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日本の旅
北京都の旅          舞鶴・丹後・伊根

舞鶴
まいづる
京都府舞鶴市
 岸壁の母で有名な舞鶴です。菊地章子、二葉百合子が歌って大ヒットしました。海外からの復員兵や引き揚げ者たちを迎えた場所として一躍有名になりました。
 旧海軍のまちであったことから、旧海軍関係の施設を中心に赤れんが建造物が数多く残っている舞鶴市では、市民と行政とが一体となり、赤れんがを生かしたまちづくりを進めています。



舞鶴港
まいづるこう
 舞鶴港は人字形をしていて西と東の港に分かれています。江戸時代には西港は田辺城下の田辺湊として栄え、東港は北前船の寄港地になっていたものの寒村の趣が強かったようです。
 明治になると西港は商港として、東港は軍港として栄えるようになったそうです。明治22年(1889)舞鶴鎮守府の設置が決まると東港周辺の余部下、長浜、北吸、浜の一帯が買収されたそうです。
 東港一帯に海軍施設が建設されて、軍港都市として中舞鶴、東舞鶴では新しい都市づくりが行なわれたのでした。そして昭和18年(1943)には西港も軍港になったそうです。
 第二次世界大戦後、舞鶴港は引揚げ港に指定され66万人の人々を受け入れました。
 昭和20年(1945)10月7日、最初の引き揚げ船「雲仙丸」が西港に入って以来、昭和33年(1958)まで13年間、その役目を果たしたのでした。



舞鶴市政記念館
まいづるししせいきねんかん
京都府舞鶴市北吸1039-2
 舞鶴市政記念館は、赤煉瓦倉庫の転活用第2号として、平成6年(1994)10月に芸術・文化交流の場として新しく生まれ変わりました。
 建物は、旧海軍の雑品庫並損兵器庫として明治35年に建設された煉瓦造2階建の倉庫です。赤レンガ博物館が大規模改修工事中、展示品の一部はこの舞鶴市市政記念館に展示されました。
 ホールは、絵画などの展示や音楽、演劇の発表などの場として利用できるように吹き抜けの煉瓦空間を整備しました。約200人収容のコンサートなどが開けます。舞鶴市の歩みやベルリン五輪棒高跳びに出場し友情のメダルで有名になった大江季雄選手なども紹介しています。



赤レンガ博物館
あかれんがはくぶつかん
京都府舞鶴市浜2011
 平成17年3月まで大規模改修工事を行なっていました。この赤れんが博物館建物は明治36年(1903)に旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫として建設されたものだそうです。
 現存する本格的な鉄骨レンガ造りの建物としては我が国最古級のものだそうです。赤レンガ倉庫の一角を利用してジャズコンサートなども開かれてきているそうです。



舞鶴引揚記念館
まいづるひきあげきねんかん
京都府舞鶴市平無番地 引揚記念公園内
 戦後の昭和20年(1945)から昭和33年(1958)まで13年にわたって海外からの引き揚げ者を迎え入れた舞鶴です。
 約66万人もの引き揚げ者の歴史と平和の尊さを語り継ぐ施設として引揚記念館は創設されました。
 戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるため、中国や旧ソ連からの引き揚がの歩みや激動の歴史を映像や写真で紹介しています。
 辛く悲しい集団収容の様子も模型を使い再現しています。あわせてシベリアでの抑留生活の貴重な物品資料なども展示されています。



引揚記念公園
ひきあげきねんこうえん
京都府舞鶴市平無番地
 引き揚げ終了後、この世紀の大事業を長く後世に伝えるため、地元舞鶴市に引揚記念塔を建設して新史跡にしようという意見が出ました。
 その後、引揚記念塔建設よりも京都府と共同で、この思い出の地を、眼下に見下ろす小高い丘に引揚記念公園を建設することになりました。昭和44年(1969)11月、着工されました。そして翌年3月に完成したのです。
 頂上の平坦地西隅には、世界平和の願いをこめた矢野判三氏鋳造の「平和の群像」等身大のブロンズ像が立っています。



