
すきょうじ
兵庫県豊岡市出石町東篠33
Tel 0796-52-2333


 出石の町の東方にある入佐山のふもとに臨済宗大徳寺派の宗鏡寺があります。山名氏の菩提寺として明徳3年(1392)山名氏清によって創立されました。
 寺名は氏清の法号、宗鏡寺殿から名付けられたといわれています。山名氏滅亡後、寺は荒廃してしまいます。元和2年(1616)沢庵和尚が来住し、出石城主小出吉英に再興をすすめ、援助を得て再興しました。
 小出吉英は小出吉政の嫡男です。吉政とその父小出秀政は関ヶ原の合戦で西軍についてしまいました。しかし二男の小出秀家は東軍方につき活躍しました。
 その功を持って、秀政、吉政も許され、但馬出石の6万石の旧領を安堵された経緯がありました。秀政の死後、小出吉英が和泉岸和田を継ぎ、出石領は吉英の弟、小出吉親が別家として継ぐことになりました。
 その後、岸和田藩宗家の小出吉英が、但馬出石に移され、吉親は、丹波園部へ移り、園部藩を作りました。但馬出石の宗家はその後、無嗣断絶してしまいますが、園部藩の小出家は幕末まで続いたそうです。
 小出家無嗣断絶後、藤井系松平氏の松平忠周(ただちか)が入りました。忠周は将軍綱吉の側用人に抜擢され従四位に任ぜられたほどの人物でした。 
小出英安の墓
 宝永3年(1706)正月28日、松平忠周は信濃上田5万8千石の上田藩へ転封を命ぜられました。忠周は享保2年(1717)には京都所司代、同9年(1724)には老中に任ぜられた有用な人物でした。
仙石政辰の墓
 出石へは上田藩の仙石政明が入りました。松平氏と仙石氏は、その領地を交換したわけです。松平氏は明治まで続きましたが仙石氏は幕末近くに仙石騒動を起こしてしまいました。
仙石久道の墓
 藩財政の逼迫で筆頭家老の仙石左京は改革産業振興策を、もう一人の家老仙石造酒は、質素倹約の保守政策をと対立しました。6代藩主仙石政美(まさみつ)は左京の政策を支持し左京は強引な改革を推進したのです。
仙石久道妻の墓
 政美が嗣子なくして没すると 仙石久利が跡継ぎに決しました。反左京派は左京の行動が穏当を欠くとして糾弾、左京は失脚、仙石造酒が政権につきました。しかし派内で自滅し、再び左京が政権に返り咲きます。 
 反左京派はおさまらず、左京が自分の子を藩主にさせるため、藩主久利の暗殺を計画しているなどと誹謗中傷を繰り返したため幕府の耳に入ってしまいます。仙石左京は獄門、出石藩も3万石にさせられてしまったのです。
 歴代の藩主の加護を受けてきた宗鏡寺にはたくさんの墓があります。沢庵和尚の墓もあります。宮本武蔵の師ともいわれている沢庵は江戸時代初期の禅僧で、書画、俳句、茶道に精通した人物といわれています。たくあん漬けの考案者ともいわれています。
沢庵の墓
 裏山から流れる清水を利用した地泉庭園は、沢庵作の庭園で、池の形状は横に長く鶴の形をしており、中央には亀島を築いてあります。県の文化財にも指定されています。
沢庵の墓



経王寺
きょうおうじ
兵庫県豊岡市出石町下谷6
Tel 0796-52-3241


 出石は、街道口や要衝に多くの寺院を配置しています。高櫓を設け、塀に狭間を穿った寺院が見られます。経王寺は京街道の丹波口の守りです。戦の時に砦の役割をもっているのです。
 経王寺は宝永3年(1706)に信州上田から移封された仙石氏の菩提寺でした。山門の左手にある鐘楼は城の隅櫓のような形をしており、弓や鉄砲を打ち出す挟間(ざま)があいています。
 経王寺はもとは真言宗のお寺だったそうです。約430年前に、この地を布教のために回ってきた僧の強化を受けて日蓮宗に改宗したそうです。
 4代藩主仙石久行(ひさゆき) の墓や藩士の墓があります。山門を入ると、直ぐ左手に樹齢80年程度の沙羅の木があります。初夏には花が咲き、この世の無常を伝えます。



辰鼓楼
しんころう
兵庫県豊岡市出石町内町


 辰鼓桜は旧三の丸大手門の一隅にあり、わずかに残る内堀とともに昔をしのばせてくれます。辰の刻(午前8時)に太鼓を打ち鳴らして藩士の登城を知らせた見張りやぐらのあった場所に建っています。
 現在の鼓楼は明治4年に作られたものだそうです。当時は太鼓で時を告げていたそうですが、明治14年からは大時計が寄与され、以後時計台として親しまれるようになったそうです。
  現在では三代目の時計が時を刻んでいます。出石のシンボルとして観光客を集めています。



出石城
いずしじょう
兵庫県豊岡市出石町内町


 出石城は、慶長4年(1604)に小出吉英が町の南側にある有子山(ありこやま)の山すそに築きました。山名氏城跡の一部で国の文化財に指定されています。
 出石城の登城門です。本丸跡の角櫓も復元されたものです。旧本丸、二の丸、三の丸の石垣が当時を偲ばせます。
 有子山の山頂には天正2年(1574)山名氏政が築城した高城跡があり、山麓には小出吉英が築いた平山城が明治まで存続していたそうです。
 山名祐豊(すけとよ)は織田方の羽柴秀吉軍に攻められ此隅山城は落城しました。城を移して「有子」と名付けたそうです。「子盗」(此隅)という名を嫌って縁起を担いだようです。
 天正8年(1580)秀吉の弟秀長により有子山城も落城し因幡に敗走し、織田方の管理になり、ふもとに出石城が築城され有子山城は廃城になったようです。
 城址には昭和43年に再建された東西隅櫓や157段の石段を上ったところにある有子山稲荷神社、仙石氏の藩祖で石川五右衛門を捕らえた豪傑として知られる仙石権兵衛秀久を祀る感応殿などがあります。
 仙石秀久は秀吉の四国征伐の際には秀吉軍の総大将羽柴秀長と共に数々の城を攻略し、讃岐10万石を拝領しました。九州征伐で失策し真っ先に逃げた為、秀吉の怒りを買い、所領を没収され高野山に謹慎させられました。
 小田原の役の時に徳川家康を頼って参陣、甲冑に鈴をつけて走り回り秀吉の許しを得、信濃小諸城5万石となり、名誉を回復したそうです。



日和山海岸
ひよりやまかいがん
兵庫県豊岡市瀬戸1090
 日和山の断崖絶壁に位置し、眼下には日本海の荒波が押し寄せます。近くには城崎マリンワールドがありイルカのショーや、トドのダイビングなど見ることができます。リアス式海岸のため作られた奇岩が入り組む海岸は、山陰国立公園でも屈指の景勝地になっています。



余部鉄橋
あまるべてっきょう
兵庫県美方郡香美町香住区余部


余部鉄橋は、平成22年(2010)7月16日夜に運用を終了しました。
現在はエクストラドーズドPC橋の2代目の余部橋梁が架けられています。


 余部鉄橋は、明治45年(1912)に建設された鋼トレッスル橋梁です。建設当時は、東洋一の鉄橋でした。現在でもトレッスル式鉄橋としては日本一の規模です。
 昭和61年(1986)12月28日の列車転落事故で6人の方が亡くなりました。橋りょう掛け替え工事に伴って平成20年(2008)4月6日以降閉鎖されています。


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