憩いの広場
いこいのひろば
 引揚公園内には憩いの広場が造られています。再び繰り返してはならない戦争の悲劇、悲惨な引揚げの史実を後世に伝え、平和の尊さを語り継ぎ、共に未来を見つめる場として造られたのです。
 海から遠い引揚記念館側には円形広場がありローマ時代の雰囲気です。平和の鐘塔モニュメントからは平和を求める叫びが聞こえそうです。



舞鶴公園
田辺城跡

たなべじょうし
京都府舞鶴市西舞鶴
 舞鶴は将であり歌聖といわれた細川藤孝(幽斎)が、天正8年(1580)織田信長より丹後国をあてがわれ城下町をつくったのが始まりです。舞鶴公園は田辺城の本丸があったところです。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際に家康側についた藤孝が石田三成側の福知山城主小野木縫殿助の軍に囲まれ、わずか五百人の兵で舞鶴城(田辺城)に篭城して2ヶ月余日戦いました。古今和歌集の秘伝の継承者であった幽斎は古今伝授を伝える唯一の人でした。
 古今相伝の箱に「古も今もかはらぬ世の中に心の種をのこす言の葉」と詠んで八条宮智仁親王の使者に献上したそうです。その後、後陽成天皇の勅命により囲みを解かれたのは有名な話です。



舞鶴港とれとれセンター
京都府舞鶴市下福井905
 国道175号沿いに建つ、日本最大級の海産物の物産センターです。舞鶴港で水揚げされた魚介類や、丹後地方の名産品を販売しています。海鮮市場のある道の駅でもあります。



カトリック宮津教会
かとりっくみやづきょうかい
京都府宮津市宮本501
 聖ヨハネ天主堂はフランス人のルイ・ルラーブ神父により明治29年(1896)に建てられました。外観はフランス風のロマネスク様式の構造ですが、堂内は畳敷きという和洋折衷の聖堂になっています。
 小規模ながら長崎の大浦天主堂にならぶ古いもので洋風建築として貴重な遺構です。内部は一部が中二階付きとなっています。
 ルイ・ルラーブ神父は宮津地方における伝道活動を50年にわたって行なった人物で教育振興にも献身的に努力した人として有名です。



大村邸跡の長屋門
おおむらていあと
宮津市字柳縄手
 柳縄手付近は慶長までは柳町といわれ藩政時代の武家屋敷があったところだそうです。大村邸はもと藩医小谷仙庵が住んでいたそうです。
 仙庵の次男謙次郎は明治13年に帰郷開業して立憲政党に加盟したそうです。その後旧藩士大村政智が住んだようです。昭和61年100年間維持されてきた邸宅が焼失しましたがこの長屋門だけが免れたということです。



智源寺
ちげんじ
宮津市京街道769
 赤い山門が目に鮮やかなこの寺は寛永2年(1625)宮津城主京極高広が母の追善のために建立した寺で、心庵盛悦善師を懇請して開山としたそうです。
 松渓山と号する曹洞宗の丹後地方随一の名刹です。山寺号は京極高広の母の惣寺院殿松渓智源大禅定尼から名付けられています。
 智源寺は京街道の要所に位置しているため、宮津城城下町の防衛を兼ねていたようです。京極家が寛文6年(1666)改易になった後も丹後曹洞宗のたばね役となり続け明治を迎えたそうです。
 本堂の天井には20枠に及ぶ美しい花鳥図が描かれています。これは円山応挙十哲である円山四條派と土佐派20人による傑作といわれています。



宮津シーサイドマート
京都府宮津市字浜町3012
 2階と5階のオープンデッキから宮津湾の美しい風景が堪能できる海の見えるショッピングセンターです。裏手に観光船乗り場があり、そこでフィッシングも楽しめます。



天橋立
あまのはしだて
京都府宮津市文珠
 松島、宮島と並んで日本三景の一つである天橋立は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が立てかけた天と地とを行き来していたはしごが、眠っている間に倒れてしまって天橋立になったと「丹後国風土記」には記されています。
 天橋立は、別名「天に通う神秘の橋」と言われ、この地に残る伝説には、様々な神が登場してきます。全長3.6kmにも及ぶ「海の回廊」には8千本もの松が生い茂っています。
 伊邪那岐命が天上に通うための道であった天橋立。そしてその子孫が投げた宝珠が天へと通じる御橋となり、そこを天女たちが降りてきたという神話も残っています。
 現実には宮津湾奥の野田川や天橋立北側の川から流出する土砂が、南への海流で運ばれて堆積し、氷河期と間氷期に海水面が上下した作用で現在のような珍しい地形が出来たと考えられています。まさに数千年の歳月を経てできたものなのです。
 宮津湾北岸の江尻から南西にのびる全長約3.6km、幅20mから70mの細長い砂嘴(沿岸流によって運ばれた砂礫が湾口の一方の端から海中に細長く堆積したもの)です。
 砂嘴の白砂は美しいクロマツにおおわれています。古来よりこの風景が神秘的であったため数多くの神話や伝説を生み出しています。
 「大江山 いくのの道は 遠ければ
    まだ ふみもみず 天の橋立」

 有名な小式部内侍の歌です。
 明治20年(1887)頃になると、地域の海路、陸路の整備が進むにつれ、観光資源として本格的に意識されはじめました。明治38年(1905)には内務省の地盤国有公園、大正10年(1921)には国の名勝に指定されました。
 大正13年(1924)の舞鶴・宮津間の鉄道開通が、観光客の急激な増加をもたらし、観光地としての天橋立を確立することとなりました。大正13年4月舞鶴・宮津間が開通し、翌年7月に天橋立駅が設置されたのです。
 椋平虹伝説というのがあります。虹を見た時から3日のうちにどこかで地震がおきるというのです。椋平廣吉が17歳の時、対岸の黒崎という岬の上に虹のきれはしのような雲を見つけ不思議な虹の観測をはじめたのです。彼の予知的中は全国に伝わり、以後「椋平虹」論争が繰り広げられたのです。



智恩寺
ちおんじ

 日本三文殊のひとつで通称切戸(又は久世戸)の文殊堂として知られている文殊菩薩の霊場です。天橋立と陸地は「切戸(きれど)」によって分断されているのです。智恵を授かる文殊さんとして有名で「知恵の文殊」とも呼ばれています。
 茶屋通りに面する智恩寺山門は黄金閣とも呼ばれています。朝廷より黄金を下賜されたことからこの名がついたそうです。宮津市の指定文化財です。
 山門の楼上には釈迦如来を中央に両脇士・十六羅漢を安置しています。禅宗様式・三間三戸二重門の丹後地方最大の山門です。
 重要文化財に指定されている智恩寺の多宝塔です。室町時代の明応9年(1500)丹後守護の一色氏の武将延永修理之進春信(のぶながしゅりのじょうはるのぶ)が寄進したそうです。
 春信は病気全快を感謝して、一宮別当大聖院の僧、智海(ちかい)に建てさせたそうです。2万2000uの広い境内にマッチしています。
 文殊堂内にある本尊は善財童子(ぜんざいどうじ)、うてん王を従えた文殊騎獅像です。亀岡文殊(山形県高畠町の大聖寺)、安倍文殊(奈良県桜井市の崇敬寺)とともに日本3文殊に数えられています。
 鎌倉時代の鉄湯船です。国の重要文化財に指定されています。現在は手水鉢として使われていますが昔は寺院の大湯屋において寺僧の施浴に用いられたそうです。
 鎌倉時代の石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。宝篋印陀羅尼を納める塔です。後に供養塔、墓碑塔として建てられました。呉越王の銭弘俶の八万四千塔が原型になっているそうです。ここ石塔は和泉式部の歌塚と伝えられているそうです。丹後守藤原公基が日置金剛心院で式部が書き捨てた和歌を持ち帰り、なみだの磯(涙が磯)に埋めて鶏塚としたそうです。
 その反古の一首が
「いつしかと待ちける人に一声も
   聞せる鶏のうき別れかな」
 その後、明応(1492-1501)の頃、砂に埋まった塚を掘り出して文殊堂の傍らに建てたのが今の歌塚だそうです。



丹後国分寺跡
たんごこくぶんじあと
京都府宮津市府中国分
 天平13年(741)聖武天皇によって国分寺建立の詔が出されました。丹後国分寺跡は現国分寺の南に位置していて、金堂、塔、中門など礎石が残っています。
 丹後国分寺は名勝天橋立を阿蘇の海を隔てて正面に一望のもとにみる台地の上に建立されたのです。雪舟の「天橋立図」にも本堂と五重塔が描かれています。


国分寺
 現在の国分寺は江戸時代に再建されました。丹後国分寺再興縁起や丹後国分寺跡から出土した瓦、木造毘沙門天面などを所蔵しているそうです。


京都府立丹後郷土資料館ふるさとミュージアム丹後
京都府宮津市字国分小字天王山611-1
ふるさとミュージアム丹後は、丹後・丹波地域の歴史文化に関する考古・歴史・民俗資料を常設展示しています。敷地内には、丹後国分寺跡(国史跡)が所在します。
 また屋外施設として、江戸時代宮津藩の大庄屋であった旧永島家住宅(京都府指定有形文化財)を移築復元して一般公開しています。



弁天山展望台
べんてんやまてんぼうだい
 一宮籠神社の上にある府中駅からリフトまたはケーブルカー(4分)で登ると、天橋立を見下ろす有名な「股のぞき」の名所、傘松公園があります。 
 天橋立を股の間からのぞくと天地が逆転し、まさに天に架かる橋のように見えることからこの名がついたそうです。
 昔行った傘松公園の写真がありませんので、今回はすぐそばにある成相寺の上にある弁天山展望台より眺めた天橋立を載せました。



成相寺
なりあいじ
京都府宮津市成相寺339
 成相山の中腹にあり、西国三十三所第28番札所として有名な成相寺です。願い事が必ずかなう(成り相う)お寺としても知られています。
 慶雲元年(704)に真応上人が創建したと伝えられています。身代り観音とよばれる聖観世音菩薩がご本尊で美人観音としても有名です。
 「今昔物語」「群書類従」「梅沢古本説話集」「覚如上人旅日記」などに登場する古刹です。貞和4年(1348)立ち寄った覚如上人の旅日記によると諸堂宇も完備し、荘厳きわめたと記されています。
 餓死寸前の僧が食べ物をお恵みくださいと本尊に祈ると堂の外に猪が倒れていたそうです。その腿の肉をそいで飢えをしのいだそうです。後日堂内を見ると本尊の左右の腿が切り取られていたそうです。観音様が身代わりとなって助けてくれたのです。これよりこの寺を成相と名付けたそうです。
 撞かずの鐘です。鐘が鳴らずに三回も作り直しをして寄進を求めました。鋳造中に、長者の子供が誤って坩堝に転落して亡くなってしまいました。この母親は寄進を断るために子供を差し出すと言っていたのです。完成した鐘を撞くと子供の泣き声が聞こえ、それ以来、その鐘は撞かずの鐘になったというのです。
 雪舟筆「天橋立図」にも描かれた五重の塔は平成12年(2000)に完成し平成五重塔と呼ばれ趣を添えています。
 本堂は正面に千鳥破風を持つ入母屋造りで、天文17年(1548)に落雷のため焼失し、その後に再建されました。本堂内陣には左甚五郎作の「真向きの龍」といわれる龍の彫刻があります。境内には「底無しの池」などもあります。



元伊勢籠神社
もといせこのじんじゃ
京都府宮津市大垣
 籠神社(このじんじゃ)は、大化改新以後に与佐宮を籠宮と改め、奈良時代の養老3年(719)に現在の地に社殿を移し、元の地を奥宮真名井神社としたそうです。10世紀頃丹後一の宮に定められたようです。丹後第一の大社です。
 籠神社の歴史は神代の時代までさかのぼるそうです。ここは伊勢神宮の元になったとされています。伊勢神宮はここから伊勢へ移されたので、籠神社は元伊勢ともよばれているのです。
 神殿前の石段の脇にある狛犬は、鎌倉時代のもので、石の狛犬では日本一とされ重要文化財です。作者の一心で魂の入った狛犬が、元伊勢詣りの参拝者などを驚かせたそうです。
 親の仇討ちで潜んでいた岩見重太郎がこのことを聞き鎮霊を決意して待ち構えていたそうです。音の方向に剛刀を一撃すると石の狛犬の前足が切れて出現が止んだいう伝説が残っています。
 ここには日本最古の伝世鏡「息津鏡」「邊津鏡」が 海部宮司家に伝えられています。国宝以上に重要な神宝だそうです。国宝系図に天祖からこれらの鏡を授かったと書かれていて、その素性の正しさを表しているそうです。
 神明造の本殿の高欄上に「五色の座玉」という飾りがあります。五行を示す、青(緑)・黄・赤・白・黒の五色の座玉です。伊勢神宮御正殿と、この籠神社のみに許されているものだということです。
天照大神和魂社
 本殿と摂社真名井神社本殿は天保3年(1832)に建造されたものです。神明造りの拝殿、幣殿、神撰所などは昭和3(1928)から3年かけて建造されたそうです。
春日大明神社
 倭宿禰命です。今の海部(あまべ)宮司家4代目の祖だそうです。永く宮司をつとめる彦火明命を始祖とする海部氏の系図は国宝に指定さており、この付近一帯の海民の首長であったと考えられます。
 水琴窟です。平成16年台風23号のため聞くことができませんでした。
 籠神社の例祭は4月24日の葵祭で、丹後の大祭の一つに数えられています。



天橋立観光船
 丹後海陸交通の宮津天橋立行きの観光船乗り場一の宮駅です。双胴船かもめ号が就航しています。



伊根湾めぐり観光船
 伊根湾は丹後半島の東岸にあります。
 波静かな内海で湾口には緑に包まれた青島が浮びます。



伊根の舟屋
いねのふなや
京都府与謝郡伊根町
 全国的にも有名な舟屋の街並みです。伊根湾の5kmにも及ぶ周囲に、昔ながらの約230軒の舟屋が建ち並んでいます。映画「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」の舞台となり一躍有名になりました。
 舟屋とは民家の一階海側に船倉等が付いた家屋のことです。古くから漁業を営んできた伊根の人々の生活の知恵です。伊根は京都府で一番の漁獲高を誇っています。ここでとれる伊根ブリは特に有名です。
 NHKドラマ「ええにょぼ」でも舞台となりました。阪東英二の素人っぽさが印象に残っています。戸田菜穂の初々しさも覚えています。
 漁民は海岸線より20mほど上の山際に住んでいたようですが、漁業を営む上で便利な海岸近くをおりてきて、山ぞいに母屋を建て、海岸に舟小屋をつくり、すぐに海に出られるようにと考えたそうです。
 潮の干満の差は年間を通して5、60cmと少なく、海が急に深くなっているので、舟の出し入れに便利だったようです。舟屋の集落ができた要因です。
 道の駅「舟屋の里伊根」から見た景色です。伊根湾を一望できるビューポイントになっています。



経ヶ岬灯台
きょうがみさきとうだい
京都府京丹後市丹後町袖志
 丹後半島の最北端の海抜140mの断崖絶壁の途中に、経ヶ岬灯台があります。日本海の荒波が白いしぶきをあげています。
 遠くには若狭の連山が見えます。能登半島まで見える日もあるということです。灯台の下は風光明媚な岩がいくつもあり磯釣りにも格好の場所でもあるということです。
 経ヶ岬灯台は京都百景にも選ばれています。全国に6つしかない最高級・第一等レンズ(フランス製)を使用しています。光度77万カンデラで日本3大灯台の一つにもなっています。
 この経ヶ岬灯台は「新・喜びも悲しみも幾年月」の舞台になりました。55km先まで届く豊富な光量で、若狭湾や日本海を行き交う船舶の安全を明治38年(1898)からずっと毎日守り続けているのです。
 昔たちの悪い悪竜が暴れまわったので文殊菩薩がお経で教化させました。そして、二度と再び悪竜にならないように一万巻のお経を納めたことから経ヶ岬という名前がついたそうです。



丹後松島
たんごまつしま
京都府京丹後市丹後町此代(このしろ)
 平海水浴場一帯の海岸線は、日本三景松島に非常に似ていることから、丹後松島と呼ばれています。
 青い海面に点々と松の緑に包まれた大小の島々が連なっています。一幅の絵のように見事な景観を示しています。
 ここから1km北には犬ヶ岬の奇勝があります。岬の形が犬に似ているところから名づけられたそうです。
 丹後には浦嶋伝説があります。海岸に立っているとわかる気がします。浦嶋子つまり浦嶋太郎は丹後の人だと、日本最古の記述である「日本書紀」には記されています。
 浦嶋子は亀の化身である女性と蓬莱山へ行き3年の結婚生活後故郷に戻ってきます。そして玉手箱を開いてしまうという記述は「丹後国風土記」にもあるそうです。



屏風岩
びょうぶいわ
京都府京丹後市丹後町筆石
 国道178号を東に走ると筆石の海岸に屏風岩が見えます。打ち寄せる日本海の荒波に削られて海中から屏風のように立ち上がっています。屏風岩は高さ13mもあるそうです。悠々とそびえ立つ姿は力強くとても美しく圧巻です。
  屏風岩は海食崖を形成する網野累層の白っぽい凝灰岩堆積後、中新世末に貫入した堅固な石英安山岩の岩脈が、選択的な海食により削り残され陸地から離れて岩として残されたものだそうです。



琴引浜鳴き砂文化館
京都府京丹後市網野町掛津56
 ここは世界で初めての鳴き砂をテーマにした体験学習施設だそうです。財団法人日本ナショナルトラストが整備を進めている全国6番目のヘリテイジセンターとして建設されました。
 設計は、和風建築の第一人者である吉田桂二氏によるものです。鳴き砂で有名な琴引浜のすぐ近くにあります。鳴き砂の体験コーナーがあり、浜辺ではできない珍しい装置を使った鳴き砂も体験できます。



琴引浜
ことひきはま
京都府京丹後市丹後町網野町
 琴引浜は、全長が約1800mあり、そのすべてが鳴き砂の浜です。歩くとキュッキュッと音が鳴るので「鳴き砂」といわれるのです。日本の白砂青松百選、京都府の自然二百選、残したい日本の音風景百選、日本の渚百選にも選ばれています。
 鳴き砂の音が琴を弾いているように聴こえることから琴引浜という名が付いたそうです。丹後田辺城主であった細川幽斎や、その息子忠興の妻細川ガラシャが琴引浜や太鼓浜を和歌に詠んでいます。
細川幽斎
「根上りの 松に五色の 糸かけ津
 琴引き遊ぶ 三津の浦浜」

細川ガラシャ
「名に高き 太鼓の浜に 聞く秋の
 遠にも渡る 秋の夕さめ」



福知山城
ふくちやまじょう
京都府福知山市内記5
 福知山は、丹波、丹後、但馬をおさえる交通の要衝の地です。福知山城は天正期様式の天守閣で明智光秀が築いたのが始まりとされています。現在の建物は昭和61年(1986)に再建されたものです。 
  天正7年(1579)織田信長の命を受けた明智光秀は横山大膳信房が守る横山城を陥落させ、新たに城を築き、横山を改め福智山としたのです。後に自ら指揮して福知山城を築城したそうです。
 天正10年(1582)の本能寺の変の後は、秀吉の妻の叔父杉原家次が2万石で入封しました。病没後土豪から出世した小野木重勝が天正13年(1585)3万石の城主になりました。 
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍についたため、田辺城の細川忠興に攻められ自刃しました。苛酷な有馬検地で有名な有馬豊氏が20年支配し、元和7年(1621)亀山からきた岡部長盛が5万石で入封しました。
 寛永元年(1624)稲葉紀通が城主となりましたが発狂し家臣などを殺害したため除封、松平忠房の後に常陸土浦から来た朽木植昌が3万2千石で入封し、明治まで13代200年間統治しました。
 城は明治5年(1872)廃城令で取り壊されてしまいました。昭和61年(1986)天守閣、小天守、続櫓などが再建されました。天守閣は郷土資料館になっています。 
 福知山城は石垣に特徴があります。粗野に積まれた「野面積み」の石垣のなかに、中世の宝篋印塔や五輪塔の礎石などが185個も用いられているのです。
福知山市美術館



観音寺
かんのんじ
京都府福知山市観音寺1067
 養老5年(720)中国の僧、法道仙人の創建と伝えられています。鎌倉時代には将軍の加護を受け繁栄しましたが、応仁の乱後、寺領を土豪に奪われ、天正年間に明智光秀の兵火で全山焼失したそうです。
 境内には本堂、観音堂、仁王門が立ち丹波の古刹の示しています。本尊は現世の災いを取り除き奇跡を持って救うという千手千眼観音です。6月から7月にかけて1万本のアジサイの花で彩られます。


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